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第9話 笑ってる場合じゃない村がある

 市場から戻ったその日の午後、五人はようやく自室でひと息つけるはずだった。


 はずだったのだが。


「……え、もう次?」


 るなは、運ばれてきた冷たい果実水を口にしかけたところでその言葉を漏らした。


 目の前には、いつもの女官。相変わらずきちんとした微笑みを浮かべているが、今日はその後ろに見慣れない若い文官まで控えている。いかにも「ちょっとしたご相談」ではなく「正式なお知らせです」という空気だ。


「はい」

 女官は穏やかに答えた。

「国王陛下がお呼びです。至急、とのことではございませんが、できるだけ早く、と」

「ほぼ至急では」

 えれなが即座に突っ込む。

「ですよね」

 ももかが真顔で頷く。

「“できるだけ早く”って大体そういうやつ」

「でも、嫌な感じする……」

 みうが小さく肩をすくめた。

「市場の件で怒られる?」

「それならさっき怒られたばっかりだし」

 るなが言う。

「追加で怒られることある?」

「あるでしょ。あんたの場合は」

 えれなが容赦なく言う。


 ジェシカは窓辺から振り返りもせず、ぽつりと呟いた。


「市場の件“だけ”じゃないかもね」


 その一言で、部屋の空気が少しだけ引き締まる。


 たしかに、王のあの顔を思い出せば、単に胃痛が増しただけでは済まない何かが起きていてもおかしくはなかった。


 るなは果実水の杯をテーブルへ戻し、立ち上がった。


「……行くか」

「行くしかないね」

 みうも小さく頷く。

「今度は何かなあ」

 ももかは不安半分、好奇心半分の顔だ。

「いい話じゃない気はする」

 えれなが低く言う。

「でも、聞かなきゃわかんない」

「うん」

 るなが返した。


     ◆


 通されたのは昨日までの応接室ではなく、もう少し広い会議用の部屋だった。


 重い木の机が中央にあり、壁には王国の地図が大きく掲げられている。赤い印や青い線がいくつも書き込まれていて、いかにも「今この国で何かが起きています」という顔をしている部屋だ。空気も、これまでより明らかに固い。


 王レオンハルトの他に、王妃セレフィーナ、宰相リヒャルト、騎士団長ガルド、文官が二人。そして珍しく、王女エリシアは同席していなかった。


 そのことが、逆に少し緊張を呼んだ。


 王妃がいるのは救いだが、王女がいないだけで部屋の柔らかさがかなり削られる。


「来たか」

 王の声は低かった。

 疲れもあるが、それ以上に緊張が混じっている。


「なにかあったんですか」

 るなが率直に問うと、宰相が眉をひそめた。だが今回は王が制しなかった。


「南東の農村地帯から、追加の報せが入った」

 王が地図の一角を示す。

「王都から馬で半日ほどの距離にある、小村レフィア。魔族の本格的な襲撃を受けたわけではない。だが、周辺の小規模被害と不作、それに避難民の流入で、村全体が限界に近い」


 るなは地図を見る。


 正直、形を見ても距離感はまだ分からない。けれど、王が示す指先の動きに迷いがないことだけはわかった。それだけ何度も、その場所の報告を聞いてきたのだろう。


「限界って……どんな」

 みうが慎重に訊く。


 答えたのはガルドだった。


「村内の水と備蓄をめぐる争いが増えている。小競り合いが数件。避難してきた者への目も厳しく、もともとの村人たちとの間に軋轢が出ている」

「うわ……」

 ももかが顔をしかめる。

「やだね、それ」

「やだ、で済めばよいがな」

 リヒャルトが冷たく言う。

「放置すれば近いうちに死人が出る」

「リヒャルト」

 王妃が穏やかにたしなめる。

「言い方」

「事実を述べたまでです」

「それでも、言葉には順番があります」


 宰相は口を閉じたが、部屋の温度は少し下がった。


 るなはその話を聞きながら、胸の奥にずしりとしたものが落ちるのを感じていた。


 市場は暗かった。


 兵士も疲れていた。


 でも、あれはまだ「日々をなんとか回している人たち」の空気だった。


 今話しているのは、そのもう一段下だ。人と人の間がぎしぎしと音を立て始めている場所。余裕のなさが、他人への苛立ちへ変わり始めるところ。


「……それで」

 えれなが口を開く。

「私たちを呼んだ理由は?」


 王が一瞬、黙る。


 その沈黙の意味が、五人全員に伝わってしまった。


「まさか」

 るなが言う。

「行けってこと?」

「視察、だ」

 王はそう言った。

「……あくまで、視察」

「その言い方、だいたい現場に行くやつじゃん」

 ももかが半泣きっぽい声を出す。

「いやいやいや、ちょっと待ってよ。市場でちょっと口出しただけで、いきなり村!?」

「私も唐突だと思います」

 みうがすぐに続く。

「しかも、今の話だと……かなり大変そうですよね」

「大変だ」

 王は認めた。

「ゆえに、余自身も迷っている」


 その正直さに、るなは少しだけ言葉を止める。


 無理やり押しつけるつもりなら、もっと強い命令口調で来るはずだ。なのに王は迷っていると口にした。


「では、なぜ?」

 ジェシカが静かに問う。


 王は五人を見た。


「市場での件を受けて、現地から上がってきた報せと、王都で見せたおぬしたちの反応を考えた」

「反応」

「そうだ」

 王は頷く。

「おぬしたちは、沈んだ空気に敏い」


 その言葉に、るなは思わず目を瞬く。


 王は続ける。


「兵の疲れ、商人の停滞、街の沈み。それらを見て、すぐに“おかしい”と感じたのだろう」

「……まあ」

 るなが答える。

「感じた、けど」

「ならば、より深く傷んだ場所を見た時、何を感じるのか。それを余は知りたい」


 るなは、それを聞いた瞬間、反射的に「実験みたい」と思った。


 でも、口にする前に王妃が先に言った。


「陛下」

 静かな声音だった。

「その言い方では、この子たちが試しに使われるように聞こえます」

「……」

 王は少しだけ眉間を押さえた。

「そう聞こえたなら、言い方が悪かった」

「悪かったですね」

 王妃はきれいに頷く。

「ええ」


 そのやり取りに、少しだけ救われる。


 王妃がそこを拾ってくれるだけで、「この人たちは本当に私たちを駒扱いしたいわけじゃないんだな」と分かるからだ。


「正しく言い換えよう」

 王は息を吐く。

「レフィア村は今、人心の均衡が危うい。武力で押さえつける段階ではないが、放置もできぬ。おぬしたちが王都で見せた“空気を動かす力”が、あのような場所でも何かしら役立つ可能性があると考えた」

「可能性、ね……」

 えれなが繰り返す。

「つまり、何ができるかはまだ分からない」

「そうだ」

「でも、行って見てみる価値はある、と」

「そういうことだ」


 ガルドが腕を組んだまま付け加える。


「当然、護衛はつける。危険が迫れば引き返す。無理に介入させるつもりもない」

「でも見るのは見るんだ」

 ももかが小さく言う。

「はい」

 みうも不安そうにしている。

「昨日まで市場で“かわいい”とか言ってたのに、急に重い……」

「その感覚は正常だ」

 ジェシカが言う。

「むしろ重く感じない方がまずい」


 るなは黙って地図を見つめた。


 行くべきか。


 怖いか怖くないかで言えば、普通に怖い。


 市場はまだよかった。人が沈んでいても、店は開いていて、買い物に来る人もいて、生活がかろうじて回っていた。兵士だって疲れていたけど、まだ笑えた。


 でも今度は、「揉め事が起きている村」だ。


 水。備蓄。避難民。争い。


 軽い気持ちで行って、軽いノリでどうにかできるような話ではない。


 ももかも同じことを考えているのか、珍しく真顔だった。


「……ねえ、もし行ったとしてさ」

 ももかが、おそるおそる聞く。

「笑ってる場合じゃない感じだったら、どうすんの」

 その問いは、多分みんなの心にあったものだ。


 王は答えなかった。


 代わりに、王妃がやさしく言う。


「笑ってはならない、ということではないのですよ」

「え」

 みうが顔を上げる。

「苦しい人のそばで、無理に明るく振る舞うのは違うこともあります。けれど、笑うことそのものが悪いわけではありません」

「……」

「大切なのは、相手の痛みを見ないまま騒がないこと。見たうえで、何ができるかを考えることです」


 その言葉は、るなの中にすとんと落ちた。


 ああ、そうか。


 “いつものノリ”のまま突っ走るんじゃない。


 まず、見る。ちゃんと。重さを、痛みを、空気を。そこから考える。


 市場だってそうだった。最初から「よし盛り上げるぞ」と思っていたわけじゃない。ただ見て、「もったいない」と感じたから、自然と動いただけだ。


「……るな」

 えれなが小声で呼ぶ。

「ん」

「どう思う」

 えれなのその聞き方は、珍しかった。


 いつもなら止め役に回る彼女が、今回はるなの直感も知りたがっている。


 るなは少しだけ考える。


 考えて、それから口を開いた。


「正直、怖い」

 その一言に、ももかもみうもすぐ頷いた。

「うん」

「私も」

「怖いし、軽い気持ちで行くのは違うと思う」

 るなは続ける。

「でも……だからこそ見た方がいい気もする」

「るな」

「だって、今の話、たぶん“人が悪い”んじゃなくて“余裕がなくなってる”んでしょ」

「……そうだ」

 王が低く返す。

「なら、放っといたらもっとやばくなるじゃん」

「まあ、そう」

 えれなが答える。


 ジェシカが静かに口を開く。


「見ておくべきだとは思う」

 全員がそちらを見る。

「何が壊れ始めるのか。どこまで行くと、人が他人を敵だと思い始めるのか。それを知らないまま“元気出してこ”は言えない」

「ジェシ……」

 るながちょっとだけ感心した声を出す。

「今日はずっとちゃんとしてる」

「今日は、じゃない」

「はいはい」


 みうも、膝の上で指を組みながら言った。


「私も、行きたいです」

「みう?」

「怖いけど」

 みうは少しだけ目を伏せて、それでも続ける。

「子どもがいたりしたら、余計に。ちゃんと見ないと、あとで絶対気になるから」

「……」

「ただ見るだけじゃなくて、何かできるかは分からないけど。でも、知らないままでいたくない」


 ももかは二人を見て、唇をきゅっと結んだ。


「……うちも、やだ」

「何が」

 るなが訊く。

「行かないで、あとから“やっぱやばかったね”って聞くの」

 ももかは珍しく、騒がずに言った。

「それ、たぶん一番気持ち悪い」

「うん」

 るなが強く頷いた。

「わかる」

「でも、現地で空気読めなかったらどうしよう」

「それは」

 えれなが少しだけ笑う。

「全員で止める」

「えれな、愛」

「違う」

「でも助かる」

「それは認める」


 そのやり取りで、少しだけ部屋の空気が和らぐ。


 王はその流れを見ながら、ゆっくりと言った。


「無理にとは言わぬ」

「……」

「本来、おぬしたちはこの国の者ではない。巻き込まれた立場だ。ゆえに、拒む権利がないとは言わん」


 その言葉は、重かった。


 王がそこを認めるのは、大きい。


 でも同時に、そのうえで五人がどう答えるかを見ていることもわかった。


 るなは王を見る。


 そして、はっきり言った。


「行く」

 部屋が少しだけ静まる。

「ただし、“なんとかしてこい”は無理」

「当然だ」

 王が答える。

「まだ、そんなこと言えないし」

「よい」

「見る。ちゃんと」

「うむ」

「それで、何かできそうなら考える」

「それでよい」


 王妃が、ほっとしたように微笑む。


 えれなも頷いた。


「私たちも行きます。ただ、言った通り“視察”でお願いします」

「承知している」

 王が言う。

「ガルド」

「は」

「護衛の人数は」

「最小限で構いません」

 ガルドは即答した。

「大人数では村に余計な威圧を与える」

「私もそう思います」

 王妃が言う。

「それに、この子たちが何かを感じ取るなら、あまり飾らない方がいい」

「……」


 るなはその言葉を聞きながら、ほんの少しだけ背筋が寒くなった。


 今までは城と市場だった。


 でも次は村だ。


 もっと余裕のない場所。


 笑ってる場合じゃない村。


 その現実が、ようやく本格的に目の前へ近づいてきた。


     ◆


 部屋を出たあと、五人はすぐには喋れなかった。


 長い廊下を歩く。窓の外には午後の光。王城の中は相変わらず静かだ。けれど今の五人の中にある沈黙は、城の静けさとは少し違う。


 考えている沈黙だ。


 やがて、最初に口を開いたのはももかだった。


「……重」

「うん」

 るなもすぐ答える。

「めちゃくちゃ重い」

「市場の比じゃないね」

 えれなが言う。

「空気悪いとか、疲れてるとかじゃなくて、もう壊れ始めてる場所だ」

「怖い」

 みうが正直に言った。

「でも、行かない方がもっと怖い気がする」

「それもわかる」

 ジェシカが短く返す。


 るなは歩きながら、窓の外を見た。


 城の庭は整っている。噴水もある。花も咲いている。綺麗だ。なのに、さっき聞いた村の話が頭から離れない。


 水をめぐって揉める。


 備蓄をめぐって争う。


 避難民への目が厳しくなる。


 そういうのって、誰か一人が悪いから起きるんじゃない。余裕がなくて、怖くて、自分のことで精一杯になると、簡単に始まるのだ。


「……ねえ」

 るなが言う。

「もし、ほんとに笑ってる場合じゃなかったら」

「うん」

 えれなが応じる。

「無理に明るくしようとしない」

「そうだね」

 みうが頷く。

「まず話を聞く」

「見て、聞いて、空気読む」

 ジェシカが淡々と整理する。

「それでもダメそうなら?」

 ももかが聞く。

「その時はその時」

 るなが答えた。

「でも、見ないで怖がってるだけよりマシ」

「るな」

「なに」

「今のちょっとかっこつけた?」

「いや全然」

「ちょっとだけ」

 ジェシカが刺す。

「お前らな」


 その軽いやりとりで、少しだけ呼吸が戻る。


 それでも、胸の奥の重さは消えない。


 消えないままでいいのかもしれない、とるなは思った。


 軽くしてはいけない話もある。


 明るさでなんとかできることと、ちゃんと痛みを見なきゃいけないことは別だ。


 そのことを、王妃も、王も、遠回しに教えたかったのだろう。


 部屋の前で立ち止まり、るなは四人を見る。


「……明日じゃないにしても、近いうちに行くんだよね」

「たぶん」

 えれなが言う。

「準備あるだろうし」

「心の準備もほしい」

 みうが真顔で言う。

「それはほんとに」

 ももかが同意する。

「あと物理的な準備も」

「みうの紫外線対策?」

 るなが言う。

「それもある」

「そこ“も”なんだ」

「だって必要でしょ」

「はいはい」


 ちょっとだけ笑う。


 でも、その笑いもすぐに静かになる。


 るなは最後に言った。


「ちゃんと見よう」

「うん」

 四人が頷く。


 これはもう、ただの異世界観光じゃない。


 きれいなお城を見て、王女と仲良くなって、市場でちょっと騒いで終わる話じゃない。


 この世界が本当にどれだけ傷んでいるのか。


 人がどこで壊れそうになるのか。


 そこへ、自分たちが何を持って行けるのか。


 それを、これから見に行くのだ。


 午後の光は明るいのに、胸の中には薄い曇りが残っている。


 けれどその曇りを抱えたまま、五人は次の一歩へ向かうしかなかった。

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