《竜の背》 4
倉庫の中は昼間でも薄暗く、外の生活音が嘘のように遠かった。梁に積もった埃が、板張りの隙間から差し込む光に照らされ、ゆっくりと宙を漂っている。ジルベールは壁際に積まれた木箱を一つ引き寄せ、その上に古い本を置いた。革張りの表紙は擦り切れ、背の文字は半ば読めない。祖父の代、あるいはさらに前から、この家に眠っていたものだろう。
ページを開くと、乾いた紙の音が倉庫に響いた。
人と神、竜と騎士。断片的な伝承と事実が入り混じった記述が、乱雑な筆致で並んでいる。その中に、彼は目当ての名を見つけた。
――竜殺しのニーヴェルンゲン。
それは英雄譚というより、冷ややかな年代記として書かれていた。ただ一人の乙女のため、一振りの剣で竜を殺した男。鋼竜ジグムントを討ち、その血を全身に浴びた存在。竜の血は祝福であり、同時に呪いだった。彼の肉体は変質し、竜の攻撃でなければ決して傷付かぬ身体となった。剣も矢も、魔法すらも通さないが、それは人であることを捨てた証でもあった。
ジグムントの骸は解体され、一振りの剣へと鍛え直された。それは人類の刃の一つとなり、今もなおバベルの騎士団に受け継がれている。ニーヴェルンゲン家はその血と竜剣によって、騎士団最強の一角を担い続けている――。
そこまで読んで、ジルベールは静かに本を閉じた。埃が舞い、倉庫の空気がわずかに揺れる。
彼の向かいで、木箱に腰掛けていたステラは、星色の髪を揺らして瞬きをしていた。倉庫の暗がりでも、その髪は淡く光を帯びている。
「なんと」
感心したような、純粋な驚きが声に混じる。
「竜殺し、とな。人とは、過分に強くなったものだ」
ジルベールは本の表紙を指でなぞりながら続けた。神の時代が終わったこと、人が世界の主になったこと、騎士団が竜と戦い、勝利してきた歴史。それらを簡潔に話すたび、ステラは目を丸くしたり、眉を寄せたりと忙しい。
「神が去っただけでも理解し難いというのに……我ら竜が討たれる時代とはな」
その言葉に、ジルベールは少し迷ってから問いを投げた。
「……知り合いとか、いた?」
ステラはきょとんとした顔で首を傾げ、すぐに当然のように答えた。
「竜は原初より生まれ出たきりで増えぬ。皆が兄弟のようなものだ」
その軽さと裏腹な重みに、ジルベールは一瞬言葉を失う。
「それは……」
「気にするな」
遮るように言って、ステラは肩をすくめた。
「竜といえど、殺されれば死ぬ。そのような道理を弁えぬ竜はいない。もっとも、人に討たれるとは思っても見なかっただろうがな」
ジルベールは話題を変えるように、倉庫の奥に積まれた箱へ視線を向けながら続けた。バベルの騎士団がこれまでに討った三体の竜――鋼竜ジグムント、古竜ネアデルタ、そして三百年前、氷の魔女と共に人域へ踏み入った雷光竜ソテラスラヴノ。その名を出した瞬間、ステラの表情がわずかに変わった。
「ネアデルタか」
懐かしさと軽蔑が混じった声。
「自らの血を獣に分け与え、竜化させておった奇妙な奴だ。群れて戦うなど、竜の風上にも置けぬ。群れるから負けるのだ」
あまりに竜らしい結論に、ジルベールは苦笑しつつも、別の疑問を口にした。
「本当に、魔女を知らないの?」
「知らぬ」
即答だった。
「我が眠る前にはいなかった。そもそも、人が魔法を使えること自体が驚きだ。魔法とは、精霊や悪魔のものだったはずだぞ」
二千年という隔たりが、改めて重くのしかかる。
「雷光竜の躯は加工できなかったって聞いた」
ジルベールは言った。
「だから今も、五区の首都クリームヒルデ、ラインの禁庫に保管されてる」
「ならば、それを盗ってくればよいではないか」
ステラは、あまりにも簡単に言う。
「無理だよ」
思わず溜め息が出た。
「平民が入れる場所じゃないし、竜の遺体なんて神器だ。手に入るはずがない」
星剣を騎士団に託せば解決するかもしれない、という考えが一瞬よぎり、すぐに消えた。バベルの騎士が、竜であるステラを放置するはずがない。竜だと知れば――ステラを保護するどころか、拘束し、解剖し、管理対象にするだろう。
それだけは、出来なかった。
これは、自分一人で背負うべきことだ。
「ならばどうする」
倉庫の空気が、少しだけ張り詰める。
ジルベールは、はっきりと言った。
「正当に貰う。バベルの騎士になる。そして、竜の遺体を褒美として下賜されるほどの武功を立てる」
無謀だと分かっている。だが、それ以外の道はなかった。
「ふむ」
ステラは腕を組み、じっと彼を見つめる。
「こう言ってはなんだが、人の子よ。汝がそれほどの武功を立てられるようには見えぬ」
「……分かってる」
「何か隠し球でもあるのか?」
「ない」
即答だった。それでもステラは、なぜか楽しげに口角を上げた。
「仕方ないな。人の子よ、表に出よ。どうせ二千年、暇を持て余している」
空色の瞳が、愉快そうに細まる。
「人間を鍛えるのも、一興であろう」
倉庫の中で、竜はそう宣言した。
訓練は、日の出よりも早く始まった。
まだ村が眠り、鶏の鳴き声すら上がらない時間帯。森に立ち込める霧が地表を這い、魔力の流れが静かに落ち着く刻限を、ステラは選んだ。理由を問えば「空気が素直だ」と返される。それ以上を説明する気はないらしい。
最初に言われたのは、剣を取れでも、魔力を練れでもなかった。
「背を向けよ」
言われるまま背を向けると、次の瞬間、重みが落ちてきた。
どしり、と音がしたわけではない。だが、はっきりと分かる圧が、肩から背骨、腰へと一気にかかる。思わず膝が折れかけ、ジルベールは慌てて踏みとどまった。
「重りだ」
「聞いてない」
「聞かれておらぬ」
背中越しに伝わる体温は確かに人のものだったが、質量が合わない。見た目通りの少女が乗っているとは、とても思えなかった。
「竜は飛ぶ前に、地を知る。人は立つ前に、耐えよ」
そう言って、ステラは当然のように背中に腰を下ろした。脚が自然にジルベールの腹部に回り、体重が一点ではなく、全体でかかる。逃げ場はない。
「歩け」
一歩目から、世界が変わった。普段なら意識せず使っていた筋肉が、すべて主張を始める。足裏にかかる圧、地面の傾き、わずかな凹凸。背中の重さを支えるために、無意識に呼吸が浅くなり、それを即座に指摘された。
「息を殺すな。吐け。竜を落とす気か」
「落としたらどうなるの」
「骨が鳴る」
脅しなのか事実なのか判断がつかないまま、歩行は走りに変わり、やがて森を抜け、丘を越え、川沿いの岩場へと進んでいった。足が縺れそうになるたび、背中の重みが微かに揺れ、バランスを崩せば即座に叱責が飛ぶ。
「重さを拒むな。受け入れて、流せ」
魔力の訓練も同じだった。ステラはジルベールの背に乗ったまま、わざと魔力を流し込み、内側から圧をかけてくる。人の身では過剰な負荷。それを止めようとすると弾かれ、抑え込もうとすると逆流する。
「魔力は力ではない。状態だ」
平地での走り込みが一巡した頃、ステラは当然のように言った。
「次は山だ」
ジルベールは嫌な予感しかしなかったが、その名を聞いて完全に黙り込んだ。ヴァルホル山脈。村から遠くに連なる白い稜線で、地図には載っていても実際に踏み入る者は少ない。霊脈が絡まり、天候が荒れ、一部を除いて獣も魔物も住み着かない、人の身体には過酷すぎる場所だ。
「……登るの?」
「登る」
「背中に?」
「当然だ」
山脈の麓はまだ人の生活圏に近いが、数刻も進めば道は消え、岩と雪と風だけになる。ステラはジルベールの背に乗り、両脚を絡めるでもなく、ただ重さとしてそこに在った。外套越しでも分かる体温が、妙に現実感を伴って伝わってくる。
ただ歩くだけの修行で何度も意識を失い、地面に倒れ、そのたびに治癒を受けた。ステラが吐息として吐き出す青い魔力は優秀で、どんな傷も瞬く間に消えていった。
季節が一つ巡る頃、背中の重みは変わらないのに、足取りは明らかに安定していた。呼吸は深く、魔力は骨と血に沿って自然に流れるようになり、背に乗るステラの存在を「支えるもの」ではなく、「共に動くもの」として認識できるようになっていた。
模擬戦が始まったのは、その頃だ。条件は簡単だった。人の姿のまま、魔力使用は最小限。ステラは素手、ジルベールは剣。
結果は、最初から分かっていた。
一歩踏み出した瞬間、視界が歪む。次に気づいたときには、地面が目前にあり、呼吸が抜けている。背中に乗っていたはずの重みが消え、代わりに喉元に指先が触れていた。
「短命のくせに遅い生き物だな。欠伸が出る」
「竜基準で言われても……」
「しかし、人は我らを殺したのだろう」
それは一部の英雄だけ、そんな言葉は飲み込んだ。理不尽だったが、反論はできなかった。
ステラは膂力と瞬発力が桁違いだった。人の形をしていても、彼女の動きは捕食者そのものだ。間合いの外から、一息で距離を詰め、攻撃と同時に死角へ回る。
それでも、回数を重ねるごとに、ほんの刹那だけ、気配の揺らぎを感じ取れるようになった。完全には追えない。それでも来るという予兆だけは、確かに掴める。
ある夕暮れ、汗と泥にまみれ、地面に腰を下ろして息を整えていると、背中から重みが消えた。代わりに、すぐ近くで気配がする。顔を上げると、ステラが覗き込んでいた。
「今の踏み込み、悪くなかった」
不意打ちの距離だった。近すぎて、思考が追いつかない。星色の髪が夕焼けを受けて淡く揺れ、その一本が頬に触れた。
一瞬、胸が跳ねる。
自分が何に動揺したのか理解する前に、彼女は首を傾げた。
「どうした?」
「……いや、なんでもない」
「人は奇妙だな」
そう言って離れていく背中は、相変わらず堂々としていて、だからこそ、今の一瞬が現実だったのか分からなくなる。
一年が経つ頃、ジルベールは自覚していた。身体が変わっている。重みに潰れない。魔力が暴れない。剣を振れば、次の動きが自然に繋がる。そして何より、背に竜を乗せたまま走れるようになっていた。
そして、修行はステラの鍛錬がすべてではなかった。むしろ、彼女が現れる以前から続いていたものが、途切れずにそこにあった。祖父の剣だ。
村外れの空き地、木柵で囲っただけの簡素な稽古場。朝霧が残る時間帯に、祖父はいつもそこに立っていた。腰は曲がり、背は低くなっていたが、木剣を握れば自然と背が正され、またその手だけは驚くほどぶれない。
「構えろ」
それだけで十分だった。余計な言葉はない。剣を振る理由も、敵の想定も語られない。ただ、振れ、止め、戻せ。それを何百回、何千回と繰り返す。
最初の頃、ステラの修行と並行するのは困難だった。背に重りを載せたままの鍛錬で脚と体幹を削られ、魔力制御で神経をすり減らした翌朝、同じ身体で剣を振る。そんなことはお構いなしに、祖父は容赦しなかった。盲目とは思えない太刀筋で手本を見せてくれる。
「剣は、疲れているときほど嘘をつかん」
その言葉の意味は、振るうたびに分かっていった。疲労が溜まると、力に頼る癖が出る。速さを欲しがり、形が崩れる。祖父はそれを見逃さず、木剣で容赦なく打ち落とした。
だが、季節が進むにつれて、変化が現れ始めた。
足が止まらない。踏み込みが浅くならない。重心が自然と低く保たれ、剣を振った後、次の動作へ移るまでの間が消えていく。祖父はそれを何も言わず、光のない白濁した目で見続けた。
ある日、踏み込みからの斬り下ろしを止められた直後、祖父の木剣が、ほんの一瞬だけ遅れた。
「……ほう」
それが、初めての反応だった。
鍛錬の内容も変わった。これまで基礎しか教えなかった祖父が、間合いの話を始める。相手の呼吸、視線、剣先の僅かな揺れ。見ろという。けれど目ではなく、感覚で見るのだと。
ジルベールは、その感覚に覚えがあった。ステラとの模擬戦で、何度も叩き込まれたものだ。視認より先に、来ると分かる瞬間。
祖父の木剣が来る。その前に、身体が動く。
弾いた音が、乾いた空気に響いた。
祖父は動きを止め、しばらく黙っていた後、短く息を吐いた。
「……誰に教わった」
「お祖父ちゃんだよ」
「それ以外だ」
一瞬、迷ったが、嘘はつけなかった。
「……竜に」
祖父は眉をひそめたが、否定もしなかった。ただ、木剣を肩に担ぎ、空を見上げる。
「なるほどな。重たい師匠だ」
分かっているのか冗談だと受け流されたのか、ジルベールには聴けなかった。
その日の稽古が終わる間際、祖父は初めて、はっきりと褒めた。
「前より、剣が静かだ。力が騒いでいない。いい振りだ」
胸の奥が、じんと熱くなった。ステラの修行では決して得られない種類の承認だった。
その夜、倉庫の梁の上で、ステラは足をぶらつかせながら言った。
「剣が馴染んできたな」
「分かるの?」
「分かる。背に乗れば、力の流れは隠せん」
相変わらず重りとして背に乗る訓練は続いていた。走り込み、山道、砂利、水辺。条件を変え、負荷を変え、それでも動き続ける。途中で崩れれば、そのまま押し潰されるだけだ。
魔力制御も段階が上がった。ステラはわざと乱流を起こし、ジルベールにそれを鎮めさせる。抑えるのではなく、流れを変える。骨格と筋肉の動きに合わせ、魔力を遅らせ、先行させ、剣の振りに重ねる。
模擬戦では、最初から背に乗られた状態で始まることもあった。視界は制限され、重心は上に引き上げられる。それでも動け。転ぶな。攻めろ。
ある夕方、何度目かの模擬戦の後、地面に倒れたまま息を整えていると、背の重みがずれ、肩越しに吐息がかかる。
「今の反応、悪くなかった」
耳元で囁かれ、またしても心臓が跳ねる。汗と土と、微かに冷たい星の匂い。意識した瞬間、彼女はもう離れていた。
「集中を切らすな」
それは叱責だったが、声はどこか柔らかかった。
一年が経つ頃、祖父は言った。
「もう、村の剣じゃないな」
ステラは言った。
「及第点だ。人としては、な」
同じ成果を、二つの視点から認められた瞬間だった。
ジルベールはまだ強者ではない。だが、背に竜を乗せ、剣を静かに振るう人間として、確かに前へ進んでいた。




