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子供の頃、少年たちの殆どはこう言っただろう。
「バベルの騎士になる」と。いつしか農具を手にしたり、鉄を打っていたり、家畜を育てたりしているのが現実だが、まだ手習い所で読み書きを習う頃には、誰もが一度はその言葉を口にした。剣を振るい、神域へと踏み込み、名を残す。そんな夢を語るのに、理由など必要なかった。
成人まで、あと二年。
十五歳になったジルベール少年は、本が積まれた倉庫で目を覚ました。低い天井の梁が視界に入り、干し草と古紙、乾いた木材の匂いが混じった空気が、眠りから覚めきらない頭をゆっくりと現実へ引き戻す。背中には硬い床の感触が残り、肩にはいつの間にか毛布が掛けられていた。その毛布は年季の入ったもので、ところどころ擦り切れ、しかし洗い込まれた柔らかさだけは失われていない。
倉庫の中には、壁際に沿って木箱が積み上げられ、その上や隙間に、無造作に、しかし丁寧に扱われてきたことが分かる本が並べられていた。革装丁の魔道書、紙質の荒い写本、題名の擦り切れた古い記録帳。どれもが多少大きいだけの家の倉庫に置かれているには不釣り合いで、同時に、この場所でなければ置き場がなかったのだろうという事情も透けて見える。
デュランという家名が与えられるくらいには、自分の祖父は人類に貢献したらしい。その事実は、役所の記録や国からの年金、村人の曖昧な敬意の中に、かろうじて形を留めている。だが、過去を語らない盲目の老人となった今では、その功績は血筋として誇るものではなく、こうして民間人とは思えない量の魔道書に囲まれて暮らせていることを、有り難く思う程度にしか実感できなかった。
ジルベールは身体を起こし、毛布を畳みながら、昨夜ここで本を読んでいた記憶を辿る。文字を追ううちに眠りに落ち、祖父か、あるいは誰かが気付いて毛布を掛けてくれたのだろう。そのささやかな気遣いに、胸の奥がわずかに温かくなる。
第六騎士団の前線がほど近い村で生まれたジルベールにとっても、戦争とは絵物語の中の出来事だった。騎士団の名は聞き慣れていても、剣戟や流血は、遠い地平の向こう側に置かれた概念に過ぎない。
倉庫の扉を押し開けると、冷たい空気が一気に流れ込んできた。朝の光が差し込み、埃が舞い、ジルベールは思わず目を細める。そのまま外へ一歩踏み出し、村を見渡した。石造りと木造が混じった家々が静かに並び、煙突からは細い煙が立ち上っている。人々はいつも通りの朝を迎え、戦争など存在しないかのように、淡々と日常を始めていた。
視線を上げると、目前には九つの雲にまで届く高山が連なるヴァルホル山脈が聳えている。白く冠雪した峰は朝日に照らされ、神話の挿絵のように静まり返っていた。ここ五十年以上、開拓は進まず、またこの天然の要塞のおかげで、亜人や魔族が村に迫ったこともない。山脈は守りであり、境界であり、同時に外の世界を遮断する壁でもあった。
冷たい風が吹き下ろし、ジルベールは思わず身をすくめる。吐く息が白くなり、腕を抱えるようにして肩をすぼめた。この寒さも、この静けさも、自分が守られている証なのだと、頭では分かっている。それでも、胸のどこかで、山の向こう側に広がる世界を想像せずにはいられなかった。
ジルベールの兄は、第六騎士団の騎士となっている。首都の騎士学校で学び、正式に第六騎士団へ配属され、現在は首都オーディルに務めている。手紙でしか知らないその暮らしは、この村とはまるで別の時間が流れているようで、同じ血を分けた存在でありながら、どこか遠い人物のようにも感じられた。
寒さに身を震わせながら、ジルベールはもう一度山脈を見上げる。守られた場所にいる自分と、その外で剣を握る兄。その距離を測るように、彼は無意識に息を吸い込み、静かに吐き出し。ジルベールは倉庫を後にした。
自宅はすぐそこだった。倉庫と同じく古い造りで、石積みの基礎の上に太い梁を渡した家は、村の中でも少しだけ年を経ている。祖父がまだ現役だった頃に建て直されたものだと聞いたことがあるが、その話も詳しく語られることはなかった。扉を開けると、乾いた薪と油の匂いが鼻をくすぐり、外よりも幾分か温い空気が迎え入れてくる。
ジルベールはまず台所に向かい、籠に残っていた鶏の卵を確かめる。数は多くないが、今日一日には十分だ。棚の奥から干し肉を取り出し、包丁で薄く削ぐ。保存のために塩気が強く、刃を入れるたびに硬い繊維が抵抗を返してくる。鍋に水を張り、火を入れ、干し肉を先に放り込んで塩を落とし、刻んだ根菜を加え、最後に卵を溶き入れる。特別な料理ではない。ただ腹を満たすための、村ではどこにでもある食事だ。
もう一つ、小さな皿に祖父の分をよそい分ける。量は控えめだが、柔らかく煮えるよう時間をかけた。盲目になってなお、祖父の佇まいは堅牢だった。背筋は自然と伸び、動きは遅くとも無駄がなく、ただ座っているだけで、家の中に一本芯が通る。かつて剣を振るった人間の名残なのか、それとも魔道書に囲まれて過ごす時間が作ったものなのか、ジルベールには分からない。ただ、その前に食事を置く時、自然と姿勢が正されるのだけは確かだった。
食後、ジルベールは家の裏手に回る。そこには踏み固められた土の小さな空き地があり、木杭が数本、簡素な標的として立てられている。剣は本物ではない。木剣だ。だが、握りには布を巻き、重さの配分も祖父の指示で調整されている。構え、踏み込み、振り下ろし、戻す。その一連の動作を、息が乱れるまで繰り返す。汗が滴る青髪が揺れ、眉から流れ落ちた雫が目を微かな刺激を与える。剣の型は騎士団で教えられる正式なものではないが、無駄がなく、身体の軸を崩さない動きだけが、厳しく求められた。
数時間も続ければ、腕は重くなり、汗が滲む。剣を振るたび、兄の姿が脳裏をよぎる。騎士学校で学び、正式な鎧を身に着け、首都オーディルで任務に就く兄。手紙に綴られた言葉は少ない。それでも、その簡潔さの奥に、村とは別の速度で進む日々が透けて見えた。同じ剣でも、自分が振る木剣と、兄が振る鋼の剣の間には、埋めようのない距離がある。それでも、今は振るしかないのだと、ジルベールは歯を食いしばる。
鍛錬を終えると、井戸から汲んだ冷水を浴びる。頭から一気にかぶると、息が詰まり、声にならない声が漏れる。だが、その冷たさが、身体の奥に溜まった熱と疲労を一気に押し流してくれる。水滴が背を伝い、土に落ちる音が、やけに大きく聞こえた。
昼食の前、再び倉庫へ向かう。午前中に読みかけだった本を手に取り、埃を払って頁を開く。魔道の理論書、古い遠征記録、神域に関する断片的な記述。どれも今すぐ役に立つわけではないが、兄が歩いた道の延長線上にある知識だと思えば、文字を追う指先に力が入る。
外では村の生活音が続いている。家畜の鳴き声、鍛冶場から響く金属音、子供たちの笑い声。戦争とは無縁の、穏やかで確かな営み。その中で、ジルベールは本を読み、剣を振り、料理を作り、祖父の分まで食事を整える。
騎士になる夢は、まだ遠い。だが、この村での一日一日が、その夢を支える土台であることは理解している。
午後の光が傾き始める頃、倉庫の扉の向こうから、ゆっくりと足音が近づいてきた。板を踏む音は控えめで、しかし迷いがない。その歩みを聞いただけで、ジルベールは頁から視線を上げる。
「起きていたか」
低く、掠れた声。祖父だった。
黒い杖を頼りに倉庫へ入ってくるその姿は、視界を失って久しいにもかかわらず、足取りが乱れない。ここに何が置かれているか、どこに段差があるか、その全てを身体が覚えているようだった。
「昼は食べたのか」
「はい。用意してあります」
そう答えると、祖父は小さく頷き、積み上げられた木箱の一つに腰を下ろす。その動作は慎重でありながら、年齢以上の確かさを帯びていた。
しばらく、倉庫には頁をめくる音だけが残る。祖父は何も言わず、ジルベールも本を閉じない。ただ、同じ空間で、それぞれの時間を過ごしているという感覚だけが、静かに共有されていた。
やがて祖父が口を開く。
「……山を見ていたな」
問いではなかった。
ジルベールは一瞬だけ言葉に詰まり、それから正直に頷く。
「向こう側が、気になって」
それに、首都や王都のことも。
祖父はそれ以上追及しない。ただ、杖を握る指に、ほんのわずかな力が籠もった。
「守られている場所は、良い」
そう言ってから、少し間を置く。
「だが、守られているだけでは、人は先に進めん」
その言葉は教訓でも叱責でもなく、事実の確認のように落ちた。
ジルベールは祖父の横顔を見る。盲目の眼は何も映していないはずなのに、その向こうに、かつて見てきた戦場や、人域の果てや、神域の光景が重なっているような気がした。
「兄は……」
言いかけて、ジルベールは口を閉じる。続きを言わずとも、祖父には伝わったのだろう。
「第六か」
「はい」
「無事だ」
断定だった。理由は語られない。ただ、その一言には、過去に積み上げられた経験と、人を見る眼が宿っていた。混亜戦線を支える第三騎士団に、援軍として第六騎士団から幾つかの隊が送られたという話しは、この辺境にも入ってきていたが、そんな心配など無用だと言外に語られた。
再び沈黙が戻る。
倉庫の外では、風が山脈を越え、木々を揺らしている。その音は低く、一定で、遠くで鳴る波のようだった。
ジルベールは本を閉じる。文字を追う集中が、いつの間にか解けていた。代わりに胸の奥で、形にならない衝動が、ゆっくりと重みを増している。
「……お祖父ちゃん」
「なんだ」
「僕は」
一度、言葉を切る。
「兄のように、なれますか」
祖父はすぐには答えなかった。杖に両手を添え、静かに息を整える。その姿は、何かを思い出しているようでもあり、何かを手放そうとしているようでもあった。
「ならば」
やがて、低く言う。
「本を読め。剣を振れ。食事を疎かにするな」
それだけだった。励ましも、反対もない。だが、その三つの言葉は、この村で生きる少年にとって、これ以上ない承認だった。
ジルベールは深く頷く。
倉庫の天井を支える梁の向こうで、空は少しずつ色を変えていく。今日という一日は、特別な出来事もなく、静かに終わろうとしている。その事実がジルベールの背を突いた。
祖父が倉庫を出て行くと、静寂が戻った。足音が完全に消えたのを確かめてから、ジルベールはゆっくりと息を吐き、再び木箱の一角に腰を下ろす。手に取ったのは、オルドの花石――あるいは華晶石と呼ばれる鉱物だった。
一輪の白い花が、透明度の高い氷の中に閉じ込められたような結晶で、光を受ける角度によって、花弁の輪郭がわずかに浮かび上がる。人工的な美しさではない。自然が偶然と時間を重ねて生み出した、魔力を宿すためだけに存在しているかのような形だった。
ジルベールは結晶を両手で包み込み、目を閉じる。意識を深く沈め、体内に巡る魔力を探る。剣の才において、兄には及ばない。それは幼い頃から、何度も突きつけられてきた事実だった。だが、文字を追い、理を理解し、積み重ねることは嫌いではない。その性質が、自然と魔法へと彼を向かわせていた。
魔力を込める作業は、魔法を扱う者にとって最も基本的な鍛錬だ。派手な術式も、詠唱もない。ただ、魔力を乱さず、溢れさせず、器に馴染ませる。集中を欠けば結晶は濁り、焦れば花は閉じたまま応えない。
一週間ほど、こうして魔力を注ぎ続けることで、結晶内の花はゆっくりと開花する。花弁が完全に開いた華晶石は、魔道具の媒介として高い価値を持ち、市場では祖父の年金を補って余りある額で取引される。
だが、手元に残る華晶石は、すでに一つだけだった。祖父の騎士年金は、質素な生活を支えるには足りるが、余裕はない。ならば答えは一つしかない。
ヴァルホル山脈の頂へ行く。
あの人の踏み入らぬ場所で、自然のままに眠る華晶石を、自分の手で採ってくる。




