9.神罰
――ッ!!
肺が千切れるような勢いで、ルナは現実世界の空気を吸い込んだ。
視界に映るのは、自分の部屋の天井。柔らかな照明。リンククレイドルの冷たい感触。
エデンのプロトコル――「国民に危害を加えてはならない」。
その絶対原則により、VRゲームでの死が確定したことで、システムは彼女を現実へログアウトさせたのだ。つまりは、ゲームオーバー。
「はぁ、はぁ、はぁ……っ!!」
肉体は無事でも、魂が受けた傷はあまりにも強烈しかった。
鼻腔の奥にこびりついた鉄錆のような血の匂い。首にまとわりつく手の感触。そして、耳の奥で鳴り止まない、呪詛の言葉と子供の泣き声。
「うっ……げほっ……!」
胃の底からせり上がる強烈な不快感に、ルナは這うようにしてトイレへと駆け込んだ。
何も入っていない胃から、苦い胃液だけが吐き出される。涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしながら、ルナは震える指でタイルの壁を掴んだ。
(……負けられない。このまま、あいつの思い通りにやられてたまるもんか……!)
ルナは震える膝に力を込め、立ち上がった。洗面台の鏡に映る自分を見る。瞳は赤く充血し、顔色は紙のように白い。それでも、彼女の奥底にある意志が、消えかかった炎を燃え立たせていた。
彼女は再び、リンククレイドルへと歩を進める。
「ログイン……再接続……エデンへ」
祈るような思いで意識をダイブさせる。
せめて派出所へ。せめて学園へ。皆のいる場所へ。
だが、電子の海を抜けた先でルナを待っていたのは、再びの絶望だった。
「……嘘、でしょ」
デジャヴ。いや、それは悪夢の完全な再現だった。
足元には血の海。目の前には、負傷して泣き叫ぶ子供、倒れた市民たち。
「人殺し! 悪魔め! 死ね、死んで詫びろ!!」
全く同じ怒声。全く同じ憎悪の眼差し。
自分を殺した男が再び突進してくる。
ルナの首を絞めるための剥き出しの殺意が目の前にある。
ルナの手には、再びあのベレッタが握らされていた。
引き金を引けば、この男を止められる。
だが――できない。
(撃てない……。ゲームだと、偽物だとは分かっている……。でも……この怒りは、悲しみは、否定できない。私の心が、否定することを許してくれない……!)
男の指が、ルナの細い喉に食い込む。
男から吐き出される呪詛が、重苦しい質量を持ってルナの再び心にのしかかる。
これは罰だ。罪なき者をその手にかけた自分に対する、回避不能の報いなのだと、彼女の心が認めてしまう。
抵抗することもできず、ルナは涙を流しながら、再び絞め落とされる感覚を受け入れるしかなかった。
視界が、二度目の暗転に飲み込まれていく。
――ッ!!
肺が焼けるような呼吸と共に、ルナは現実へと弾き出された。
再び訪れる強烈な不快感、そして嘔吐。
ルナの動きは止まった。
理解してしまったのだ。
三度目のログインを行っても、結果を変えることはできない。
ここはエデン。システムの恩恵を余すことなく享受し、環境そのものを書き換える権限を持った相手に、自身一人で挑むことの無謀さを。
「……エイミット! 聞こえているんでしょ!」
ルナは虚空に向かって叫んだ。誰もいない部屋に、彼女の悲痛な声が虚しく響く。
「……認めるわ。あなたには勝てない。残念だけど……私の負け。降参よ」
悔しさに奥歯を噛み締め、屈辱に涙を滲ませながら、ルナは敗北を宣言した。
甘んじて罰を受ける。エマを奪われ、敗北者として生きる道を受け入れる。それが今できる唯一の、そして最後の抵抗だった。
しかし――反応はない。
「返事をしなさい! エイミット! …………嘘……? まさか……」
静寂。
ルナの心臓がじわじわと締め上がる。
ついにルナは、真に理解した。
エイミットが告げた「奴隷にする」という言葉の、本当の意味を。
彼女の狙いは、VR空間での精神攻撃などではなかった。
凄惨な光景を見せて心を折るのは、単なる前座に過ぎない。
真の拷問は、ここから始まるのだ。
「あ……ぁ……」
ルナの呼吸が、恐怖で再び浅くなっていく。
この部屋には水がある。ベッドもある。時間が来れば、生命を維持するためのチューブ入り食料も自動で供給されるだろう。
だが、誰もいない。
エマがおらず、リンククレイドルも使い物にならない以上、外部との連絡手段は存在しない。
真っ白な部屋の中、ルナはただ一人で、過ぎ去る時間を数え続けなければならない。
何時まで?
一日?一週間?一ヶ月?一年?
話しかけても誰も答えない。鏡に映る自分の顔は、少しずつ生気を失っていく。
思考は堂々巡りを始め、やがて自分の声すら忘れていくような、絶対的な孤独。
「私……耐えられるの? ……エマ、怖い。怖いよ……!」
ルナは膝を抱え、ガタガタと震えた。
エイミットは待っているのだ。
ルナが孤独に耐えかね、発狂し、自らのアイデンティティを完全に喪失するその瞬間を。
もし、その時――。
精神が砂のように崩れ落ちたルナの前に、エイミットが姿を現したとしたら……。
その時エイミットは、もはや憎き敵ではない。
永遠の孤独から救い出してくれる唯一の存在、救済と祝福を与える真の天使として、ルナの瞳に映るだろう。
自らひれ伏し、魂のすべてを差し出して縋り付く……。
エイミットが求めているのは、ルナの敗北ではない。
自らへの崇拝だった。




