第14話 王女、ちょっとだけ変わる
レフィア村から戻った翌朝、王城の空気はいつも通り静かだった。
静かで、整っていて、隙がない。
朝の光が高い窓からまっすぐ差し込み、磨かれた床に白く伸びる。侍女たちの歩く音は小さく、侍従たちの動きにも無駄がない。花瓶の花は朝のうちに整えられ、廊下の隅の燭台にはきちんと新しい油が差されている。
王城は今日も、完璧なくらいに「ちゃんとしていた」。
けれど、その“ちゃんとしている”の中に、るなは昨日までと少しだけ違うものを感じていた。
「……なんか、見られてるだけじゃなくなってない?」
朝食のあと、五人で通された控えの間へ向かう途中、るなが小声で言った。
「何が」
えれなが訊く。
「いや、前は“あれが噂の”って感じだったじゃん」
「うん」
みうが頷く。
「今日は?」
「なんか、“どうなるんだろう”って見られてる感じ」
「抽象的すぎ」
えれなが言う。
「でも、わかるかも」
みうは少し考えながら続けた。
「昨日までより、侍女さんたちの目が怖くない」
「それ」
ももかが食いつく。
「ただの野次馬じゃなくて、“ちょっと気になる”の目になってる」
「違いわかるんだ」
るなが笑う。
「ギャルだから?」
「何その万能説明」
えれなが呆れる。
ジェシカは廊下の先へ目を向けたまま、淡々と言った。
「城の中にも、変わりたい人はいるんでしょ」
「……」
「ただ、先に動く理由がないだけ」
「ジェシ、それ普通に刺さる」
るなが言う。
「そういう日」
「最近ずっとそう」
そのまま歩いていると、前方から侍女が一人、やや早足で近づいてきた。見覚えのある顔だ。王女エリシアに仕えている年若い侍女の一人で、いつも王女の少し後ろに控えている印象の人だった。
「皆さま」
侍女は立ち止まると、一礼した。
「王女殿下が、皆さまに少しだけお時間をいただきたいと」
「おっ」
ももかが即座に反応する。
「王女さま」
「今?」
えれなが訊く。
「はい。もしご都合がよろしければ、朝の支度が済んだあとで、と」
「行く」
るなが即答する。
「早」
えれなが半分呆れた声を出す。
「でも行くけど」
「行くんじゃん」
「行くわよ。ここで断る理由もないし」
みうは少し嬉しそうに笑った。
「王女さま、自分から呼んだんだね」
「うん」
るなも頷く。
「昨日よりさらにちょっと変わった感じある」
「たぶん、そういうことだろうね」
ジェシカが言った。
◆
エリシアに呼ばれて通されたのは、以前会った小部屋よりも、もう少しだけ私的な雰囲気のある部屋だった。
王女の支度部屋の隣にある、身内だけが入る控えの間らしい。大きすぎない鏡台。小ぶりの丸テーブル。窓辺には白いレースの薄布が垂れ、朝の光がやわらかく広がっている。机の端には、読みかけらしい本が伏せられていた。
そこにいたエリシアは、いつもより少しだけ落ち着かない顔をしていた。
だが、緊張で固まっている感じではない。むしろ何かを決めて、それを口にする前の顔だ。
「おはようございます」
エリシアが言う。
「おはよー」
ももかが返し、
「おはよう」
るなも続く。
王女は一度、侍女たちへ目を向けた。
「少しの間、外していただけますか」
「……はい、殿下」
侍女たちは一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐに頭を下げて部屋を辞した。扉が閉まると、そこには王女と五人だけが残る。
るなたちはなんとなく顔を見合わせた。
王女が、自分から侍女を外した。
その行動だけで、昨日までとは違う。
「どうしたの?」
るなができるだけ軽く聞く。
エリシアは、少し息を吸ってから言った。
「……お願いがあるのです」
「お願い?」
みうがやわらかく聞き返す。
エリシアは、頬を少しだけ染めた。
「その……髪を」
「髪!?」
ももかが目を輝かせる。
「やる!?」
「ももか」
えれながたしなめるが、声に怒気はない。
「落ち着いて」
「でも王女さま自分から言った!」
「言ったけど!」
エリシアは少し恥ずかしそうに、それでもちゃんと続けた。
「昨日、お話を伺って……その、少しだけでも、自分で選んでみたいと思ったのです」
「……」
「今すぐ大きく変えることは難しいです。王女としての立場もありますし、周囲の目もあります。けれど」
そこでエリシアは、るなたちを順に見た。
「少しだけ、雰囲気を変えてみたいのです」
その言葉を聞いた瞬間、るなは胸の中で「うわ、来た」と思った。
これだ。
こういう小さいけど自分で踏み出す一歩を、王妃はきっと待っていたのだろう。
みうが最初に微笑んだ。
「もちろんです」
「え」
エリシアが少し驚く。
「そんな、すぐに……」
「すぐにですよ」
みうは本当にやさしい顔をしていた。
「こういうのは、“やりたい”って思った時がいちばん大事だから」
「みう、こういう時ほんと強い」
るなが横で言う。
「たぶん美容の話になると一番頼れる」
「美容の話じゃなくても頼れるけど?」
ももかが自分を指す。
「いや、ももかはテンションの押しが強いから」
「それも大事じゃん」
「大事だけど」
えれなが苦笑する。
ジェシカは椅子の背に軽くもたれながら、エリシアを見ていた。
「大きくは変えなくていいんでしょ」
「はい」
エリシアが頷く。
「なら、前髪と横だけでだいぶ変わる」
「よこ?」
「顔まわり」
ジェシカが自分の髪を指で示す。
「ここに少し動きつけるだけで、印象が固すぎなくなる」
王女はそれを真剣に聞いている。
その姿がなんだか新鮮で、るなはつい笑いそうになった。
「王女さま、めっちゃ勉強熱心じゃん」
「え」
「いや、こないだからそうだけど。興味あることにはちゃんと前のめりだなって」
「……そう、でしょうか」
「そうだよ」
るなはきっぱり言う。
「たぶん今まで、それ出していい場所が少なかっただけ」
エリシアは、その言葉に少しだけ目を伏せた。
「……かもしれません」
小さいけれど、ちゃんと認める声だった。
◆
そこからは、もはや小さな女子会だった。
ももかが「まず絶対、今のままでも王女さまはかわいい」と大前提を何度も確認し、みうが「でもそれとは別で、柔らかさを足すことはできる」と真面目に補足し、ジェシカが「盛るんじゃなくて抜く」と静かに方向性を決め、えれなが「周囲に不自然と思われない範囲で」と現実的な線を引く。
るなはというと、鏡の前に座ったエリシアの表情を見ながら、ちょこちょこ口を挟んでいた。
「今の王女さまって、“ちゃんとしすぎてるきれいさ”なんだよね」
「ちゃんとしすぎてるきれいさ」
エリシアがそのまま繰り返す。
「なにそれ」
「褒めてる」
るなが言う。
「でも、ちょっとだけ“抜け”がある方が、近づきやすくなる」
「るなの表現ってたまに雑に核心つくよね」
えれなが言う。
「たまにじゃなくていつも」
ももかが当然のように言う。
「それは違う」
るなが即否定した。
みうがエリシアの髪へそっと手を伸ばす。
「少しだけ触ってもいいですか?」
「はい」
エリシアは緊張しながらも頷いた。
みうの手つきは丁寧だった。結い上げられている髪の一部をやさしく緩め、顔の横に少しだけ柔らかい束を残す。ほんのわずかな変化だ。でも、それだけで雰囲気が変わる。
「わ」
ももかが声を上げる。
「めっちゃいい」
「うん」
ジェシカも頷く。
「固さが抜けた」
「ほんとだ……」
るなも素直に感心した。
「なんか、“近づけそう”感が出た」
「その言い方」
えれなが笑う。
エリシア自身は、最初は鏡を直視できずにいた。
「……変、ではありませんか」
小さな声で聞く。
「全然」
みうが即答する。
「むしろ、今までがちょっと“王女らしさに寄せすぎ”だっただけです」
「そうそう」
ももかも横から強く頷く。
「王女さまって、ちゃんとしてるからこそ、ちょっと崩した方が破壊力出る」
「言い方!」
えれなが反射で突っ込む。
「でもわかる」
るなが続ける。
「ギャップってやつ」
「ぎゃっぷ……」
エリシアはまだ慣れない言葉を口の中で転がす。
ジェシカが後ろから言う。
「あと、耳元に少しだけ飾りあるといいかも」
「飾り?」
「大きくなくていい。揺れないやつ」
「派手すぎない範囲で、ね」
えれなが補足する。
ももかが自分の髪飾りの中から比較的控えめなものを選び出す。
「これ、今日だけでも試す?」
「えっ」
エリシアが目を丸くする。
「でも、それは……あなたのものでは」
「いいよいいよ」
ももかが笑う。
「貸すだけだし」
「ももかにしては太っ腹」
るなが言う。
「何その言い方! うち普通に優しいし!」
「まあ優しいのはそう」
えれながあっさり認めた。
エリシアの髪に、ほんの小さな飾りが添えられる。
本当にわずかな変化だ。知らない人が見たら気づかないかもしれない。けれど、五人にはわかった。
空気が変わった。
「……あ」
みうが鏡越しにエリシアを見る。
「王女さま、自分で見て」
「……はい」
エリシアが、そっと鏡を見る。
しばらく、黙る。
その沈黙が、少し長い。長いからこそ、るなたちは誰も余計なことを言わなかった。
やがて、エリシアの目がほんの少しだけ見開かれる。
「……わたくし?」
「うん」
るなが言う。
「王女さま」
「かわいくない?」
ももかが聞く。
「自分で言うの、ちょっと難しいですけど……」
エリシアは少し困ったように笑って、
「……好き、かもしれません」
その言葉が出た瞬間、るなたちは一斉に顔を見合わせた。
「出た!」
ももかが抑えきれずに言う。
「“好き”って言った!」
「ももか、うるさい」
えれなが言いながらも笑っている。
「でも、これは大きい」
「うん」
みうの目も嬉しそうだった。
「自分で“好き”って言えたの、すごくいい」
「王女さま、えらい」
るなが本気で言う。
「そんなことで……」
「そんなことじゃないよ」
るなは首を振る。
「自分で選んで、自分で好きって言うの、めちゃくちゃ大事だから」
「……」
「たぶん今まで、そういうの全部“正しいかどうか”で見てたでしょ」
るなが続ける。
「でも今日は、“好きかどうか”で言えた」
「……はい」
エリシアは少しだけ頬を染めながら頷いた。
その時、扉が軽く叩かれた。
「エリシア」
王妃の声だ。
「お母さま」
エリシアが返すと、扉が開いた。セレフィーナは部屋へ入るなり、一瞬だけ空気の変化を察したように目を細める。
そして、鏡の前の娘を見た。
ほんの少し、髪が柔らかく落ちている。耳元には控えめな飾り。たったそれだけ。けれど、昨日までよりずっと近づきやすい雰囲気になっていた。
王妃は数歩近づき、娘の顔を見つめた。
「……あら」
その一言に、エリシアの肩がぴくっと揺れる。
「変、でしょうか」
「いいえ」
王妃はすぐに言った。
「とてもよく似合っています」
「……っ」
エリシアの顔が、ぱっと明るくなる。
その変化を見て、るなは心の中で「うわ、親の一言つよ」と思った。
王妃は鏡越しに娘の目を見たまま、静かに続ける。
「自分で選んだのですね」
「はい」
「どう感じますか」
「……少し、落ち着きません」
エリシアは正直に答えた。
「でも、嬉しいです」
「なら、それがいちばん大事です」
王妃はやわらかく微笑んだ。
「お母さま」
「なあに」
「……こういうふうに、少し変えてみても、よろしいのでしょうか」
その問いは、許可を求めるもののようでいて、同時に自分の希望を言葉にするものでもあった。
王妃は迷わなかった。
「もちろん」
「……」
「むしろ、もっと早くそう言ってほしかったくらいです」
「お母さま……」
その空気に、五人は少し黙る。
ああ、この親子はちゃんと大切に思い合っていたのだ。ただ、王城の空気の中で、それを言葉にする機会が少なかっただけで。
王妃はそこで五人へ向き直る。
「ありがとうございます」
「いえ」
みうが少し照れながら答える。
「私たちも楽しかったので」
「楽しかったです」
ももかが言う。
「王女さま素材が良すぎて」
「言い方」
えれながすかさず突っ込む。
「でも、そうね」
王妃がさらりと受ける。
「それは否定しません」
「お母さま!」
エリシアが真っ赤になる。
そのやり取りに、部屋の空気がふわりと軽くなる。
王妃は少ししてから、穏やかに言った。
「ちょうど良い機会です。昼の席で、エリシアにも少し話してもらいましょう」
「え」
エリシアが固まる。
「お父さまに?」
「ええ」
王妃はにっこり笑う。
「今日の村の報告のあとにでも、“民の暮らしをもっと知りたい”と」
「お母さま、それは急すぎませんか」
「急ではありません」
王妃は落ち着いていた。
「昨日も今日も、あなたはもうその気持ちを持っているのでしょう?」
「……」
「なら、言葉にしてごらんなさい」
エリシアは戸惑っていた。けれど、その戸惑いは“やりたくない”の顔ではなかった。“怖いけど、言いたい”の顔だ。
るなはその表情を見て、思わず口を開く。
「王女さま」
「はい」
「今日言えたら、でかいと思う」
「でかい」
エリシアがそのまま繰り返す。
「うん」
るなが頷く。
「絶対。だって今まで、たぶんそういうの飲み込んできたじゃん」
「……はい」
「でも、王女さまが知りたいって思ったことをちゃんと口にしたら、きっと変わる」
「何が」
「周りの見方も、自分の中も」
ももかが大きく頷く。
「それそれ! まじで一歩って大事だし」
「今日は妙にまとも」
えれなが言う。
「失礼」
ジェシカが静かに付け足した。
「昨日までの王女さまなら、黙ってた」
「……」
「でも今日は、髪も変えた」
ジェシカは鏡の中のエリシアを見る。
「なら、言葉も少し変えられるでしょ」
「ジェシ……」
るながちょっと感心した声を出す。
「ほんと最近ずっといいこと言う」
「最近、じゃない」
「はいはい」
エリシアはしばらく考えて、それから、ゆっくり頷いた。
「……言ってみます」
その言葉は小さかった。
でも、確かだった。
◆
昼の席は、思っていた以上に緊張した。
王と王妃、王女、それから五人。いつもならここに宰相や文官も入ることがあるが、今日は家族と客人に近い空気だった。とはいえ相手は王である。重圧がないはずもない。
料理が運ばれ、静かな会話がいくつか交わされる。
エリシアは最初、いつも通り慎重に受け答えしていた。けれど、るなたちは気づいていた。彼女の指先がいつもよりわずかに落ち着かないことに。言おうとしている。タイミングを測っている。
王レオンハルトは、その髪の変化にすぐ気づいたらしかった。
「エリシア」
「はい、お父さま」
「髪型を少し変えたのか」
王の問いに、エリシアの肩が小さく揺れる。
王妃は何も言わない。ただ見ている。
るなは、思わず自分まで緊張していた。
「……はい」
エリシアは答えた。
「少しだけ」
「そうか」
王はそれだけ言って、少し娘を見た。
「よく似合っている」
「……!」
エリシアの目が見開く。
るなは心の中で「うわ、父つよ」と思った。これもまた、親の一言だ。
その一言に背中を押されたのか、エリシアは呼吸を整え、それから王をまっすぐ見た。
「お父さま」
「なんだ」
「わたくし……もっと、民の暮らしを知りたいです」
沈黙が落ちる。
重い沈黙ではない。でも、軽くもない。王が娘の言葉を受け止めている時間だ。
エリシアはそこで止まらなかった。
「レフィア村のお話を聞いて、王都の市場のお話を聞いて、私は、知らないことが多すぎると思いました」
「……」
「今まで、城の中からしか見ていませんでした。けれど、それでは足りないと感じました」
「エリシア」
王が娘の名を呼ぶ。
「はい」
「それは、お前自身の言葉か」
王の問いは静かだった。
エリシアは、一瞬だけ息を詰める。
けれど、逃げなかった。
「はい」
はっきりと言う。
「わたくし自身の、言葉です」
その瞬間、るなは胸の奥で何かがほどけるのを感じた。
言えた。
ちゃんと、言えた。
王はしばらく娘を見つめていたが、やがてゆっくり頷いた。
「……そうか」
その一言は短い。
でも否定ではない。
「ならば、少しずつ知ればよい」
王は続けた。
「急には無理でも、お前がそう望むのなら、道は作ろう」
「お父さま……」
エリシアの声が少しだけ揺れる。
王妃は、そこでようやく穏やかに微笑んだ。
るなたちは口を挟まなかった。挟めなかった。これはもう、親子の時間だった。
ただ、ももかだけがテーブルの下でこっそり拳を握っていた。みうも嬉しそうに目を細めている。えれなは静かに息を吐き、ジェシカはほんの少しだけ口元を上げた。
るなは思う。
村で子どもが笑ったことも大きかった。
でも今ここで、王女が自分の言葉を王に届けたことも、たぶん同じくらい大きい。
それは戦いじゃない。派手な事件でもない。
けれど、こういう小さい変化が積み重なって、世界って少しずつ動くのかもしれない。
昼の光が窓から差し込んで、エリシアの髪をやわらかく照らしていた。
ほんの少し髪型を変えただけ。
でも、その“ほんの少し”は、王女の中の何かを確かに動かしていた。
王妃が食後に立ち上がる前、五人へ視線を向けて言った。
「ありがとうございました」
「いえ」
みうが答える。
「王女さまが、自分で決めたことなので」
「そうね」
王妃は微笑む。
「でも、背中を押してくださったのは確かです」
その言葉に、るなは少しだけ照れたように笑う。
王女エリシアはまだ頬を染めたままだった。けれど、その表情には昨日までの“遠慮ばかりの姫”ではない、ほんの少しだけ前へ出た女の子の顔があった。
それを見て、るなは心の中でそっと思う。
ちょっとだけ変わる。
それってたぶん、思ってるよりずっと強い。




