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第一章 《    》 2

 翌朝、ジルベールは夜明け前に支度を整えた。祖父が最も大切にしている、緑色の結晶が嵌め込まれた魔道具の首飾りを首に掛ける。風よけの宝珠。その存在は小さいが、込められた魔力は、この山を越えるための最低条件だった。


 一週間分の携帯食を革袋に詰め、ヴァルホル山脈の高所に棲む、毛足の長いヴァルホル山羊の毛皮で作られた防寒着を重ねる。厚く、重いが、これがなければ凍死は免れない。

 準備を終え、祖父に一言伝えようと振り返ると、すでにその姿は戸口にあった。


「ジル、暗がりには気をつけい」


 幼い頃から聞かされ続けた小言が、いつも通りの調子で投げかけられる。


「お前のような紫水晶の瞳を持った者は、昔から魔に魅入られやすい」

「はいはい。じゃあ行ってくるけど、世話はいつも通りリムグさんに頼んどいたから」

「そこまでは老いておらん」


 軽口の応酬の裏で、祖父が華晶石の採掘を孫に任せているという事実が、静かに横たわっている。盲目とは思えぬ身のこなしで家事もこなすが、衰えがないわけではない。元から得意ではない料理など、隣人に頼む方が互いに楽だろう。

 ジルベールは深く一礼し、村を後にした。








 ヴァルホル山脈は、下から見上げるのと、実際に足を踏み入れるのとでは、まるで別の存在だった。

 片道四日。人の歩みを拒むように連なる峰々は、登るほどに牙を剥く。祖父の首飾りがなければ、人間など容易く吹き飛ばされるであろう豪風が、絶え間なく吹き荒れている。それでも、風よけの宝珠が生む薄い結界が、身体の周囲に安定した空間を保ち、ジルベールは一歩ずつ前へ進めた。


 標高が上がるにつれて、息は浅くなり、肺が十分に空気を掴めなくなる。吸い込んだ息は喉の奥で凍りつき、吐き出せば白く砕ける。防寒着と、火の魔法による体温上昇を維持しなければ、数刻と持たない。

 岩肌には、風に削られた雪が張り付き、足を踏み外せばそのまま谷へと引きずり込まれる。ときおり、斜面の向こうに動く影が見える。毛足の長いヴァルホル山羊だった。四肢は短く太く、岩を噛む蹄は人の足では到底立てない場所に、容易く身体を預けている。こちらを一瞥するその瞳には警戒も恐れもなく、ただ「異物」を見るだけの冷たさがあった。


 さらに上では、白い羽毛に覆われた山鳥が、突風に逆らうことなく風に身を任せ、最小の力で滑空していく。その生き方そのものが、この山に適応した結果なのだと、ジルベールは思う。

 夜は洞穴を探し、簡易的な結界を張って休む。眠りは浅く、夢の中でも風の音が鳴り続ける。それでも、目を覚ませば、また登る。

 身体は疲労に軋み、指先は感覚を失いかけていたが、足は止まらなかった。


 祖父の言葉が、時折脳裏をよぎる。兄の背中が、遠くに浮かぶ。

 そうしてジルベールは、凍りつく息を吐きながら、なおも山頂を目指して歩き続けた。

 山は、登る者に距離感を錯覚させる。


 眼前に見える稜線は、歩けば近づくはずなのに、半日を費やしてもほとんど位置を変えない。雲が足元を流れ、気づけば、自分が地上から切り離された高さにいることを思い知らされる。

 風は絶えず、だが単調ではなかった。尾根に沿って吹き上げる流れ、谷から叩きつける乱流、氷壁に反射して刃のように鋭さを増す突風。それぞれが異なる意思を持つかのように、身体を揺さぶる。

 ジルベールは、足を置くたびに確かめる。岩の角度、雪の締まり、次の一歩を支えるだけの摩擦があるかどうか。(とう)(はん)というより、山と交渉している感覚に近かった。


 標高がさらに上がると、生命の気配は急激に減っていく。

 低地で見かけたヴァルホル山羊の姿は消え、代わりに、岩陰に張り付くように生える苔や、凍った土を割って顔を出す、刃のように硬い草が目につく。それらは風に逆らわず、ただ低く、低く身を伏せていた。


 ときおり、頭上を影が横切る。翼の短い高山性の猛禽だ。魔力を多く孕んだ雲を飛び続けることで、食事や睡眠すら必要がなくなるように進化した魔獣の一種だ。その存在は生態系が切り替わったことを意味していた。

 夜が近づくにつれ、気温は急激に下がる。防寒着の内側で火の魔法を維持していても、指先からは徐々に感覚が奪われていく。魔力を使えば疲労が増す。だが使わなければ、身体そのものが山に奪われる。

 その均衡を保ち続けることが、登るという行為の本質だった。


 山頂に近づくほど、空は深く、暗くなっていく。雲は下に沈み、頭上には、地上では決して見えないほど近い星々が広がる。星明かりに照らされた雪原は、現実というより、何か別の領域の入口のようだった。

 そのときだった。

 胸元で、祖父の首飾りが、かすかに震えた。


 最初は錯覚かと思った。風の衝撃か、心拍の乱れか。

 だが、次の瞬間、緑色の結晶が、内側から淡く光を帯びる。風よけの宝珠が生む結界が、わずかに形を変え、外界との境界を厚くするのが分かった。

 ジルベールは足を止める。


 視界に異常はない。魔獣の気配も、雪崩の兆候もない。それでも首飾りは、確かに反応している。

 風だ。ただの風とは性質の違う風が吹いたのだ。この首飾りはそれからジルベールを守ろうと一層に加護を強固にしたのだ。

 何度目かの登攀だが、この山には、まだ人の知らぬ層がある。


 祖父が、かつて踏み込み、そして語らなかった領域が。

 それでも、引き返すという選択は浮かばなかった。

 首飾りの光はやがて収まり、結界も元の形に戻る。だが、空気は微かに変質していた。音が吸い込まれるように消え、風の流れが、明確な方向性を帯び始める。


 ジルベールは再び歩き出す。

 一歩進むごとに、山は静かになる。

 風は弱まり、雪は音を立てずに舞い落ち、世界全体が息を潜めているようだった。

 この先に、華晶石が眠るだけで済むはずがない。そんな気がし始めていた。

 それを理解しながらも、彼はなお登り続ける。


 山頂は、すでに目の前だった。

 稜線を越えた先で、世界の質が変わった。

 風は止んでいた。吐いた息すら流れなかった。

 全てが止まっているようだった。吹き荒れていたはずの空気は凍りつき、流れを忘れ、音も衝撃も伴わない透明な層となって、山頂一帯を覆っている。


 足元の雪は、異様なほど整っていた。

 吹き溜まりも、削れもなく、ただ均一な厚みで広がっている。だが、それは自然のままではない。よく見れば、雪の下に、幾つもの浅い凹みや、不自然に平らにならされた跡がある。かつて人の手が入り、何かを掘り出し、その後を慎重に覆い隠した名残だった。


 祖父の首飾りが、淡く光を帯びる。

 警告ではない。拒絶でもない。

 周囲の魔力と、静かに歩調を合わせるような反応だった。

 ジルベールは息を整え、ゆっくりと前へ進む。


 やがて、雪原の中央に、円形の空間が現れた。

 そこだけ雪が薄く、下に透けるのは地面ではなく、透明な氷の層だ。氷は割れも曇りもなく、内部に何かを封じ込めるためだけに存在しているかのように澄んでいる。

 氷の中にあるのは――花だった。


 オルドの花石。

 華晶石。


 だが、いずれも蕾のままだ。

 完全に閉じたもの、わずかに花弁の先端が覗くもの、今にも開きそうでいて、決してその瞬間を迎えないもの。白い蕾が、氷の中で整然と並び、まるで時を止められた庭園のように広がっている。

 数は多くない。


 いや、正確には――減っている。

 ところどころに、明らかに空白があった。氷の層が不自然に薄くなり、再凍結した痕跡が残る場所。そこには、かつて蕾が存在し、掘り出された形跡がある。慎重に、しかし確実に採掘された跡だ。

 ジルベールは、その跡を一つずつ目で追う。


 祖父が若かった頃。

 あるいは、それよりも前の世代。

 この頂には、もっと多くの華晶石があったのだろう。

 ――いや、違う。


 胸の奥に、直感が落ちてくる。

 かつて、この山頂の地面は、花で埋め尽くされていた。

 蕾ばかりの白い花が、氷の下に隙間なく並び、雪の代わりに光を返していた時代があった。だが、人はそれを掘り、持ち去り、持ちきれなかった分が残った。


 氷の内側で、蕾は微かに光を宿している。

 呼吸のように、一定の周期で明滅するその光は、外から魔力を注がれるのを、静かに待っている。

 周囲の岩壁にも、痕跡は残っていた。

 結晶化に失敗した魔力の残滓。歪な形で固まり、花になれなかった名残。あるいは、蕾の段階で摘み取られたことで、再び形成されることのなかった空洞。


 ここは、生命の場ではない。

 だが、死の場でもない。

 ただただ、止まった世界だった。

 ジルベールは荷を下ろし、膝をついた。


 手袋越しでも、氷の冷たさが伝わってくる。この頂に残された蕾は、もう多くない。それでもなお、山は沈黙を守り続けている。既にここに住まう神々は討伐された。もう誰も、この山から奪うことを咎める者はいなくなっている。

 かつて白い花で埋め尽くされていたであろうこの場所は、今や選ばれた者だけが足を踏み入れる、静かな墓標のようだった。


 円形の氷原の縁に腰を下ろしたジルベールは、ゆっくりと道具を取り出した。短柄の槌と、刃先を薄く研いだ小さな鑿。どちらも祖父が使っていたもので、柄には長年の使用で手の形が刻まれている。力任せに振るうためのものではない。氷と結晶の境界を、正確に、壊さずに剥がすための道具だ。

 まず、氷の表面に指先を当てる。手袋越しでも、冷たさが骨に届く。その奥に、微かな抵抗がある。氷ではない。結晶でもない。華晶石が、この場所に留まろうとする意思のようなものだ。


 息を整え、鑿を当てる角度を決める。深く入れすぎれば蕾を傷つける。浅すぎれば、氷だけが砕け、振動が内部に伝わる。祖父に教え込まれた通り、境界に沿って、撫でるように。

 乾いた音が、世界に落ちる。


 槌は強く振らない。ただ、自重を預けるだけだ。それでも、氷には細かな亀裂が走り、霜が舞う。二度、三度。音は変わらない。山頂の沈黙は、それを拒まず、ただ受け止めている。

 やがて、氷の一部が、音もなく剥がれ落ちた。露わになったのは、白い蕾を抱く結晶。透明度の高い華晶石だ。内部で、蕾は眠ったまま、わずかに光を溜め込んでいる。

 ジルベールは両手でそれを支え、慎重に持ち上げる。重さは見た目よりも確かで、ただの鉱物ではないことを、掌が理解する。


 一つ。

 次に、少し離れた位置でもう一つ。こちらは氷が厚く、鑿を入れる回数が増える。集中力が削られ、呼吸が乱れる。それでも、手を止めない。

 氷が割れる音が、わずかに高くなった。

 嫌な感触ではない。だが、境界が揺らいだ。


 その瞬間だった。

 胸元で、祖父の首飾りから感じる魔力が、微かに揺らぐ。

 はっきりとした反応だった。緑色の結晶が、内側から明確な光を放ち、結界が一段階、厚みを増す。風よけの宝珠が、外界に向けて、警戒の形を取った。

 ジルベールは、思わず顔を上げる。


 ――風が、来る。

 音もなく、だが確実に、空気が動いた。

 先ほどまでの静寂とは異なる。流れがある。方向がある。魔力を含んだ、密度の高い風だ。皮膚に触れる前に、内臓が先にそれを感じ取る。肺の奥が、重くなる。

 氷原の中心で、変化が起きた。


 蕾が、膨らんだのだ。

 一つではない。二つ、三つ。氷の内側で、白い蕾が、わずかに花弁を押し広げる。完全には咲かない。ただ、閉じたままだった均衡が、崩れ始めた証だ。

 光が、強まる。

 明滅の周期が乱れ、華晶石全体が、周囲の魔力に応答し始める。まるで、長い眠りの中で、遠くの足音を聞き取ったかのように。

 風が、山頂を撫で抜ける。


 それは自然のものではない。誰かが、どこかで、魔法を行使した。その余波が、地形と魔力濃度に導かれ、この場所に届いたのだ。

 ジルベールは理解する。

 この山は、ただ高いから華晶石が生まれるのではない。魔力が集まり、滞留し、反応する場なのだ。そして今、その場が、外部から刺激を受けた。


 ――下だ。

 直感が、明確な形を取る。

 山の下に、何かがいる。

 魔獣か、人か、それとも――かつて討たれたはずの存在の残滓か。分からない。だが確かなのは、無関係な力ではないということだ。


 風は、去らない。

 山頂に留まり、蕾を震わせ、氷の層を軋ませる。世界が、再び動き出そうとしている。

 ジルベールは、採掘した華晶石を素早く包み、荷に収めた。目は、まだ咲ききらない蕾から離れない。

 それは眠っていた山が、急激に覚めていくようだった。

 ジルベールは、荷を背負ったまま、村とは反対側――神域の麓へと続く凍土を駆けた。

 足元の雪は固く締まり、踏み込むたびに鈍い衝撃が脛を打つ。高度による酸欠と疲労で肺が焼けるように痛むが、立ち止まるという選択肢は最初から存在しなかった。


 稜線に辿り着くと同時に、彼は目に魔力を集める。視力強化。祖父に繰り返し叩き込まれた基礎術式だ。

 世界が、引き延ばされる。

 距離が縮み、色が分解され、遥か下の地形が、手に取るように浮かび上がった。

 雲が、ない。


 常にこの山脈を覆っていたはずの、魔力を孕んだ雲海は、霧散していた。まるで、何かに吹き払われたかのように。

 そして、その下。

 もう夜の帳は落ちたが、強化された視力によって麓を埋め尽くす影が視界に飛び込んでくる。


 ――魔族。

 人に近い姿を持つ亜人種とは、決定的に異なる存在。限りなく異形に近いが、獣でも魔獣でもない。高い知能と、悪意を自覚した意思を持つ、悪魔の僕。

 巨大な蝙蝠のような翼を広げ、地を覆うもの。

 山羊の頭部を持ち、二足で整然と立つもの。

 魔力を孕んだ岩塊が、軋む音を立てながら自律的に歩行するもの。


 種類は多彩で、統一感がない。それにもかかわらず、その配置は秩序立っていた。野営用の簡易的なテント、魔力陣の痕跡、見張りと思しき配置。

 即席ではない。

 準備された軍勢だ。

 数は、もはや数えられない。


 大軍勢――そう呼ぶ以外に、適切な言葉がなかった。

 ジルベールの喉が、無意識に鳴る。

 自分では、到底太刀打ちできない。

 一体一体が、村の守備兵数人分の戦力を持っていることが、距離越しでも理解できた。


 侵攻だ。


 それも、歴史書の中でしか語られない類の――大侵攻。

 人域が侵される。

 そう理解した瞬間、思考が別の結論へと跳ぶ。

 ――村が、危ない。


 彼の生まれ育った場所。祖父がいる家。山に守られてきた、あの静かな生活。

 魔族達は、まだ動いていない。

 だが、それは「今すぐ動けない」のではなく、「動く必要がない」だけだ。

 ヴァルホル山脈。

 風と氷と高度が、人間だけでなく魔族をも拒む天然の要塞。そのために千年以上、この山は人域の境界線として機能してきた。


 駐留する騎士がいない理由も、そこにある。

 誰も、この山脈を越えて侵攻してくるなど、想定していない。

 ならば――

 ジルベールは、胸元の首飾りを、無意識に強く握りしめていた。

 風よけの宝珠。

 先ほどの反応。

 魔力濃度の高い風。


 何らかの魔法、あるいは大規模な効果をもたらす魔道具による、風と冷気の無効化。

 そんな馬鹿げた仮定は、騎士団ですら思考の埒外に置く。それほどあり得ない。

 だが――

 現実は、眼前にある。

 山を覆っていた雲は消え、風は変質し、魔族は麓に集結している。

 この山が、もはや完全な障壁ではなくなりつつある証左だった。


 もし、今、動かれたら。

 身体能力の高い魔族なら、この山脈を越えるのに三日とかからない。

 三日。

 ジルベールが、この知らせを携えて下山する時間。

 村に伝え、避難を始める時間。

 さらに、騎士団に連絡が届くまでの時間。


 頭の中で、計算が走る。

 どこをどう切り詰めても、間に合わない。

 仮に知らせが届いたとしても、避難が完了する前に、魔族は村へ到達する。

 理解した瞬間、身体の芯が冷え切った。

 どうしようもない。選択肢が、存在しない。

 山の上で、少年一人が、この事実を知っているだけだ。


 風が、再び吹く。

 魔力を孕んだそれは、蕾を震わせ、氷を軋ませ、遠く麓の軍勢へと繋がっている。


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