《竜の背》 6
夜明けは、静かに訪れた。
薄闇がほどけ、村の屋根に朝の光が滲む。鶏の鳴き声が一つ遅れて響き、井戸の水面がわずかに震えた。それだけで、世界は何事もなかったかのように日常へ戻っていく。
ジルベールは家の前に立っていた。背には、白亜の鞘に納められた星剣。布で厳重に包み、背負い紐で固定してあるが、それでも隠しきれない存在感がある。重さはあるはずなのに、不思議と身体への負担は少ない。ただ、背中に預かっているものがあるという感覚だけが、はっきりと残っていた。
腰には魔剣ゼルザー。こちらは人の武器だ。星剣とは違い、確かな重みと冷たさがある。
戸口には祖父がいた。いつものように壁に寄りかかり、短く煙草を吸っている。
「背負ったな」
「うん」
「良い剣だな」
「そう思うよ」
それ以上は何も言わない。祖父はジルベールの背を一度だけ見つめ、ゆっくりと煙を吐いた。
「持って行け」
風除けの首飾りが投げ渡される。祖父が戦友との思い出として大切にしている、デュラン家の家宝のようなものだ。
兄ではなく自分に渡された事に何か言おうとして、辞めた。祖父はそれ以上、何も言わなかったから。
村の外れへ向かうにつれ、空気が変わる。畑の匂いが薄れ、冷えた山の気配が混じる。背中の星剣が、朝の霊脈に反応するのか、微かに温度を帯びたように感じられた。
ヴァルホル山脈は、朝霧の向こうに静かに横たわっている。
その手前に、ステラがいた。
外套を羽織り、星色の髪を束ねた姿。人の形をしていても、その佇まいは周囲から浮いている。視線が、自然と背中の星剣へ向いた。
「我が躯だ。どこぞに落としでもするでないぞ」
「分かってるよ」
「ふむ」
ステラは一歩近づき、布越しに星剣へ手を伸ばした。指先が触れた瞬間、剣はかすかに応じるように静まり返る。
「また、我は汝の背か」
淡々とした口調だが、そこに僅かな温かみを滲んでいた。
「その剣が抜けるとき、立ち向かおうなどと思うな。我を呼び、ただ逃げよ。それは恥じではない」
「はいはい」
「さすがに分かっておるか」
ステラは小さく息を吐き、視線を山へ向けた。
「我はここに移る。ヴァルホルで暮らし、霊脈を整え、力を蓄える」
「家に残ってもいいのに」
「人の暮らしに慣れすぎた。だが、我は竜なのだ」
一瞬、風が吹き、星色の髪が揺れた。彼女は再びジルベールを見る。
「騎士になるのか」
「なるよ。君の背に乗れるような、そんな騎士に」
「ならば、無様な死に方は許されぬな」
「それが励ましかよ」
「叱咤だ」
笑って、踵を返す。
一歩、また一歩。村道が細くなり、やがて土の道へ変わる。
背後で、風が大きくうねった。山の上空で、何か巨大なものが羽ばたいた気配がしたが、確かめることはしない。
朝日は完全に昇り、ヴァルハイムへ続く街道をまっすぐに照らしていた。
一月という時間は、地図の上では短い。
だが、馬車の上では確かな重さを持っていた。
舗装された街道は揺れを隠さず、夜は薄い毛布が身体の芯まで冷やす。雨に濡れ、埃をかぶり、途中の宿場で聞く言葉の訛りが変わるたび、ジルベールは距離を踏み越えてきたことを思い知らされた。
背に負った星剣は、布に幾重にも包まれ、ただの荷のように見える。旅のあいだ一度も騒がず、沈黙を保ったまま、重さだけを確かに伝えていた。
最後の丘を越えたとき、御者が低く息を吐いた。
「あれが、ヴァルハイムだ」
鋼の都。
まず目に入るのは、巨大な城壁だった。白石と黒鉄を組み合わせた防壁が円環を描き、等間隔にそびえる塔が都市の輪郭を際立たせている。飾り気はないが、無駄もない。防ぐために造られ、支配するために磨き上げられた形だ。
朝の光を受け、鉄の補強材が淡く反射する。その光景は冷たく、堅牢で、それでいて異様なほど整っていた。
都は威圧していたが、拒絶はしていない。
試されている。そう感じさせる佇まいだった。
城門をくぐると、空気が変わる。
石畳に反響する足音。鉄と油、炭の匂い。遠くから絶え間なく聞こえる鍛冶槌の音。
建物は高く、密集し、橋と渡り廊下が空を分断している。山の気配はなく、空は狭い。
都市の中央にそびえるのは、城と呼ぶにはあまりに実務的な要塞だった。装飾を削ぎ落とした黒鉄の外郭。尖塔も旗も最小限で、ただ「守り、指揮し、裁く」ためだけに存在していることが一目で分かる。貴人の居城というより、戦争そのものが腰を下ろした場所だ。
その正面広場の一角、城門から少し距離を置いた位置に、低く横に広がる建物群がある。
石と鉄で組まれた簡素な構造。窓は小さく、扉は厚い。壁面には無数の傷跡と修繕の痕が残り、長年、兵を出し入れしてきた場所だと語っていた。
兵舎。あるいは、詰所。
騎士試験の受付は、その一棟を間借りする形で設けられていた。
建物の中は薄暗い。長机が並び、奥には金属製の棚と書類箱。壁際には槍と盾が立てかけられ、いつでもここが臨時の防衛拠点になることを想定している造りだった。
入口の前には列ができている。だが、それは整然とはしていない。
武器の種類、身分、家柄、覚悟。そのすべてが、列の空気を分断していた。
鎧を着込んだ貴族子弟は、当然のように前方に陣取り、従者に荷を預けている。傭兵上がりらしき者は壁にもたれ、黙って順番を待つ。視線が鋭い。
ジルベールはその中間に立った。誰の後ろ盾もなく、しかし引く理由もない場所。
その中で、ジルベールはやはり異質だった。
服装は質素で、旅の埃を完全には落としきれていない。背の荷は布包みで、目立たない。ただ――腰に提げた魔剣だけが、違った。
視線が集まる。
露骨ではないが、確かに向けられる。剣を見る者の目だ。
刃は抜かれていない。それでも分かる者には分かる。柄から、鞘から、そこに宿るものの気配が漏れている。
「……あの剣」
「業物だな」
「どこの鍛冶だ?」
囁きが、低く交わされる。
魔剣ゼルザーは沈黙している。だが、ただの鉄ではないと主張するように、腰元で冷たい存在感を放っている。
受付に座るのは、治安維持のための警邏軍ではない。れっきとした第六騎士団の騎士だ。
年配の文官、無言で周囲を見渡す武官、そして背後に立つ数名の兵。彼らは剣を抜かずとも、十分な圧を放っている。
「次」
呼ばれて前に出る。
名を告げ、年を言い、出身を答える。書類に羽根ペンが走る音だけが響く。
「後見人は」
「なし」
一瞬、筆が止まる。だが、咎めるような視線は向けられない。ここでは、それも珍しくないのだろう。しかし一言、「デュランか……」とだけ聞こえる。祖父を知るものか、兄の知り合いかも知れない。
「武器は?」
その問いと同時に、視線が腰元へ落ちる。布に包まれた背の荷ではない。誰もそちらには興味を示さない。
魔剣ゼルザーだ。
兵の一人が、無意識に半歩、位置を変えた。係官は一拍だけ間を置き、静かに言う。
「……預ける必要はない。試験当日まで、管理は自己責任だ」
それは許可であり、同時に警告だった。
札を受け取り、建物を出る。
外の光が、やけに眩しく感じられた。
要塞の城は変わらず中央に鎮座し、鋼の都は人を呑み込みながらも、冷静に選別を続けている。
背中の星剣は沈黙したまま、布の奥で重みを伝えてくる。腰の魔剣は、なおも周囲の視線を集めていた。
ステラがいない。
その事実が、今になって胸に落ちる。
尊大な声も、理不尽な叱咤もない。ただ、鋼と石と人の視線だけがある。
そんな郷愁から熱を奪うように、音が止まる。
会場に満ちていたざわめきが、唐突に抜け落ちた。
「それ、いい首飾りねぇ」
声が、耳元ではなく、脳裏の裏側から滑り込んでくる。
誰かが息を呑み、誰かが一歩退いた。視線は一斉に逸らされ、まるで見てはいけないものに触れてしまったかのように、広間の人間たちは沈黙する。
ジルベールが振り向いた、その瞬間。距離は、すでに奪われていた。
少女が、そこにいた。
血の気を完全に失った、陶器のような肌。生者の温度を拒む白さ。年若い顔立ちに不釣り合いなほど、身体の線だけが過剰に整っている。とりわけ、宝石の重みを受け止めるように張り出した胸元は、視線を拒むどころか、見る者の意識を強引に引き寄せた。
それは色気というより、生と死の感覚を狂わせる異物感に近い。
谷間が見えるほどに大きく開いた首元には、紫の宝石が幾重にも連なるネックレス。指という指に嵌められた指輪、腕を覆うバングル。それらが微かに触れ合うたび、鈍い音を立てる。
豪奢だが、祝祭のための装いではない。
――副葬品だ。
誰もがそう直感する。生きている者のための飾りではない。
「ねぇ、アナタ」
白い指が伸び、躊躇なく、ジルベールの首飾りを掴んだ。
力は強くない。だが、逃げるという選択肢そのものを否定する“確定”があった。
無理矢理に視線を合わせられる。
黒曜石のような瞳は濁っていない。ただ、底がない。
「それを、ワタクシに買わせてくれない?」
声色は柔らかい。だからこそ、会場に漂う恐怖は濃くなる。
兵も、文官も、騎士候補も――誰一人として止めようとしない。
いや、止められない。
「ワタクシ、アンダーテイカー」
名乗りと同時に、空気が冷える。
死を扱う者の肩書きが、ただの称号ではないと誰もが知っている。
「墓の魔女の操家、クルエラルのものよ」
その名が落ちた瞬間、明確な距離が生まれた。
恐れは、理解よりも早い。
彼女は微笑む。それは親切の形をしていて、しかし慈悲ではない。
「選びなさい」
指先が、首飾りから離れない。
「お金と、命」
紫の宝石が、まるで心臓のように呼吸に合わせて淡く脈打つ。
「アナタが死体になりたくなかったら、だけどね」
鋼の都ヴァルハイム、その心臓部。
騎士を選別する場で、最初に踏み込んできたのは――――死そのものだった。




