第一章 《 》 4
最初に異変に気付いたのは、麓の魔族たちだった。
夜空が、静かすぎた。
雲がなく、風もなく、いつもなら山から吹き下ろしてくるはずの冷気すら感じられない。その不自然さに、魔族たちは一斉に空を仰いだ。
次の瞬間、青い光が走る。
それは一筋ではなかった。
空の高みから、放射状に広がる、淡く、しかし濃密な魔力の軌跡。
「……何だ、あれは」
誰かが呟いた。
だが、その声には恐怖がなかった。まだ、それが何を意味するのか、理解できていなかったからだ。
魔力に敏感な者たちが、遅れて息を呑む。
空が、重い。
星々が、近い。
そして、落ちてくる。
青い星々が。
それは燃えていなかった。尾を引かず、音もなく、ただ完璧な曲線を描いて降下してくる。その美しさに、しばし誰も動けなかった。
「星……?」
その言葉が、最後だった。
次の瞬間、魔族たちは悟る。
あれは自然現象ではない。
魔法でも、兵器でもない。
意思だ。
圧倒的な存在が、空そのものを使って放った、純粋な力。
最初に崩れたのは、音だった。
氷が砕ける轟音ではない。
空気が、耐えきれずに裂けるような低い鳴動だった。
白竜の胸郭が、ゆっくりと持ち上がる。凍結した鱗が軋み、長い眠りの名残を振り払うように、氷塊に無数の亀裂が走った。次の瞬間、圧縮されていた魔力が解放され、氷の檻は内側から粉砕される。
世界が、白く弾けた。
氷片が嵐のように舞い上がり、洞窟そのものが崩壊を始める。だが竜はそれに構わない。翼が開かれるだけで、崩落は意味を失った。しなやかで巨大な翼が、空間そのものを押し広げ、竜は天へと浮かび上がる。
ジルベールは、氷の斜面に投げ出されたまま、その光景を見ていた。
竜が、空へ出る。
山頂の氷原が、まるで花弁のように剥がれ落ち、夜空が開いた。雲一つない深い蒼。星々が、かつてないほど近い。
白竜は、空の中心に立つ。
次の瞬間、竜は首をもたげ、口を開いた。
吐き出されたのは、炎ではなかった。
青。
それは色というより、概念だった。
高濃度に凝縮された魔力が、息吹という形を取り、夜空へと放たれる。轟音はない。ただ、空が深く震え、星々が一斉に明滅した。
青い息吹は、天へと届き、そこでほどけた。
夜空が、一瞬だけ深く沈む。
星々が遠のき、空そのものが受け止める準備をする。
そして――光が、生まれる。
最初は、点だった。
夜の奥で、かすかに瞬く青白い煌めき。次いで、それは線になる。
天の高みから、完璧な弧を描き、静かに落ちてくる。
流星。
だが、燃え尽きる星ではない。
竜の魔力を抱いたまま、形を失わず、音もなく降下する、意思を持った光。
一つ、また一つ。数は瞬く間に増え、夜空は青い星図に塗り替えられていく。
それぞれが互いを侵さず、重ならず、最短で、最適な軌道だけを選んでいた。
美しい。
恐怖を煽るための轟音も、炎の尾もない。
ただ、降る。
星々が、正しい場所へ帰るように。
麓に集った魔族たちが、それに気付いた時、すでに空は埋め尽くされていた。
見上げた視界いっぱいに、青。
逃げ場はないと、本能が理解する。
だが、身体は動かない。
あまりにも美しすぎたからだ。
最初の流星が地に触れた瞬間、衝撃はなかった。
爆発も、熱も、破壊音もない。
ただ、光が広がる。
触れた存在の輪郭が、淡くほどけていく。
肉体も、魔力も、存在の境界そのものが、青に溶けていく。
次の流星が落ち、また次が降る。
巨大な影は、光の中で透明になり、
硬質な岩の魔物は、結晶のまま静かに崩れ、二足で立つ者たちは、叫びを形にする前に、星明かりの一部となった。
そこにあったはずの軍勢は、戦場になる前に、風景へと還っていく。
夜空から降る星は、最後まで整然としていた。
それは虐殺ではない。
戦争でもない。
理不尽なまでに強大な存在が、小さな者の願いを叶えているだけだった。
やがて、最後の流星が消える。
青い光が薄れ、夜は元の深さを取り戻す。
星々は、何事もなかったかのように、静かに瞬いている。
それは、遠く王都の中心においても観測された。
神拒の塔バベル。
人域を見下ろし、天を拒むために築かれた人類最高の尖塔。その中腹から上層にかけて設えられた、騎士達の円卓の間で、最初に異変に気づいたのは、誰か一人ではなかった。
巨大な獣すら出入りできそうなほどの広大な窓。その外で、夜空の色が変わったのだ。
深い群青を裂くように、青い光が流れる。
一本ではない。無数の線が、規則正しく、しかしあまりにも自然な調和をもって、天を彩っていた。
誰かが、息を呑む。
「……美しい」
そう零したのは、円卓の最上位に座す男だった。
バベルの騎士。その頂に立つ者。騎士団長レオンハート。
獅子を象った兜を外し、素顔のまま夜空を仰ぐその眼差しに、恐怖はなかった。ただ、純粋な感嘆があった。
その隣で、幾重にも重ねられた鉛灰色のローブを纏う騎士が、ゆっくりと目を細める。灰色の髪と紫水晶の瞳。その奥に宿る眼光は、数多の神秘を見届けてきた者のものだった。
「大魔法……いや、星の斥力か」
円卓に座す騎士達の間に、わずかなざわめきが走る。星に干渉する力。それは神話の領域を超えて、創世前夜の奇跡に踏み込む行為に等しい。
「ヘクセメルダ」
レオンハートが視線を向ける。
「いったい何が、あれを起こしうる」
問いは重い。
だが、答えは即座に返ってきた。
「生死不明の月の魔女。重縛の悪魔ゲヘリット。占星の民カルディミナスが行う大儀式……」
円卓の一角、第七の席に座す騎士が、淡々と候補を挙げる。どれもが、歴史書の中でしか語られぬ存在だ。
そして、わずかな沈黙ののち。
「――あるいは」
選ばれた言葉だけが、低く落とされる。
「竜」
空気が、静まった。
誰一人、声を荒げない。
誰一人、動揺を見せない。
ただ、各々がその言葉の重みを、己の内で測っていた。
竜、神話の時代にすら数えるほどしか存在しなかった、星の頂点。
神々にさえ支配できなかった災厄。
だが、「三百年ぶりか」。そう誰かが呟く。
「再び、竜殺しを果たすことになるか」
それは誇示でも虚勢でもない。事実の確認だった。
円卓に集う者達は、皆知っている。
単独で勝つことが困難であることも、代償が避けられぬことも。
それでもなお、恐れはない。
レオンハートが、ゆっくりと息を吐く。
「いずれにせよ」
その声は、重く、揺るがない。
「人域に踏み込むならば、我らが討つ」
夜空を裂く流星群が、遠くでなお煌めいている。
それを背に、騎士団長は宣言する。
「もはや人類は」
言葉が、静かに空間へ沈む。
円卓の誰もが、それを遮らず、促しもしない。
「――――殺せぬ神秘を持たない」
その言葉に、誰も異を唱えなかった。
青い流星は、なおも降り続けている。
だがこの塔の中で、それはすでに「脅威」ではなく、「次に処理すべき事象」として、静かに受け止められていた。
人類は、神を殺した。
そして今、星に手を伸ばそうとしている。
夜空は美しく、その美しさの裏で、次の時代の歯車が、確かに回り始めていた。
第一章 《星が降る夜》




