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《騎士の矜持》 1

「千二百レオン、払うわ」


 その言葉が落ちた瞬間、空気が一拍、遅れて軋んだ。

 まるで重い扉が閉まる音のように、会場全体が沈黙に呑み込まれる。

 アンダーテイカーと名乗った少女は、何の躊躇もなく手のひらを差し出した。白銀貨が、十数枚。日光を受けて鈍く輝くそれは、金貨など比較にもならない価値を持つ。

 金貨ですら、人生で三度見たかどうかだ。祝いの席で一度、遠目に二度。触れたことなどない。

 その百倍の価値を持つ貨幣が、今、無造作に積まれている。


 ざわめきが、ようやく戻ってきた。

 騎士志願者たちは息を呑み、受付の騎士たちでさえ目を見開いたまま固まっている。冗談だと笑う者はいない。笑えない額だった。

 人生が変わるほどの大金。ジルベールは数泊遅れて理解した。

 畑を耕し、家を建て直し、孫の代まで働かずとも生きていける。数字ではなく、時間そのものを買える金だ。


「は、ぇ……」


 喉から漏れたのは、言葉ですらなかった。

 だが次の瞬間、祖父の背中と、何度も登ったヴァルホル山脈で自分を守り続けてくれた風除けの宝珠が脳裏をよぎる。

 それを、金に換えることなどできるはずがない。


「いや、これは――」


 一歩、前に出ようとして、足元の感覚がずれた。

 柔らかな布。抵抗。

 踏んだ、と理解したときには遅かった。


「あら」


 声は軽く、驚きはほんのわずかだった。

 視線を上げると、宝石の海の向こうで、アンダーテイカーが首を傾げている。困惑したような、だがどこか面白がるような表情。

 慌てて足を引く。ドレスの裾が、ゆっくりと元の形に戻る。


「ごめんっ」


 場の緊張は解けない。むしろ、別の方向に張り詰めていく。

 どうする。どう言えばいい。拒絶すれば、どうなる。

 思考が絡まりかけた、そのときだった。

 ――都会の女の子は紅茶が好きだ。

 ――困ったら、とりあえず誘え。断られにくい。

 祖父の声。いつの話かも分からない、苔むしたような知恵。

 だが、今のジルベールには、それしか浮かばなかった。


「えーっと……」


 一瞬、世界が静止する。

 受付の騎士の眉が動き、志願者の誰かが息を呑む。


「お茶でも、いかが……お嬢さん?」


 自分が何を言ったのかを、ジルベールは理解していない。

 千二百レオンを提示した存在を。墓と死を纏う少女を。彼はデートに誘ったのだ。

 アンダーテイカーは、しばし黙したままジルベールを見下ろした。

 紫の宝石が、静かに揺れる。やがて、唇の端がゆっくりと持ち上がった。

 その笑みが、吉兆か凶兆か。

 それを判断できる者は、この場には誰もいなかった。

 











 ジルベールには、最初の一歩からして間違っている場所だった。

 重厚な扉を押し開けた瞬間、外の喧騒と埃は完全に切り離され、磨き上げられた静謐だけが支配する空間が現れる。床は黒檀か何かだろうか、深い艶を湛え、靴底の音すら柔らかく吸い込む。壁には金の縁取りを施した絵画が均整よく並び、天井から吊られた水晶の燭台が昼なお仄かに灯り、銀器や白磁のカップに無数の光を反射させていた。客層も明らかに違う。鎧姿の者はおらず、騎士家の子弟らしい背筋の通った青年や、絹と宝石に身を包んだ令嬢たちが、互いの存在を確かめ合うように低い声で談笑している。給仕は足音一つ立てずに動き、紅茶の香りが静かに空気へ溶けていた。

 どこにカフェがあるのかすら知らないジルベールの代わりに、フランチェスカが選んだこの店は、どう見ても騎士家御用達の格式を纏っている。椅子に腰を下ろすだけで背筋が伸び、場違いであるという意識が否応なく胸に溜まった。


 腰に下げた魔剣ゼルザーが、視線を集めているのを感じる。布で包まれてもいない刃は、鞘越しでも分かるほどの異様な気配を放ち、磨き抜かれた調度品の中で、あまりにも露骨な「武」の象徴だった。視線は星剣には向かわない。布に包まれたそれよりも、人の手で鍛え上げられ、人を殺すために存在する業物の方が、この場ではよほど不穏なのだ。

 向かいの席で、アンダーテイカーと呼ばれた少女は、街中で見せた異様さを巧みに覆い隠していた。紫紺の髪は丁寧に整えられ、宝石の数も抑えられている。こうして見れば、どこにでもいる――とは言わないまでも、少なくとも“死”を直感させる存在には見えない。


 彼女は紅茶のカップを手に取り、砂糖壺から角砂糖を一つ、また一つと落とす。陶器に当たる乾いた音が、妙に大きく耳に残る。銀のティースプーンでゆっくりとかき混ぜると、琥珀色の液体が静かに渦を巻き、立ち上る湯気が宝石の輝きを柔らかく歪めた。その所作は、洗練されていて、時間をかけることを恐れていない者の動きだった。


「フランチェスカ・クルエラルよ」


 名乗りながら一口含み、満足そうに目を細める。その表情は、甘さを正しく評価する者のそれで、死や墓の影は一切感じさせない。


「……ジルベール・デュラン」


 慣れない椅子に背を預けつつ名を返すと、彼女は即座に反応した。


「デュラン……聞かない家名ね」


 探るような視線が一瞬、顔から肩口、腰の剣へと流れる。


「社交嫌いの七区の貴族かしら」

「平民だよ。祖父が元騎士なんだ」


 その言葉に、フランチェスカはほんのわずかに目を見開いた。宝石の光が揺れ、その感情が作り物ではないことを示す。


「随分と無知で、野望の高い人。でも操家の娘を口説こうなんて、怖い物知らずね」

「口説くって……」


 否定の言葉は弱く、彼女の余裕の前で霧散する。


「まさか知らないの、アナタ。子女のスカートの裾をわざと踏んで、お詫びにお茶を一杯奢ります、なんて昔からある誘い文句じゃないかしら」


 唇が楽しげに歪む。まるで初めて恋文を受け取った乙女のように。


「お茶なんて気軽に飲める場所に住んでなくてね」


 素直な返答に、フランチェスカは一瞬だけ瞬きをし、肩を竦める。


「あら、田舎者にしては良い剣ね」


 視線が腰の魔剣ゼルザーへ落ちる。刃の存在を感じ取った瞬間、彼女の目が細くなった。価値を測る者の視線だ。


「それで、その加護の宝珠は譲ってくれるのかしら」

 話題が、急に核心へ踏み込む。


「このネックレスは祖父が大事にしてるものなんだ。そんなにお金を積まれても上げられない」

 言い切る声は震えなかった。


「それ、風除けでしょう。ハーピーを人域から追い出して随分経つから、提示額は破格のはずだけれど」


「だから、言ってるだろ。大事なものなんだ」


 紅茶の湯気が、二人の間をゆっくりと漂い、言葉を遮る膜のように揺れる。


「それがどんなものなのか、アナタは知っているのかしら」


 フランチェスカは自分の胸元の宝石を指先でなぞりながら、淡々と語り始めた。その指は白く、滑らかで、だが宝石に触れるたび、どこか執着を孕んだ動きを見せる。


「星があらゆる種族に分け隔てなく与える恩寵、それが加護よ。害をなすものは呪いとも呼ばれるけど、些細な違いね。目が良くなるだけの遠見の加護。あらゆる投擲物が無効化される矢避けの加護。火傷をしなくなる嫌炎の加護。どんな祝福かは千差万別だけれど、どれも万に一つの幸運な体質」


 紅茶を飲む音が、静かに言葉の合間を埋める。


「そしてね、加護は生き物にしか宿らないの」


 間を置いて、彼女は笑みを保ったまま告げる。


「加護の宿った宝石は、元々の加護の持ち主の心臓を封じてあるのよ」


 その瞬間、彼女の身に着ける宝石一つ一つが、ただの装飾ではないことが、否応なく理解できた。冷えた感覚が背筋を下りる。


「……君は、何で騎士に」


 問いは、逃げ道を探すように零れた。


「人域を築いたバベルの始祖、カシウスは十七で神殺しを成したのよ。それなのに、ワタクシは箱の中で死体遊びしか許されないだなんて、可笑しいと思いませんの」


 語り口は軽やかで、だが内容は重い。


「人の死体には飽きましたの。より新鮮で、より強い死が欲しい。それに自分で取りに行く方が、きっと楽しいでしょうね」


 ニコリとした笑みが、あまりにも無邪気で、だからこそ恐ろしい。


「気が変わったらいつでも申してください。ですが早めにワタクシが望む答えを頂けないと、アナタは騎士名簿ではなく、墓標にその名を刻んでしまうかも知れませんわね」


 そう言い残し、フランチェスカは席を立った。宝石の重みを感じさせない足取りで去り、会計は当然のように彼女が済ませていく。


 暗殺予告をする女で、死体を飾りにする魔女の操家。それでも、礼儀と余裕だけは一流だった。

 ――意外と悪い奴でもないのかも知れない。

 そんな考えが浮かんでしまったこと自体が、何よりも恐ろしいのだと、ジルベールは冷めきった紅茶のカップを見つめながら思っていた。

 


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