《竜の背》 3
村に戻った朝、空は何事もなかったかのように澄み渡っていた。
あれほど青く裂け、星が落ちた夜が嘘だったかのように、鶏は鳴き、井戸の滑車は軋み、土の匂いが風に混じっている。
人は強い。あるいは鈍感だ。
世界が一度終わりかけたことなど知るよしもなく、畑は耕され、井戸は汲まれ、羊は鳴く。
だが、完全に元通りというわけではなかった。
人々は時折、空を見上げる。理由もなく、無意識に。
何かを見落としているのではないかという、言葉にならない違和感だけが残っている。
その違和感の正体が、今――
「……視線が多いな」
フードの奥から、低く不機嫌そうな声がした。
「そりゃあね」
ジルベールは荷を抱え直しながら、小声で返す。
「君みたいな見た目の子、村にいないから」
「致し方ないな。竜は万象の目を奪う。草花は頭を垂れ、獣は逃げ惑い、魔力はひれ伏す。竜は歩くだけで国を滅ぼすのだ」
「滅ぼさないでね。あと竜でもないってことになってるから」
「不本意だ」
我慢してくれと、ジルベールはうなだれる。
隣を歩く少女は、粗末な外套に身を包んでいる。布自体は村でよく見るものだが、中身が問題だった。
夜空の深みを凝縮したような、淡く青白い光を帯びた長い髪。朝日を受けるたび、星屑のような輝きが零れ落ちる。
村人たちの視線が吸い寄せられるのも無理はない。
子供たちは距離を取り、囁き合っている。
「あの子、星みたい」
「魔女?」
「空から落ちてきたんだよ、きっと」
少女はそれを聞き取って、満足そうに頷いた。
「ふむ。概ね正しい。ただ魔女とはなんだ。我が眠っている間に現れた魔族の一種か?」
「魔女を知らないって、まあいいか……それより訂正しなくていいからね」
「なぜだ」
「話がややこしくなる」
少女は不服そうに唇を尖らせるが、すぐに胸を張った。
「まあよい。我が名を知れば、いずれ理解する」
「その名前が問題なんだけどね……」
ジルベールは、内心でため息をつく。
彼女は名乗った。星竜ステラリノルヴァ=アウステリウム。
騎士家の名前みたいに口にするだけで舌がもつれそうな、竜の名だ。
初めて聞いたとき、彼は本気で聞き返した。
――え、もう一回言って。
結果として、彼女自身が言った。
「矮小な人には長かろう。ゆえに略す」
「略すって……」
「ステラでよい」
そうして、この村には不釣り合いな名前は、短く切り取られた。
今はまだ、村の誰もその名の重みを知らない。
家に戻ると、祖父はいつも通り炉端に座っていた。
朝の流星の話をしても、煙草を一吹かししただけだ。
「で、その子は」
「……旅の途中で、行き場がなくて」
「ふむ。なら泊めるか」
深くは問わない。
それが祖父という人間だった。
ステラは、そのやり取りをじっと見ていた。
「この老個体、妙に落ち着いているな」
「祖父だから」
「なるほど。人も神も、長く生きると竜が現れた程度では動じなくなるのだな」
「たぶんね」
招待を明かすかは別として、祖父に話しを通すのは問題なかった。
問題は、生活だった。
最初に起きたのは、台所。
「なぜ火に直接触れてはならぬのだ」
「危ないから!」
「竜の鱗は悪魔の業火にすら熔けん」
「家が燃えるの!」
次に、水。
「なぜ飲むのに器がいる」
「床が濡れる!」
「濡れて何が困る」
「滑る!」
「……なるほど」
理解したような、していないような顔。
そして、服。
「なぜ布を纏う必要がある」
「寒いからだよ」
「なんと脆弱な。竜は凍てつかぬ」
「尊厳が失われるの。裸は恥ずかしいものなんだよ、人にとってはね」
「羞恥で肌を隠そうなど、人とはかくも複雑な生き物よ」
だが、言われるままに外套の前を留め、袖を通す。
その動作はぎこちなく、まるで初めて正装をさせられた子供のようだった。
夜。
寝床を見て、ステラは固まった。
「……なんだこれは」
「何って、ベッドだよ」
「我は永夜の丘、星明かりの下で空双樹の草がなければ寝付きが悪い」
「何の何か知らないけど、そんな贅沢そうなもの用意できないから。ここで寝て。僕は倉庫で寝るから」
「共におらぬのか? か弱き人の子が凍えぬよう、我が抱きしめてやろう」
「いいよ。竜に恋したくないから」
「なんだそれは」
答えなかった。見た目だけは美しい少女なので恐れを忘れそうになるが、彼女はバベルの騎士たちさえ絶対的な勝利を約束できない存在、竜なのだから。
結局、彼女はベッドの上であぐらをかく形になった。人間の身体で横になると起き上がり方が違うので慣れないらしい。ジルベールはベッドの下に布を引いて、枕だけ貰ってそこに転がることにした。
「落ち着かん」
「慣れて」
ランプの明かりに、星色の髪が淡く揺れる。
山を沈黙させ、星を呼び、軍勢を消し去った存在が、今は布団の端をつまんでいる。
ジルベールは思う。
誰も知らない。この村に、何が住み着いたのかを。
ステラリノルヴァ。
白き翼を持ち、星と氷の下で眠っていた竜。
その名は短くされ、力は形を変え、今はただ「ステラ」という少女として、朝を迎え、戸惑い、文句を言っている。
村は救われた。魔族の脅威は去った。
だが、生活は続く。確かに変わったのに、何も変わりがないみたいな顔をして。
翌朝、ジルベールは祖父の目を盗むようにして倉庫の戸を開けた。
古い木戸は湿気を含んで重く、押し開くと埃の匂いがむっと鼻を突く。
中は魔道書の他にも農具や使わなくなった桶、壊れた鋤などが無造作に積まれている。
その奥、布を幾重にも巻いて隠すようにして置かれていたもの――星剣。
布越しでも分かる。そこだけ、空気が切り取られたように異なる。
近づくにつれ、ひやりとした感覚が肌を撫でた。冷たいのではない。重い。
まるで「ここから先に来るな」と、世界そのものに押し返されているような感触だった。
「……なんなんだ、これ」
呟くと、背後で衣擦れの音がした。
「人には過ぎたるものよ」
そう言ってステラは腕を組み、倉庫の中を見回しているのはステラだ。朝の光を受けた星色の髪が、埃の舞う空間で淡く瞬いた。
「それは星の剣。我が住処にしていた星が練り上げた、外敵からの抑止力だ」
ジルベールは布を一枚、慎重に解く。
白い鞘に収まった剣は、昨日と同じ姿でそこにあった。だが、彼女の胸に刺さっていたときとは確かに違う。
今は眠っている。息を潜め、牙を隠した獣のように。
「本来は《星の傘》と呼ばれるものの一つだがな」
「星の……傘?」
「星を覆い、星を守るための概念兵器だ。これは剣の形をしているから、そう呼ばれていただけに過ぎん」
あまりにもさらりとした口調で、物騒な単語が並ぶ。
「これって……抜いたらどうなるの」
半ば冗談のつもりだった。
だがステラは即座に否定する。
「抜けんぞ」
断言だった。
「星の傘は、星の驚異にしかその力を示さん。人の争いや魔族の軍勢ごときでは反応すらせぬ」
「じゃあ、もし……」
「もし扱えぬままに抜けば、大陸が一つ消し飛ぶであろう」
倉庫の空気が、一瞬凍りついた。しかしその表現はジルベールに正しく伝わらない。
「……大陸って?」
「どでかい島のことだ。神の奴らはそう呼んでおった」
冗談ではなかった。ジルベールは、剣からそっと手を離した。
少なくとも、この村が無事では済まない。それだけは、嫌というほど理解できた。
「ステラの身体は、今この剣の鞘になってるんだろ」
確認するように言う。
「仮の姿から戻れないのも、それが理由なんだよね」
「うむ」
短い肯定。
「ならこの剣の……元々の鞘とかって、ないの?」
「ない」
迷いのない答えだった。
「これは星につき一つしかない最終兵器のようなものだからな。相応に強力であるが、星は扱う者のことなど考えぬ。よって鞘は作られなかった」
少しだけ、ステラの視線が遠くなる。
「ゆえに、神によって我が鞘代わりにされていた」
軽く言うが、その意味は重い。
ジルベールは、胸の奥が締め付けられるのを感じた。
「心の臓の傷も深い。竜とは、息をするだけで魔力の渦を生む存在だが……」
ステラは自分の胸に指を当てる。
「この身体と今の出力では、竜としての躯を復元するには時間がかかる」
「どのくらい?」
恐る恐る尋ねた。
「ざっと、二千年といったところか」
「……二千年」
言葉が軽すぎて、現実感が追いつかない。人間にとっては途方もない時間だ。
「ごめん…………僕らを守るために」
ジルベールは自然と俯いていた。
「なぜ、そのような顔をする」
しかし、ステラは不思議そうに首を傾げる。
「なに、そう長い時間ではない。それに汝は我に自由を与えた」
「自由っていっても……」
「汝は、我を神の呪縛から解き放った。それだけで、願いは果たされるべきだ」
淡々とした声で、彼女は続ける。
「我はただ約定を果たしたに過ぎぬ。汝は、何も気に病む必要はない」
竜の価値観では、それで終わるのだろう。
だがジルベールは、どうしても納得できなかった。だって、あまりにも助けられすぎている。
魔族の軍勢を退け、命を救われ、故郷を救われた。その代償として、彼女は二千年という時間を差し出した。
それはあまりにも、ジルベールがしたことの報いには大きすぎる。
「そうはいかないんだ」
顔を上げ、はっきりと言う。
「せめて、身体を取り戻すのに協力させてほしい」
「……ふむ」
ステラは少し考える素振りを見せた。
「我も早く元の姿に戻るに越したことはないがな。星剣の鞘とは、人には少々無理難題であるぞ」
「それでも。方法があるなら手伝わせてくれ」
しばらくの沈黙。
やがて、ステラはあっさりと言った。
「なに、簡単な話だ」
ジルベールは身構える。
「星剣は、竜の身体でもなければ抑えきれん」
「……うん」
「ならば」
空色の瞳が、まっすぐに彼を射抜く。
「他の竜の身体を持ってくればよいのだ」
一瞬、理解が追いつかなかった。
けれど直ぐに、それが人間にはほぼ不可能な難題であることを、ジルベールは痛いほど悟った。目の前にいるのは、星を降らせた竜。そんなものと同格の存在の身体なんて、どう用意するというのだろう。




