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《騎士の矜持》 3

 まる一日が二次試験に費やされ、合否が告げられたのは翌朝だった。空はまだ白みきらず、夜の冷えが地面に残る時間帯だというのに、集合地点には志願者たちが集められていた。ジルベールもヴァレリアンも、立ったまま船を漕ぎそうになる意識を必死に繋ぎ止めていた。身体は限界を超えている。今すぐ横になれば、泥のように眠れる自信があった。それでも眠れなかった。名前を呼ばれるかどうか、その結果が分からないまま目を閉じることなどできなかったのだ。


 試験官が名簿を手に、淡々と名前を読み上げていく。呼ばれるたびに、安堵の息と、抑えきれない嗚咽、あるいは沈黙が生まれる。ジルベールはただ前を見つめ、呼吸を整えながら待った。やがて、自分の名が呼ばれる。少し遅れて、ヴァレリアンの名も続いた。

 言葉はなかった。ただ視線を交わし、互いに小さくうなずく。それだけで十分だった。過酷な外周走と、限界の中で振るった剣。そのすべてが報われたと、二人とも理解していた。

 解散の流れの中で、ヴァレリアンが肩を落としたまま笑う。


「次が最後のはずだ。三次試験は筆記で、読み書きができるかを見るだけらしい。よほどのことがない限り、ここまで来た者は落とされないさ」


 その言葉に、ジルベールはようやく胸の奥の緊張がほどけるのを感じた。剣や体力ならともかく、読み書きで足をすくわれることはない。祖父に仕込まれた基礎は、こういう場面で確かな支えになる。

 そのままテントへ戻ろうとするジルベールを、ヴァレリアンが呼び止めた。


「な、なあ、今日はうちの宿に来ないか? 天幕よりは、まともに休める」


 一瞬、遠慮が浮かんだが、正直なところ、久しぶりにベッドで眠りたいという欲求がそれを上回った。背中の痛みも、脚の重さも、布切れ一枚隔てただけの地面では癒えそうにない。ジルベールは短くうなずき、誘いを受けることにした。

 ヴァレリアンの借りている宿は、外観からして違っていた。石造りの建物は清潔に整えられ、扉をくぐった瞬間、外の埃と汗の匂いが遠のく。用意された部屋には、しっかりした家具と柔らかな照明があり、ジルベールはそれだけで場違いな気分になる。

 宿に入ってすぐ、ヴァレリアンは当然のように言った。


「先に湯を使っていい。君の方が、よほど酷い顔をしてる」


 そう言われて、ジルベールは一瞬きょとんとする。湯、という言葉が、頭の中で現実味を伴うまでに少し時間がかかった。これまで身体を洗うといえば、井戸水か川水だった。冷えきった水を桶で被り、歯を食いしばって汚れを落とす。それが当たり前で、疑いもしなかった。

 案内された洗い場には、湯気が薄く立ちのぼっていた。木桶に張られた水面から、かすかな湯気が揺れている。その光景だけで、胸の奥がじんわりと緩む。指先をそっと浸すと、思わず息が漏れた。


「……あったかい」

「なに当たり前のこと言ってるんだよ?」


 背後でヴァレリアンが笑う。


「今の身体に冷水なんて浴びたら、下手をすれば倒れるじゃないか」


 ジルベールは黙って衣服を脱ぎ、桶の縁に腰を下ろす。最初の一杯を頭から被った瞬間、声にならない息が喉から零れた。熱すぎるわけではない。ただ、じんわりと、骨の奥まで染み込んでくる温度だ。

 冷水を被ったときの、心臓が跳ね上がるような衝撃はない。代わりに、張りつめていた筋肉が、ゆっくりとほどけていく。肩の痛みが、背中の重さが、少しずつ現実のものとして意識に戻ってくる。


「……湯って、こんなに違うんだな」

「違うって?」

「冷たい水しか知らなかったから」


 そう答えると、ヴァレリアンは一瞬、言葉に詰まったようだった。


「……そうなのか」


 それきり何も言わず、壁に背を預ける。ジルベールはもう一杯、湯を背中に流した。外周路で冷え切った身体が、まるで内側から解けていくようだ。指先の痺れが消え、脚の震えも次第に収まっていく。

 これまで、走り終えたあとは川に飛び込み、息が止まるほどの冷水で汗と泥を落としてきた。痛みをごまかすために、あえて冷やすことも多かった。それが当たり前で、疑問に思ったことはない。だが、こうして温かい湯に包まれると、自分がどれほど身体を酷使してきたのかを、否応なく突きつけられる。


「……贅沢だな」


 思わず漏れた言葉に、ヴァレリアンが肩をすくめた。


「君だって、騎士になったら、これが当たり前になる」

「その当たり前には、当分慣れそうにない」

「直ぐに慣れるさ」


 軽い調子で言ってから、ヴァレリアンは少しだけ真面目な声になる。


「ジルベール。君がいなかったら、ボクは一次試験で脱落してた……感謝してる」


 ジルベールは「君なら、一人でも走りきったさ」とだけ零して、もう一度ゆっくりと湯を被った。温もりが、身体だけでなく、心の奥に溜まっていた疲労まで溶かしていく。目を閉じると、外周路の闇や、倒れた瞬間の痛みが、少しずつ遠ざかっていった。


「……明日、起きられるかな」

「起きるさ。三次試験がある」

「それが終わったら?」

「寝る」


 短い会話に、二人とも小さく笑う。湯気の向こうで、その笑い声は柔らかく溶けていく。

 食事も、これまでとは別世界だった。焼きたての白いパンは指で押すと沈み、噛めば柔らかく甘い。新鮮な肉と野菜は香り高く、腹に重くのしかかるはずなのに、不思議とするりと収まっていく。ジルベールは言葉少なに食べ進めながら、何度も皿に視線を落とした。

 やがて案内された寝室には、信じられないほど柔らかなベッドがあった。身体を預けた瞬間、沈み込みすぎて一瞬身構えるほどだ。


「実家の枕が恋しい……」


 そんなことを本気でぼやくヴァレリアンを横目に見て、ジルベールは思わず小さく笑った。自分にとっては、これまで経験したことのない贅沢だ。文句を言う余地などない。

 言葉を交わす間もなく、意識は急速に遠のいていく。柔らかな寝台に身を沈めたまま、ジルベールは久しぶりに、夢を見る間もない深い眠りへと落ちていった。

 











 三次試験は、拍子抜けするほどあっさりと終わった。

 歴史に関する基礎的な問いがいくつかと、千字程度の作文。騎士とは何か、なぜ剣を取るのか――――問い自体は平凡で、字が読めて書けるならまず落とされることはない、というヴァレリアンの言葉通りだった。ジルベールも、祖父から聞かされてきた昔話や、自分なりの覚悟を思い返しながら、指が攣りそうになるまで筆を走らせただけで済んだ。


 試験が終わった瞬間、二人はほとんど示し合わせたように、会場を後にして酒場へ向かった。

 酒場は、昼間から喧噪に満ちていた。木の床を踏み鳴らす足音、笑い声、杯が打ち合わされる乾いた音。汗と酒と煙草が混じった空気が、むっと鼻を突く。

 ヴァレリアンは入口で立ち止まり、きょろきょろと辺りを見渡した。


「……すごいな。こんな場所、来たことない」

「村には酒場自体なかったな」


 ジルベールも同じように目を泳がせる。二人とも、どう見ても場慣れしていない顔だった。

 席につき、注文を終えたところで、ジルベールは一度深呼吸をしてから言った。


「ここは、僕が払う」

「いいのかい?」

「これくらいは、ね」


 ヴァレリアンは一瞬目を丸くし、それから肩をすくめた。


「じゃあ、遠慮なく」


 運ばれてきたのは、淡い黄金色のエール。杯の縁には薄く切ったレモンが添えられている。ジルベールは少しだけ躊躇ってから、一口含んだ。


「……苦い」


 顔をしかめると、ヴァレリアンが吹き出す。


「はっ、ジルベールももう少し大人らしくなれば、この良さが分かるさ」


 そう言いながら、彼自身も喉を鳴らして無理やり飲み込んでいるのが丸わかりだった。眉間に刻まれた皺が、まだこの味に慣れていないことを雄弁に物語っている。

 二人は試験の話になり、自然と一次試験の外周路のことが話題に上る。夜の冷え込み、倒れた志願者たち、最後の直線。笑い話にできる部分だけを選んで語り合い、合否については互いに一切触れなかった。触れた瞬間、胸の奥に押し込めている不安が顔を出すと、二人とも分かっていたからだ。

 杯を重ねるうちに話題は移り、いつの間にか互いの子供時代や、剣を持った理由にまで及んでいた。思い出話をさかすように言葉を交わし、夜が更けても席を立たない。酒の力も借りて、考えないようにしていた不安を、ひたすら遠ざけていた。


 気づけば朝だった。

 白み始めた空の下、二人は酒場を出て、無言のまま別々に詰め所へ向かう。ここからは、それぞれ一人で結果を待つ時間だ。

 詰め所では、騎士が淡々と名簿を読み上げていく。出身地と名前。それだけで、合否が告げられる。

 ヴァレリアンは、都市近郊の出身ということもあり、早々に呼ばれた。名を呼ばれ、軽く振り返って笑う。その表情に、緊張が一気に緩むのを、ジルベールは感じた。

 そして、合格者の名が名簿の下へと近づくにつれ、詰め所に満ちていた空気は、次第に張り詰めたものへと変わっていった。


 残されている名前は、もう多くない。呼ばれる者よりも、呼ばれない者の数を意識し始める段階だ。

 ジルベールは無意識に拳を握りしめていた。あれほどやり抜いたのだ。ここまで来て、落とされるはずがない。そう思いたくても、胸の奥の不安は消えなかった。

 やがて、自分の名が呼ばれる。


「ヴァルホル村、ジルベール・デュラン」


 耳に届いた瞬間、現実味のない衝撃が押し寄せる。

 一歩前に出ると、周囲の視線が一斉に集まるのが分かった。無言でうなずき、列へ加わる。その動作ひとつひとつが、まだ夢の中のようだった。

 そして――最後に近い名が読み上げられる。


「トワイラインの谷……フランチェスカ・クルエラル」


 その名を聞いた瞬間、ジルベールの背筋に、はっきりとした悪寒が走った。

 忘れるはずがない。受付で出会った、あの少女だ。死を思わせる黒い瞳。異様なほど高額な提示。加護の宝石について、まるで常識のように語っていた口調。

 同時に、周囲の反応も変わる。

 ざわめきが、驚きから警戒へ、そして恐怖に近いものへと質を変えていく。


「……あの、クルエラル?」

「トワイラインの谷って……」


 小声の囁きが、波紋のように広がった。

 人の流れが、自然と割れる。

 詰め所の奥、影の濃い場所から、一人の女が静かに姿を現した。

 黒を基調とした外套に身を包み、歩みはゆっくりで、しかし一切の迷いがない。周囲を見渡すこともなく、まっすぐに騎士の前へ進むその姿は、試験を受けに来た志願者というより、最初から“ここに呼ばれていた者”のようだった。


 長い紫紺の髪が揺れ、その隙間から覗く黒曜石の瞳が、淡々と場を見渡す。

 三つの試験のどこにも、彼女の姿はなかった。外周路にも、剣の試験にも、筆記試験の席にも。それなのに、彼女はここに立っている。

 フランチェスカは軽く一礼し、騎士の前で足を止める。その所作はあまりに自然で、形式ばった緊張や不安が一切感じられない。

 そして、ふと視線を上げた。

 暗く黒い瞳が、まっすぐにジルベールを捉える。


「……あら、ここにいたのね」


 低く、柔らかな声。

 その声音だけで、受付で感じた底知れなさが蘇る。


「ジルベール、だったかしら。首飾りの件、考えてくれたかしら」


 覚えている。忘れたことなど、一度もなかった。ただ、考えないようにしていただけだ。


「……あー、えっと」


 言い訳めいた言葉を口にする前に、フランチェスカは楽しそうに微笑んだ。


「騎士になれたのね。なら、少しだけ待ってあげる」


 その余裕が、かえって不気味だった。

 そこへ、合格を祝おうと駆け寄ってきたヴァレリアンが、二人の間に漂う空気に気づき、足を止める。

 そしてフランチェスカの顔を認めた瞬間、目を見開いた。


「やったなジルベール、って……アンダーテイカー!?」


 その名がはっきりと口にされた瞬間、詰め所の空気が一段冷えた。フランチェスカは小さく肩をすくめ、どこか面白そうに微笑む。


「名が知れすぎるというのも困りものね。特に、悪名というものは」


 ヴァレリアンは言葉を失い、喉を鳴らす。


「……冗談だろ。あのクルエラル家が、同じ騎士学校に……」


 フランチェスカは再びジルベールへと向き直り、ほんの少しだけ距離を詰めた。


「これからは、同期ということになるかしら。ふふっ、騎士は殉職率がとても高いと聞くから、楽しみね。死んだら身体、くださらない?」


 その言葉に、逃げ場はなかった。

 彼女は確かに、合格者としてここにいる。

 こうして三人は、それぞれ異なる過去と事情を抱えながら、同じ騎士学校へと進むことになった。

 死を纏う淑女、名門騎士家の三男、そして辺境の村から来た平民の少年。

 三人が星剣によって苛烈な運命に苛まれていくのは、あるいはこの時に決まったのかも知れない。


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