第二章 《竜の背》 1
朝は、音から始まる。
薪がはぜる乾いた音。鍋の底で水が温まる、微かな震え。包丁がまな板に触れる、一定のリズム。
ジルベールはそれらを一つずつ確かめるように動いていた。
火は弱め。強すぎれば焦げる。弱すぎれば時間がかかる。
乾燥肉は厚みを揃えて切る。祖父は薄切りを好む。自分はどちらでもいい。――もう一人分は、少し大きめに。
パンを切り分ける手が、ほんの一瞬だけ止まる。
二つでは、足りない。
無言で三等分にし直し、皿を棚からもう一枚取り出した。
木皿が触れ合う、かすかな音が、朝の静けさに溶ける。
いつからだろう。この家で、三人分の朝食を用意するのが、当たり前になったのは。
湯気が立ち上る。
スープの香りに、乾燥肉の塩気が混ざり、簡素だが確かな温もりを孕んだ匂いが台所に満ちる。贅沢ではない。けれど、生きていくには十分な味だ。
ジルベールは匙を取り、味を確かめる。
少しだけ薄い。指先で塩をひとつまみ足す。
二人分なら、これでいい。三人分なら、もう一つまみ。
その「もう一人」を思い浮かべながら、彼は何も言わずに鍋を火から下ろした。
「……遅い」
背後から、拗ねたような声がする。
振り返らなくても分かる。
居間の方角。朝日が差し込む場所に、誰かがいる。
「まだか。竜を待たせるとは、なかなか大胆だな」
「もうすぐだよ。あと一分」
「一分、とは何だ」
「……短い時間のこと」
ジルベールが答えると、少女はふん、と鼻を鳴らした。
「曖昧だ。竜の感覚では、一瞬か、百年かのどちらかだ」
「じゃあ、今は一瞬だと思ってて」
「思考を強要するな、人の子」
偉そうな口調のわりに、彼女は椅子から降りようとして、裾を踏んだ。
危なっかしくよろめき、慌てて机に手をつく。
皿がかた、と鳴った。湯気が立ち上り、視界が一瞬だけ白む。
その向こうで、少女が腕を組んでいた。
年の頃は、自分より少し幼い十二かそこらに見える。
背丈は低く、顔立ちは整っているが、どこか浮世離れした印象がある。何より目を引くのは、その髪だった。
星の色。
夜空の奥をすくい取ったような、淡く青白い光を帯びた長い髪が、朝日に照らされて静かに揺れている。染めたにしては不自然で、しかし作り物とも思えない色。
彼女は椅子の上に、行儀がいいのか悪いのか分からない座り方で腰かけていた。
「空腹は、尊厳を削ぐ」
「そんな大げさな」
「大げさではない。これは事実だ」
言い切る声には、不思議な重みがあった。幼い見た目に似つかわしくない、断定の響き。
ジルベールはパンを皿に並べながら、肩をすくめる。
「尊厳より先に、椅子から落ちないでね」
言った側からまた少女は立ち上がろうとして、裾を踏んだ。
一歩、よろける。慌てて机に手をつき、かろうじて転倒は免れた。
「くっ、脆弱な椅子だ」
「椅子のせいなの?」
「そうだ。この家は、人に最適化されすぎている」
訳の分からない理屈だが、本人は本気らしい。
ジルベールは何も言わず、最後の皿を運んだ。
三人分の朝食が、卓に並ぶ。
その光景を見て、少女は満足そうに頷いた。
「うむ。よい。ようやく準備が整ったな」
「はいはい」
ジルベールは祖父の部屋の扉を、ちらりと見る。
まだ、動く気配はない。
伝えなければならないことは山ほどある。
山で起きたこと。空に降った青い流星。――そして、この少女の正体。
だが、まだ言葉にできない。
少女はスープに顔を近づけ、湯気に目を細めた。
「この匂い、嫌いではない」
「気に入ったならよかった」
「当然だ。竜には、真実が見える。嘘などと言う矮小な種族が使う文化は持たない」
何気ない調子で、そう言う。
何度も聞かされるその言葉に、ジルベールの手がわずかに止まる。
「……竜、ね」
「そうだが?」
少女は不思議そうに首を傾げた。
冗談を言っているつもりは、まるでないらしい。
「我は竜だ。白き翼を持ち、氷と星の下で眠っていた。起こしたのは、他でもなく汝であろう」
その言葉は、あまりにも幼い戯言のように聞こえる。
空想。ごっこ遊び。子どもの作り話。
けれど――
ジルベールの脳裏に、砕け散る氷塊と、夜空を裂いた青い光が蘇る。
星を呼び、山を沈黙させ、軍勢を消し去った、あの圧倒的な存在。
嘘ではない。誇張でもない。
この少女は、あの時、確かにそこにいた。
「……ステラ」
名前を呼ぶと、彼女は少しだけ胸を張った。
「うむ。忘れるな、人の子」
その小さな背中に、確かに威厳が宿る。
幼く、どこか抜けていて、それでも紛れもなく――
彼女は、あの白竜だった。
ジルベールは、ため息を一つ飲み込み、椅子に座る。
この最強種の存在をどう受け止めたら良いのか、答えなど出るはずもなかった。




