《竜の背》 2
最初に感じたのは、圧だった。
空が、重い。
夜空そのものが一段低く降りてきたかのような感覚に、ジルベールは思わず膝をついた。
白竜が、降りてくる。
翼を打つことなく、ただ在るという事実だけで、空間が歪む。星々がその巨躯を避けるように遠ざかり、雲が生まれる暇すらなく押し退けられていく。
美しいと思った。
恐怖よりも先に、そう思ってしまったことに、ジルベール自身が驚いた。
白い鱗は月光を弾き、砕け残った氷片を踏みしめながら、竜は山頂へと身を横たえる。星剣の刺さっていた胸元から、淡く青い光が漏れていた。呼吸は浅く、しかし確かに生きている。
――その時だ。
異質な音がした。
金属が岩を引き裂く、濁った衝撃音。風の止んだはずの山に、不自然な振動が走る。
ジルベールは、はっとして振り向いた。
山の斜面を、何かが駆け上がってくる。
否、何かではない。
魔族だ。それも、ただの魔族ではないことは、一目で分かった。
巨躯。魔消鋼の鎧は砕け、片腕は失われ、顔の半分が青い粒子へと崩れかけている。それでも、その存在感は、軍勢に等しい重さを持っていた。
ギュスタヴ。
名を知らずとも、将であることは理解できた。
あれが、流星を生き延びた存在。
あれが、この惨状の中で、なおここへ辿り着いた意志。
魔将軍は、ジルベールを見た。
正確には、その背後にある白を見て、そして少年へと視線を落とした。
「……そうか」
声は、低く、掠れている。
「貴様が、起こしたか」
その瞬間、ジルベールは悟った。
隠すことも、誤魔化すことも、意味がないと。
理解されている。自分が竜を目覚めさせたことを。そして、それが何を意味するかを。
ギュスタヴは、残った腕で水枯槌グルダゴを握り直す。
魔力は薄い。だが、枯れてはいない。
踏み込み。山頂の氷が砕け、魔将軍の一撃が振り下ろされる。
避けるという選択肢は、ジルベールでは取れなかった。
身体が動くより早く、白い影が視界を覆った。
翼だ。白竜の翼が、横薙ぎに払われる。
衝撃はない。
音もない。
ただ、止まった。
魔槌グルダゴは、竜の翼に触れた瞬間、魔力を失い、ただの重い鉄塊として弾かれる。
ギュスタヴは、そこで初めて笑った。
「……道理だ」
呟きは、敗北の受容だった。
「神々が滅び、我らが退き、人が世界を占めた理由……今なら分かる」
竜を見上げる。この存在が、眠っていたからだと。こいつらが眠っている間に、世界は好き勝手に秩序を並べ替えていただけなのだ。
白竜は、答えない。代わりに、ゆっくりと首を下げ、ジルベールへと顔を向けた。
『星剣の傷は深い』
声が、直接脳裏に響く。
『間もなく、我は動けなくなる』
理解した瞬間、恐怖が押し寄せる。
竜は、もう守れない。
それでも。
『小さき者よ。せめて、最後の息吹を』
吐息が、放たれる。
青く、圧倒的な純度の魔力が、ジルベールを包む。皮膚の内側を流れ、骨を再構築し、魔力回路を焼き直す。
痛みはない。ただ、世界が鮮明になる。
「ォォォォォッ!」
ギュスタヴが吼える。残った全てを燃やし、将は再び踏み込む。今度は、止まらない。止まるものかという意志だけで、動いている。
ジルベールは前に出た。恐怖はもはや遠く、覚悟はとうに過ぎ去った。
手を伸ばすと、魔力が応える。
編まれる。形を持つ。
青い剣が、手中に現れる。
魔力が剣として形を持ったそれで、ギュスタヴの突進をジルベールは咄嗟に受けた。
青い剣と魔槌が噛み合い、衝撃が腕から肩へ、内臓へと突き抜ける。
重い。勝てない、と思った。
それでも剣は折れず、身体は崩れない。あの息吹が、圧倒的なはずの力の差を埋めてしまっている。
ジルベールは剣を振る。幾度となく降り続けた剣の術理、そんなものは全て遅くて、型を考える暇もなかった。ただ、一撃。
剣は、理屈を無視して振るわれた。
それだけで、力を与えられた者には充分だった。
ギュスタヴのもう片方の腕が、宙を舞う。グルダゴが、凍土に落ち、乾いた音を立てる。
将は立ち止まった。身体が、崩れ始めている。
「竜の、残響でさえ……」
言葉と共に青い塵となり、ギュスタヴは風に溶けていく。
何も残らない。青き流星で既に彼の命は尽きていた。最後のあがき、泡沫の狭間に、せめてと腕を持ち上げただけに過ぎない。
魔将は消えた。
最後に残ったのは、風に混じる青い粒子と、氷原に落ちた静寂だけだった。
ジルベールは剣を握ったまま、膝をつく。
脚に力が入らない。剣を振るった感触が、まだ腕に残っている。
呼吸をするたび、肺の奥がひりついた。
背後では、白竜が横たわっている。
もはや動くこともなく、ただ巨大な躯が山頂に沈み込むように静止していた。
星剣の傷から漏れていた青い光は弱まり、呼吸も、ほとんど感じ取れない。
ジルベールは振り返り、しばらく言葉を探した。
感謝。畏敬。恐怖。
どれもが正しく、どれもが足りない。
「……ありがとう」
ようやく、それだけを絞り出す。稚拙な言葉だと自分でも分かっていた。
だがそれ以上の言葉を、彼は知らなかった。
『与えられれば、与える』
白竜の声が、脳裏に静かに響く。
そこには感情も誇りもなく、ただ理だけがあった。
しかし空気は未だ張り詰めているのだと、遅れてジルベールは気付く。
ジルベールの直ぐ近く、先ほどまで倒れたいた地点で、白竜の胸から抜いた剣が震え始める。
青白い光が脈打ち、鼓動のように強弱を繰り返す。まるで生き物が、行き場を失って暴れているかのようだった。
『もうじき、この一帯は消える』
竜の声は淡々としている。けれどその言葉の意味を、ジルベールは理解してしまった。その言葉が、山やその周辺の村の終焉を指していることに。
『この星剣には、鞘がない』
剣の輝きが、さらに強まる。視界が白く滲み、肌が熱を帯びる。
『力は留まる場所を失い、歪み、やがて弾ける』
せっかく軍勢を倒したのに。結末は、何も変わらない。
そう分かった瞬間、胸の奥が冷えた。
「……どうしたら」
縋るように問いかける。
竜に答えを求めることが正しいのかも分からない。
それでも、今は他に頼れるものがなかった。
巨大な青い瞳が、ゆっくりとジルベールを捉える。逃げ場のない、真っ直ぐな視線。
『お前は、願った』
その言葉が、胸に沈む。
『救おう。まだ、約束は果たされていない』
刹那、白竜の身体が発光した。
眩い青白い光が溢れ、直視できないほどの輝きが山頂を包む。
空に、青いオーロラが広がる。流星の余韻とは異なる、穏やかで、しかし圧倒的な光。
祝福だと、ジルベールは思った。祈りでも、奇跡でもない。星が人に触れた結果。何かが始まる予兆のような現象。
光が、ゆっくりと収束する。
視界が戻ったとき、ジルベールは息を呑んだ。
星剣は、白く美しい鞘に納められていた。
白亜の鞘は、まるで翼を折りたたんだかのような形をしている。
剣の暴れる気配は消え、静かな重みだけが残っていた。
そして。
「うーむ……なんと脆弱で、矮小な」
場違いなほど、幼い声。
「しかし、確かに助けたぞ」
その声に、ジルベールははっとして顔を上げる。
「――人間」
白竜が横たわっていた場所に、もう巨大な躯はなかった。代わりに立っていたのは、星色の髪を持つ少女だった。
星の瞬きを溶かしたような輝く純白の長髪。勝ち気に少しつり上がった空色の瞳。
年の頃は、ジルベールより少し幼いほど。
ただし一糸まとわぬ姿で、胸を張って。
あまりにも堂々と、そこに立っていた。




