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《竜の背》 5

 二年という時間は、人にとっては確かな長さを持つ。

 季節が二巡し、剣の握りが手に馴染み、身体の線が少年のそれから少しずつ削ぎ落とされていく。

 そしてそれは、竜にとって本来あるはずのない変化をも、連れてきていた。

 夕刻の訓練場。土は踏み固められ、無数の足運びと転倒の跡が刻まれている。ジルベールが最後の一太刀を振り下ろし、呼吸を整える間、背後から影が重なった。


「……む」


 声と同時に、布越しに背中へ触れられる。

 振り返ると、ステラが自分の背と、ジルベールの背を、真剣な顔で見比べていた。

 以前なら見下ろす位置にあった視線は、今や少し視線を下げる程度の高さにある。膝元まで伸びた星色の髪は、かつてのような無秩序な輝きではなく、夕陽を受けて柔らかく艶を帯びていた。線は細いが、骨格がはっきりし、手足には余計な幼さがない。


「身体が伸びるとは、実に珍妙な感覚だ」


 自分の腕を見下ろし、指を開閉しながらステラは言う。


「竜は生まれ出た時より完全。成長などという曖昧な変化を感じたことはなかった」


 そう語る口調は相変わらず尊大だが、声色にはどこか楽しげな響きが混じっている。

 ジルベールは剣を地に立てかけ、布で汗を拭った。振り向いた先、夕日に照らされた彼女は、以前よりもはっきりと「少女」と呼べる姿になっていた。頬の線は柔らかく、瞳の奥には落ち着きと、ほんの僅かな遊び心が宿っている。


「……変な話だな」

「何がだ」

「前は、ステラが成長するなんて思ってもみなかったからさ」


 ステラは一瞬だけ目を瞬かせ、それからふっと笑った。

 その笑みは、かつての威厳を誇示するためのものではなく、どこか人の感情に近い。


「しかし、なかなかに悪くない」


 風が吹き、星色の髪が揺れる。その動きがやけに自然で、ジルベールは一瞬、視線を外すのが遅れた。


「いずれ汝の背も抜かすやもしれぬな、人の子よ」

「それ、いつまで続けるんだよ」


 半ば呆れたように返すと、ステラはわずかに首を傾げ、それから不意に、彼の名を呼んだ。


「ジルベール」


 その音に、心臓が一拍遅れる。


「……名前程度は覚えられるくらい、長い付き合いになったんだな」


 言葉を選びながらそう告げると、ステラはしばし考えるように目を伏せた。


「瞬きにすら満たぬ時間だ。しかし……そうさな」

 黄昏の光が彼女の輪郭を縁取り、星色の髪が柔らかく煌めく。その中で、口元がゆっくりと緩んだ。


「――汝の名くらいは、記憶に留めておこう」


 次の瞬間、彼女は一歩近づき、躊躇いもなくジルベールの頬に手を添えた。

 指先は温かい。かつて背に感じていた重みとは違う、確かなに“触れられている”という感覚が、皮膚を通して直接伝わってくる。


「ふふ、すっかり見れる顔つきになったものだ」

 からかうような声音。しかし瞳は真剣だった。


「真に我が躯が戻った暁には、汝を背に乗せてやろう」

「それは……光栄だな」

 冗談めかして返すが、胸の奥が妙にざわつく。


「そうであろうとも」


 ステラは胸を張る。その仕草は、もう「竜の威厳」を演じているというより、彼女自身の自信のように見えた。


「竜が背を預けたものなぞ、片手で数えられようからな。来たる日の褒美として、汝もその末席に加えてやろう」


 夕陽が沈み、空に最初の星が灯る。

 かつて山を覆った青い流星を呼んだ存在は、今、同じ時間の中で呼吸し、笑い、名を呼ぶ。 成長とは、ただ背丈が伸びることではないのだと、ジルベールは17歳にして分かったような気がしていた。

 明日、年が終わる。そしてジルベールは、成人することになるのだ。

 









 成人式の朝は、音が少なかった。

 祭りの日だというのに、村はまだ眠りの縁にあり、風が畑を撫でる音と、遠くで鳴く鳥の声だけがゆっくりと流れていた。夜明けの光は柔らかく、家々の屋根に薄く積もった露を淡く照らしている。

 ジルベールは、井戸で顔を洗い、冷たい水で目を覚ました。鏡代わりの水面に映る自分の顔は、確かに見慣れたものだったが、どこか違って見えた。頬の線が少し締まり、目の奥に残るものが増えている。少年のままではいられなくなった、という実感だけが、遅れて胸に落ちてくる。

 背後で、衣擦れの音がした。


「……この日が来たか」


 祖父だった。いつもと変わらぬ背中、変わらぬ声。だが、ジルベールは気づいていた。その手に持つ布包みが、兄の時も見たものだということを。


「これを着ろ」


 渡されたのは、簡素だが仕立ての良い外套だった。祝いのための派手な刺繍もなければ、色も落ち着いている。ただ、肩口の縫い目が強く、動きを妨げない作りになっている。


「成人の証だ。村の男は皆、これを着て式に出る」

「……ありがとう」

「礼を言うな。着て、立て。それだけでいい」


 それ以上の言葉はなかった。だが、祖父の視線は確かにジルベールを子供としてではなく、一人の男として見ていた。

 式に向かうために家を出ると、ステラがいた。

 彼女は少し離れたところで、朝の光を浴びながら立っている。星色の髪は、昼のそれよりも淡く、まるで空に溶け込む途中の色のようだった。普段よりも静かで、いつもの尊大な言葉もない。


「……人の儀式とは、奇妙なものだな」


 そう前置いてから、彼女は言った。


「この日を境に、汝は別の存在になるのであろう?」

「別ってほどじゃないよ。ただ、責任が増えるだけかな」

「責任か」


 ステラはその言葉を、舌で転がすように繰り返した。

「竜には区切りがない。だが汝らはこうして、自ら境を作るのだな」

 自分に関係がないことが気に入らないみたいに、ステラは退屈そうに空を眺めていた。

 式は村の中央で行われた。長老の言葉は短く、祝福も簡素だった。だが、村人たちの視線は温かく、確かな重みを持っていた。

 もう、守られる側ではない。その認識が、言葉よりも雄弁に伝わってくる。

 最後に、名を呼ばれる。


「ジルベール」


 一歩前に出る。足取りは不思議と軽かった。

 杯を受け取り、口をつける。苦い酒が喉を焼き、その熱が胸の奥に残る。

 それで終わりだった。大仰な誓いも、剣を掲げる場面もない。ただ、確かに“通過した”という感触だけが残る。

 式が終わり、人々が散っていく中で、祖父が近づいてきた。


「最後まで、剣はランベールには及ばなかったな」


 兄と比べられ、一瞬胸が締まる。


「だが」


 祖父は、ジルベールの腰に下げられた剣を見て、短く頷いた。


「恥じぬ使い方は、身につけたな」

 それが、祝福だった。


 夕方、村外れの丘に立つと、ステラが隣に来た。


「……おめでとう、と言うべきか」


 少し照れたような声音。竜が人の言葉を借りて祝う、不器用な祝辞。


「ありがとう」


 そう答えた瞬間、ジルベールははっきりと理解した。

 この村で祝われるのは、これが最後かもしれない。

 だが、戻ってくる場所は、確かにここにある。

 











 旅立ちの前夜、倉庫にはランプ一つ分の灯りしかなかった。

 干し草の匂いと、古い木材の油気が混じる、いつもと変わらない場所。だがその夜だけは、静けさの質が違っていた。

 ジルベールは、倉庫の中央に置かれた木箱の前に立っていた。蓋は外され、中には布に包まれた何かがある。向かい側にはステラ。星色の髪は束ねられ、外套も着ていない。まるで、ここが彼女にとっての「巣」であるかのように、自然にそこに立っていた。


「これを渡そう」


 ステラが言い、顎で木箱を示す。

 ジルベールが布を解くと、そこに現れたのは一本の剣だった。刃は深い藍を帯び、まるでひび割れたような模様を持った両刃剣だ。柄に触れた瞬間、冷たさではなく、何かが吸い取られるような違和感を覚えた。


「……剣?」

「元は槌だ」


 ステラは淡々と続ける。


「魔将が持っていたものを、我が息吹で溶かし、魔力で編み上げた。宿っていた力を見るに、使われていたのは水魔アルラウスの核であろう」


 ジルベールは息を呑む。あの、凍土を砕き、山を揺らした魔槌。その残滓が、今、自分の手に収まっている。


「銘は、魔剣ゼルザー」


 ステラの声が、強く響く。


「かつて魚人族の文明が栄えた泉の名だ。干魃により失われ、今は地図にも残っておらぬ。魔槌の元の名は分からぬ故、我が名を与えた」


 失われた泉。干上がった文明。

 それでも名だけは残し、刃として再び世界に戻る。


「……重いな」

「当然だ。歴史と魔力を背負っておる」


 冗談めかした返しに、ジルベールは小さく笑った。だが、胸の奥がじんと熱い。

 しばし沈黙が落ちる。ランプの炎が揺れ、剣身に淡い光を走らせる。


「距離なぞ、翼を持つ竜にはないに等しい」


 不意に、ステラが言った。


「汝だけでは越えられぬ苦難が立ちはだかったとき、我が名を呼べ。この身は、星の果てにあろうと翔け付けよう」


 あまりに真っ直ぐな言葉だった。約束というより、前提のような言い方。

 だが、続く言葉は少し低くなった。


「しかしな、ジルベールよ。人は弱い」


 視線が、彼の胸元に落ちる。

「いつ死ぬかも分からぬほどに。我が翼が、間に合わぬこともあるかもしれぬ」


 ジルベールは何も言えなかった。反論できない事実だったからだ。


「だから――」

 ステラは一歩近づく。倉庫の狭さが、距離を一気に詰めた。


「せめて、竜の祝福を授けよう」


 そう言って、彼女はそっと背伸びをし、ジルベールの額に口づけた。

 一瞬だった。熱でも、衝撃でもない。

 ただ、何かが刻まれたという確信だけが、頭の奥に残る。


「……今のは?」

「言ったであろう。祝福だ」


 ステラは何事もなかったように一歩退く。


「死を感じたときにのみ、使え。それ以外では、決して使うな」


 その声は、初めての警告だった。


「これは祝福であると同時に、呪いでもある。使えば汝の人性は歪み、崩れ、やがて竜の理へと置き換わる」


 ジルベールの喉が鳴る。


「人を捨てるなよ、ジルベール」


 彼女は、はっきりと彼を見据えて言った。


「我に乗るは、神でも、竜擬きでもない。その身命を賭して我を救った――汝がよい」


 倉庫の静けさが、重く沈む。

 ジルベールは、魔剣ゼルザーの柄を強く握りしめ、深く頭を下げた。


「……ありがとう、ステラ」

「これは汝の戦利品だ。それを少しばかり弄ったに過ぎん」


 相変わらず、素直に謝意も受け取れない面倒な価値観だと思う。

 それから彼女は背を向け、倉庫の出口へ向かう。


「生きて戻れ。それが最大の返礼だ」


 ランプの光が、星色の髪を一瞬だけ照らし、そして闇に溶けた。

 旅立ちは、もうすぐだった。


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