第11話 ケンカしてる場合じゃないっしょ
レフィア村の空気は、近くにいるほど痛かった。
王都の市場が「沈んでいる」のだとしたら、この村は「張りつめている」。静かではある。けれどその静けさは、疲れ果てて音が消えたものではなく、下手に何か言えばすぐ割れそうな薄い氷みたいな静けさだった。
小屋の外へ出た五人は、広場の端にいる子どもたちを見つめながら、いったん立ち止まった。
ももかが、小声で言う。
「……どう入る?」
「普通に行くしかなくない?」
るなが答える。
「でも普通がわかんない」
「それな」
ももかが即座に頷く。
「こういう時の普通って何」
「無理に笑わせようとしない」
ジェシカが淡々と言う。
「向こうがこっちを見るまで、こっちから“楽しいでしょ?”を押さない」
「……うん」
みうが頷いた。
「まず同じ高さに行こう」
「同じ高さ?」
るなが見る。
「立ったまま話すと怖いから。しゃがむとか、座るとか」
「みう、そういうのほんと上手いよね」
えれなが小さく言う。
「いや……子ども好きなだけ」
「それも才能でしょ」
広場の脇、古い切り株の近くに、昨日も見えた兄妹らしき二人がいた。姉は膝を抱え、弟はその横にぴったりくっついている。さらに少し離れたところには、別の子どもが三人。みんな、こちらを気にしていないふりをしながら、気にしている。
るなたちはゆっくり近づいた。
みうがいちばん先に、少し距離を空けた場所でしゃがむ。
「こんにちは」
声はやわらかい。大きくない。押しつけない。
女の子はびくっとして、すぐには返事をしなかった。弟の方が姉の袖をぎゅっと掴む。
ももかも、今日は珍しく小さな声で言った。
「……急にごめんね。怖くないよ、とはすぐ言えないけど、取って食べたりはしないから」
「最後の一言いらないのよ」
えれなが小声でつっこむ。
「いや、でもさ」
「気持ちはわかるけど言い方!」
そのやりとりに、女の子の目が少しだけ動いた。
ほんの少しだが、警戒一色ではなく、「何その会話」という色が混じる。
るなはその変化を見逃さず、少しだけ口元をやわらげた。
「うちら、王都から来たんだ」
できるだけ簡単な言葉で言う。
「見に来たっていうか……話しに来たっていうか」
「雑」
ジェシカがぼそっと言う。
「わかってる」
女の子はようやく、小さく口を開いた。
「……なにしに」
声はかすれていた。ずっと大きな声を出していない子の声だ。
「それを今、考えてるとこ」
るなが答える。
「え」
ももかが一瞬固まる。
「るな、それ正直すぎ」
「でも本当だし」
「まあそうだけど」
みうが少し困ったように笑う。
「ごめんね。まだ、何ができるか決まってないの」
「……」
「でも、ここにいる人たちが大変そうだって聞いて」
「それで?」
女の子の目は鋭くはない。でも、試している感じがあった。
るなは正直に言うしかないと思った。
「それで、見たら、ほんとに大変そうで」
「それで?」
「……笑ってないなって思った」
その言葉に、女の子は少しだけ視線を逸らした。
弟が、るなたちではなく地面を見ている。
みうがそこで、地面に手をついて本当に座り込んだ。きれいな羽織の裾が土につくのも気にしない。
「疲れるよね」
みうがぽつりと言う。
「大人がずっとぴりぴりしてると」
「……」
「静かにしてた方がいいかなって思っちゃうよね」
「……うん」
その返事は、本当に小さかった。
でも出た。
ももかが一瞬だけ目を潤ませそうになって、それを必死でこらえる。泣くのは違う。今ここでやるのは絶対違うと、本人もわかっているのだろう。
「名前、きいていい?」
みうが訊く。
「……リナ」
「そっちは?」
ももかが弟を見る。
「……ユト」
今度は姉が代わりに答えた。
「リナちゃんとユトくんか」
るなが頷く。
「いい名前」
リナは少しだけ不思議そうな顔をした。
たぶん、ここしばらく、そういう普通の会話をあまりしていないのだ。
その時、小屋の方から少し強い声がした。
「だから、これ以上は分けられないと言ってるだろう!」
全員の肩がびくっと揺れる。
るなたちは同時に振り向いた。集会小屋の前で、村人らしき男と、避難民らしい女が言い争っている。周囲の大人たちもぴりついた顔で見ているが、間に入る者はいない。
「始まった……」
リナが小さく言う。
その声に、るなたちは顔を見合わせた。
ジェシカが立ち上がる。
「行く?」
「行くしかなくない」
るなが立つ。
「でも、雑に入らないで」
えれなが強く言う。
「今のところ、一番危ないのそこだから」
「うん」
るなも頷いた。
五人は小屋の方へ向かう。
言い争っているのは、村の男と、避難してきたらしい女だった。女の後ろには痩せた子どもが二人いる。男の方も必死の顔だ。
「うちの井戸の水だぞ! これ以上、外から来た奴らに優先して回せるか!」
「優先しろなんて言ってない! 昨日から子どもが熱を出してるのよ!」
「みんな同じだ!」
「同じじゃない! あんたたちはまだ家があるでしょう!」
「だからなんだ、こっちだって食い繋ぐので精一杯だ!」
声のぶつかり合いは、もうすでに理屈だけじゃない。
恐怖と疲労と苛立ちがそのまま言葉になっている。
るなは一歩踏み出しかけて、えれなに腕を掴まれた。
「待って」
「でも」
「今のまま入ると、どっちの敵にもなる」
「じゃあどうすんの」
るなの声も少し尖る。
「見てるだけ?」
「違う」
えれなは短く息を吐く。
「論点を切らせる」
その時、ジェシカが先に動いた。
するりと二人の視界の間に入るような位置へ立つ。真正面ではない。ぶつからず、でも無視もしにくい角度。
「ちょっと待って」
声は大きくない。
なのに二人が思わずそちらを見るのは、声の温度が変わったからだろうか。
「誰だ」
村の男が苛立ったまま言う。
「王都から来た、よくわかんない連中」
ジェシカが平然と答える。
「でも今、そこ大声でやると、たぶんどっちも損する」
女が眉をひそめる。
「なによ、わかったようなこと」
「わかってないよ」
ジェシカはあっさり言う。
「だから止めに来た」
そこで、るなが前へ出た。
「今ケンカしてる相手、ほんとに敵?」
その言葉に、場が一瞬だけ静まる。
村の男が目を剥く。
「は?」
「だって、水足りないのも、食べるもの足りないのも、あんたたち同士のせいじゃないでしょ」
「それは……」
「こっちは余裕ないんだよ!」
女が叫ぶ。
「わかるよ」
るなも即答した。
「見てたらわかる。余裕ないの」
「だったら!」
「でも、余裕ない相手にぶつけても、余裕は増えないじゃん」
綺麗事に聞こえるかもしれないと思った。
実際、きっと綺麗事だ。
でも、それでも言わなきゃと思った。
えれながそこで前に出て、落ち着いた声で言う。
「今争ってるの、水そのものじゃなくて“誰が先か”ですよね」
男と女、両方がそちらを見る。
「で、それを決める基準が曖昧だから揉める」
「曖昧って」
男が言い返す。
「昨日から話し合ってる!」
「話し合って決まってないなら、仕組みがないってことです」
えれなの声は鋭いが、感情で刺してはいない。
「その場の声の大きさで決めてたら、毎回こうなる」
村長らしき男が少し離れた場所からそれを聞いていた。表情が痛いほど重い。たぶん、それは分かっていたのだ。でも、決め切れずにここまで来たのだろう。
みうが、避難民の女の後ろにいる子どもたちを見て、静かに言った。
「熱がある子、どの子ですか」
女がはっとした顔をする。
「え」
「顔赤いの、そっちの子?」
みうはしゃがんで目線を下げる。
「見せてくれる?」
女は少し迷ったあと、小さな子の肩に手を添えた。たしかに頬が赤い。
「……夜から熱くて」
その声は、さっきの怒鳴り声とは違っていた。単なる怒りじゃなく、焦りと怖さが混じっている。
「なら先にそこを共有しないと」
みうが言う。
「“避難民だから”とかじゃなくて、“熱のある子がいるから”で」
「……」
女が黙る。
ももかは、そこでようやく前に出た。
「ていうかさ!」
全員がびくっとする。
ももか自身も「あっ」となった。
「……ごめん、でかかった」
「ももか」
えれなが睨む。
「わかってる、わかってるけど!」
ももかは息を吸い込んで、少しだけ声を落とした。
「子どもたち、めっちゃ見てるから」
「……」
「今、大人が怒鳴り合ってるの、全部見てるから」
ももかの声は少し震えていた。
「うち、それが一番やだ」
その言葉に、女も男も、そして周囲の大人たちも、はっとしたように広場の端を見た。
リナやユトだけではない。さっきまで物陰にいた子どもたちが、みんなこちらを見ている。
声を出さないまま。
ただ、大人の顔を見ている。
その光景が、場の空気を少しだけ変えた。
怒鳴り合っていた男が、口を閉じる。
女も、子どもの肩に置いた手を少しだけ強く握った。
るなは、その瞬間を逃したくなかった。
「だからさ」
なるべくまっすぐに言う。
「今ここで“どっちが悪いか”じゃなくて、“どう回すか”決めた方がいい」
「簡単に言うが」
男が苦く言う。
「誰が決める」
「村長」
ジェシカが即答する。
「で、村の人と避難してきた人、両方から一人ずつ出す」
「え」
るなが見る。
「それなら“勝手に決められた”になりにくい」
「……」
村長が顔を上げた。
今まで誰もがその人を見ていたはずなのに、誰もその役目を明確に言葉にしていなかったのだろう。
えれながすぐに続ける。
「水の量、優先順位、病人や子どもがいる家、全部一回整理してください。感情で押し切る形を続けたら、毎日こうなる」
「……」
「完璧じゃなくていい。とにかく、決める形を作る」
村長は深く息を吐いた。
「……わかった」
その声は疲れていたが、さっきまでより芯があった。
「わしがやる」
「わたしたちからも、一人出します」
避難民の中年男がようやく口を開く。
「……いつまでも、こうしていても仕方がない」
村の男はまだ渋い顔をしていたが、完全に怒鳴り合いへ戻る勢いは消えていた。
るなはそこでようやく、肩の力が少しだけ抜けるのを感じる。
「……止まった」
ももかが小さく言う。
「うん」
みうが答える。
「とりあえず」
ジェシカが村長へ視線を向ける。
「今夜までに話し合える?」
「やる」
村長ははっきり言った。
「今夜、集める」
「じゃあ、その前に病人の家と子どもの数、先に見た方がいい」
えれなが即座に言う。
「水の話は感情論になりやすいから、数字と状況を一回出す」
「おぬしら……」
村長が呆然とする。
「何者だ」
「それ、最近よく聞かれる」
るなが言う。
「うちらもよくわかってない」
その返しに、近くにいた若い避難民の男が思わず吹き出した。
大きくはない。
でも、たしかに笑いに近い音だった。
その音が場を少しだけゆるめる。
村の男が、頭を掻く。
「……王都の連中ってのは、もっと偉そうで役に立たんと思ってた」
「それ褒めてる?」
ももかが訊く。
「褒めてはいない」
「じゃあ半分褒めてるやつだ」
るなが勝手に解釈する。
「お前ら本当にうるさいな」
「通常運転」
ジェシカが言った。
そこで、広場の端にいた子どもたちの中から、小さな笑い声が漏れた。
リナだった。
本当に、一瞬だけ。
でも、たしかに口元が緩んだ。
るなはその顔を見て、胸の奥がじわっと熱くなる。
大したことじゃない。
水の問題が解決したわけでもない。村の不安が消えたわけでもない。だけど、怒鳴り合いが止まり、話し合いの形ができそうになって、子どもが少しだけ笑った。
それは、この村ではきっと軽くないことだった。
えれなが小さく息を吐く。
「……ほんと、ケンカしてる場合じゃないのよ」
「うん」
るなが答える。
「だから言ったじゃん」
「言い方は雑だったけど」
「えれなにしてはデレた」
「違う」
ガルドが少し離れたところで、腕を組んだまま一部始終を見ていた。
近づいてくる足音。
「お前たち」
低い声に、五人が同時に振り向く。
「……今回は」
ガルドが言葉を選ぶように一拍置く。
「余計なことをした、とは言わん」
るなたちが少しだけ目を見開く。
「え」
ももかが言う。
「今ちょっと認めた?」
「“今回は”だ」
ガルドは険しい顔のままだった。
「常にこう上手くいくと思うな」
「わかってる」
るなが頷く。
「でも、止まったのはよかった」
「……そうだな」
その肯定は、とても小さかった。
けれど、五人には十分だった。
広場にはまだ重い空気が残っている。
でも、その中で確かに、一回、流れが切れた。
感情のぶつかり合いだけだった場に、ほんの少しだけ“考える時間”が戻った。
それだけでも、今は十分すぎるくらい大きい。
るなはリナの方をもう一度見る。
リナはもう笑ってはいなかった。でも、さっきより少しだけ、顔が固くない。
「……次」
るなが小さく言う。
「次は、子どもたちの方かな」
「うん」
ももかが頷く。
「今なら、さっきより話せそう」
「そうだね」
みうも頷いた。
「大人の空気がちょっとだけ緩んだから」
「そこ、逃さないようにしたい」
えれなが言う。
「今度はもっと静かに、丁寧に」
「了解」
るなが返す。
青い空の下、村の空気はまだ重い。
でも、その重さの中に、ほんのわずかに隙間ができた。
その隙間へ、今度は子どもたちの呼吸が少しでも戻るように。
五人は、次の一歩へ向けて静かに動き出した。




