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第一章 《    》 3

 山を見上げる影があった。

 神域の麓、魔族の陣の最奥。幾重にも張られた魔力探知の内側で、それは動かず、ただヴァルホル山脈の稜線を見据えている。

 今ではもう十にも満たない、大魔族に数えられる将軍の一体。古の時代に起こったバベルの騎士団と魔族との大決戦、アシュタレド戦役の生き残り。


 水枯槌と呼ばれる魔槌グルダゴを持つ摩将軍。

 干害将・ギュスタヴ。


 その大木が積み重なったような巨躯と、牡牛のような太い角を頭部に備え、全身を魔消鋼(アダマス)の鎧で覆った彼は、微かに唸った。

 風はない。冷気もない。本来ならば肉体を削ぎ、魔力の流れすら寸断するはずの山の拒絶は、今や存在していなかった。


「……まさか、止むとはな」


 呟きは低く、感情を伴わないようで、確かな驚愕の痕跡があった。

 ある魔女との盟約。魔族に残された数少ない秘宝と引き換えに行われたそれは、雲が消え、風が死に、神々の山脈を沈黙させた。その事実だけで十分だ。どのような魔法が使われ、誰がそれを成したのかは問題ではない。結果として、道は開かれている。

 麓に集った魔族たちは、まだ動かない。急ぐ必要などない。

 この山を越えるのに、もはや日数はいらない。夜明けと共に進めば、三日もかからず人域に至る。


「ふむ……」


 視線が、山頂の一点を捉える。

 小さすぎて、姿は見えない。だが、魔力の揺らぎだけは誤魔化せなかった。

 何かが、そこにいる。

 何かが、見てしまった。


「……だが、遅い」


 それだけを告げると、影は背を向けた。もはや山は障害ではなく、ただの地形に過ぎない。気づいた者が一人いたところで、結果は変わらない。

 世界は、もう動き出している。








 ジルベールの視界が、滲んだ。

 目に集めていた魔力が散り、遠眼の光景が現実へと引き戻される。膝が震え、凍土に力なく触れた指先から、冷たさが骨にまで染み込んでくる。

 理解してしまった。

 ここで見たものは、知らせればどうにかなる規模ではない。騎士団が間に合うかどうかではない。人域全体が、村が、既に射程に入っている。


 どうしようもない。

 自分には、何もできない。

 剣を握っても、魔法を放っても、あの数の魔族の前では、意味を持たない。

 胸の奥から、重たい絶望がせり上がる。息が詰まり、視界が暗くなる。それでも、完全に崩れ落ちる前に、指先が何かを掴んだ。


 祖父の首飾りだ。

 冷たいはずの金属は、不思議と温度を失っていなかった。脈打つように、微かに光を返している。助けを与えるわけでも、奇跡を起こすわけでもない。ただ、ここに立っているという事実だけを、静かに肯定している。

 ジルベールは歯を食いしばり、震える足に力を込めた。


 勝てない。救えない。それでも――見なかったことには、できない。

 ここで立ち尽くせば、本当に何も残らない。

 彼は立ち上がり、風の止んだ山頂に背を向けた。

 滑落の危険も、体力の限界も、今は考えない。考える暇を、自分に与えなかった。

 ただ一つ。


 この事実を、下へ持ち帰る。

 それだけが、今の自分に許された唯一の役割だった。

 凍土を蹴り、ジルベールは駆け出す。

 しかし、長年にわたって華晶石が採掘され続けてきた結果なのか。

 あるいは、この瞬間へ至るためだけに積み重ねられてきた、歪んだ運命だったのか。

 ジルベールが踏み出したその一歩で、足元の感触が変わった。


 硬いはずの凍土が、わずかに沈む。

 雪でも岩でもない、張り詰めた氷を踏み抜いたとき特有の、不自然な遅れ。

 次いで、低く鈍い音が足元から響いた。

 ひびだ。それも一本ではない。


 氷の内側を走る細い線が、瞬く間に広がっていく。まるで、透明な大地そのものが耐えきれず、内部から割れ始めたかのようだった。

 視線を落とした瞬間、凍土の下に閉じ込められていた結晶層が露わになる。

 華晶石の蕾が、幾つも、幾つも、氷の中で押し潰されるように歪んでいた。


 瞬間、地面が崩落した。

 砕けた氷と雪が、支えを失い、一斉に落ちていく。足場は消え、身体は宙へ放り出される。浮遊感は一瞬だった。すぐに、重力が牙を剥く。

 冷え切った空気が下から吹き上がり、喉を突き、息を奪った。

 下は見えない。闇だけが口を開けている。


 先に落ちた氷片や結晶の欠片が、どれだけ経っても音を返さない。その事実が、深さを何より雄弁に物語っていた。

 身体が回転し、視界が乱れる。必死に手足を伸ばすが、掴めるものは何一つない。崩れた断面は脆く、触れたそばから崩れ落ちていく。


 落下の最中、断崖の内部が一瞬だけ見えた。

 層を成す氷の奥に、無数の華晶石の断面が埋まっている。蕾のまま、開くことを許されず、長い時間をここで過ごしてきた痕跡。

 掘られ、削られ、奪われ続けた末に残った空洞。


 その限界が、今、音もなく崩れ落ちている。

 上方から差し込んでいた星明かりが、細く引き伸ばされ、やがて闇に呑まれる。

 方向感覚も、距離も失われ、ただ落ちているという感覚だけが、身体に貼り付いて離れない。

 冷気が、湿り気を帯び始める。

 底が近いのか。それとも、まだ遥かなのか。

 答えはなく、闇だけが続いていた。








 

 目を覚ましたとき、ジルベールは自分がどこにいるのか理解できなかった。

 冷たいはずの空気は、奇妙なほど澄みきっている。息を吸い込むと、肺の奥まで透き通るような感覚があった。痛みも、落下の衝撃も、どこか遠い。

 視界に映ったものに、思わず息を呑む。


 透明な氷塊の中に、花々が閉じ込められていた。白く、淡く、形を保ったまま凍りついた花弁。その周囲には、砕けて地に散らばったオルドの花石が幾つも転がっている。

 よく見れば、それらは結晶化する前の姿だった。


 オルドの花。


 人域ではすでに絶滅した花だ。神域でさえ、霊脈の傍か、空気中の魔力濃度が異常に高い限られた場所にしか生息できない。群生すれば、その土地の霊脈を枯らし尽くすと伝えられる、祝福と災厄を併せ持つ神話の花。

 それが、ここにはある。

 しかも、氷に閉ざされたまま、数え切れないほど。

 だが、この場所を真に神話の内側へと変えているものは、別にあった。


「……ドラゴン」


 声が、震えた。

 神話の時代にすら、指折りしか存在しなかったとされる最強の生物。暴力の象徴であり、災害の化身。神々ですら恐れた、星の頂点捕食者。

 その存在が、氷塊の奥で眠っている。

 純白の鱗は、まるで内側から光を放っているかのように瞬いていた。二十テルスはあろうかというしなやかな巨体が、氷に抱かれたまま横たわっている。その姿は、死体というよりも、時間そのものに封じられた彫像だった。

 そして、胸元。


「……剣」


 一振りの剣が、竜の胸に深く突き立てられている。刀身はほとんど見えず、心臓に届いていることは疑いようがなかった。

 その光景を前にして、ジルベールの意識は奇妙なほど静まり返っていた。

 左腕が折れていることも。

 山の下に集う魔族の軍勢も。


 今まさに危機に瀕している村のことも。

 すべてが遠ざかり、ここだけが物語の中心になったかのようだった。

 導かれるように、剣へと手を伸ばす。

 触れた刹那、現実が戻ってくる。

 この剣を抜くという行為が、何を意味するのか。


 それは竜を目覚めさせることと同義なのだと、何かの意思が痺れるように腕に伝わる。

 剣は、強烈な魔力を帯びている。一方向へと押さえ込む、堅固で揺るぎない力。封印。あるいは、契約の楔。


 これを解けば、何が起きる。

 竜が目覚めれば、村はどうなる。

 だが、解かなければ、魔族はどうなる。

 賭けだった。


 結果として、すべてを早めるだけかもしれない。滅びの形を変えるだけの愚行かもしれない。

 それでも、ここで何もしなければ、確実な終わりが待っている。

 選択肢は、最初から一つしかなかった。

 ジルベールは、剣に指をかけたまま、すぐには力を込められなかった。


 触れただけで分かる。

 これは、人が引き抜くことを前提にしたものではない。

 剣は冷たいはずだった。だが実際には、温度の概念そのものが曖昧だった。冷でも熱でもない、ただ圧倒的な「重さ」が、掌から腕へと伝わってくる。金属の感触というより、世界の一部を掴んでいるような錯覚だった。


 息を吸う。

 肺が、軋んだ。

 剣に宿る魔力が、押し返してくる。

 一方向に、ただ沈めるためだけに存在する力。抜かれることを拒む意思すら感じさせない、絶対的な固定。


 それでも、ジルベールは歯を食いしばり、力を込めた。

 最初は、何も起こらなかった。

 筋肉が張り、肩が震え、折れた左腕から遅れて痛みが追いついてくる。だが剣は微動だにしない。氷に刺さっているのではない。竜の胸に、世界そのものに縫い留められている。


 呼吸が乱れる。

 視界の端が暗くなり、耳鳴りが始まった。

 魔力を流す。

 細く、慎重に。だが剣はそれを受け流し、逆に圧を返してくる。まるで「足りない」と告げられているようだった。

 ならば、と。ジルベールは、ためらいを捨てる。制御を捨て、魔力を押し込んだ。

 身体の奥が、焼ける。


 血管を逆流するような感覚。魔力が肉体の限界を無視して流れ、筋繊維が悲鳴を上げる。骨がきしみ、関節が外れそうになる。それでも、剣は動かない。

 膝が崩れそうになるのを、必死で踏みとどまる。

 足裏の感覚が消え、氷の冷たさすら分からなくなっていた。


 それでも、離さない。

 この剣を抜かなければ、何も始まらない。

 ここで手を放せば、すべてが終わってしまう。

 喉の奥から、掠れた声が漏れた。叫びにもならない音だった。

 そのとき、ようやく。

 ごく微かに、感触が変わった。

 剣が、動いた。

 ほんの、指一本分。

 それだけで、世界が軋む。


 圧縮されていた魔力が、解放されかける。その反動が、ジルベールの身体を内側から叩き潰そうとする。内臓が浮き、視界が白く染まる。

 だが、ここで止まれば、二度と持ち上がらないと直感が告げていた。

 ジルベールは、残っているすべてを注ぎ込む。


 膂力も、魔力も、生命力も。

 未来のために取っておく余地は、もうなかった。

 剣が、さらに抜ける。

 刀身が露出し、眩い白光が氷塊を照らす。星光を凝縮したかのような輝きが、洞窟の天井に反射し、世界を白に染め上げる。


 その光の中で、ジルベールは自分の限界が崩れていくのを感じていた。

 腕の感覚が消え、指が自分のものか分からなくなる。心臓の鼓動が遠のき、呼吸が浅く、短くなる。

 それでも、最後の力で引いた。


 剣は、完全に抜けた。

 硬質な音を立てて、氷の上に転がる。

 その瞬間、ジルベールの身体も限界を迎え、力なく倒れ込んだ。

 意識が、途切れそうになる。けれど、瞼を閉じることは出来なかった。


 視界の端で、白い光が咲いた。

 自分と共に落ちてきたオルドの花石。何百時間もの魔力を注がなければ開花しないはずの蕾が、次々と膨らみ、咲き誇っていく。

 魔力が満ちる。

 空間が、呼吸を始める。


 そして――

 竜が、目を覚ました。


『……どれほど、眠っていたことだろう』


 音はない。

 だが、その言葉は確かに理解できた。竜の放つ魔力の波長が、直接脳を揺らしている。


『小さき者よ……報いよう』


 ジルベールは、瞼を開けることさえ精一杯だった。だが、自分を見下ろす視線と、極めて慎重な息遣いを感じ取る。今動けば、氷塊の崩落に彼を巻き込む。それを竜は理解している。


『与えられれば、竜は与える』


 それは、古より続く約定の宣誓だった。


『小さき者よ。何を望む』


 ジルベールは、喉を震わせる。


「……助けてくれ」


 それが、彼に絞り出せた唯一の言葉だった。


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