プロローグ
神は、人類を救わなかった。
この世で最も弱く矮小な種族は、ただ神々の戦禍から身を隠し、祈りながら生きる以外の道がなかった。
人類は愚かであった。同種であろうと文化が異なり、信じる神が違った。話す言葉すら、同じものを持たなかった。
けれど、誰かが言った。
「救いの手を持たぬ神に祈るな」
無名の少年が、剣をとった。
幾ばくかの戦士が、彼に続いた。槍を持ち、弓を引いた。相手は神だった。獣だった。魔人だった。魔女だった。竜だった。その全てが、彼らに負けるはずもない強者たちだった。
しかし、少年は証明した。
「――――神なぞ、殺せるのだ」
いかな超常の存在であろうと、決して死なぬ存在ではないのだと。
その日、人類は十字架を捨てた。
墜ちた十字架は大地に突き刺さり、真逆の形となりて彼らの旗印となる。
逆十字を掲げる反逆の軍勢。
人類に神々から簒奪した力を分け与え、栄光と繁栄をもたらす騎士団。
神を殺した人類は、統一言語を持ち帰り、人類は団結した。
彼らは神の遺体を穢す尖塔を築き上げ、それを守る城と壁を、国を作った。
そうして騎士団には名が与えられる。
反逆十字軍。神滅の騎士団。神域の遠征者達。
いつしか【バベル】と呼ばれるようになる騎士達は、人類の生存域を広げ、異種族との戦争に打ち勝ち、神域から数多の恩寵を持ち帰る。
騎士達は戦ったのだ。古竜戦役を、亜人大戦を、魔女達の嵐を、海乱決戦を。
騎士達は持ち帰ったのだ、神獣の心臓を、救国の秘薬を、戦女神の武器を、不飢餓の穀物を、魔女の法則書を。
神は死んだ。魔の者たちを多くを追いやった。
そうして千を越える時が過ぎ、人類は安寧を手に入れていた。
だがしかし安寧とは、長き平和とは、団結を綻ばせる毒となる。
バベルの騎士達よ。人類に栄光を。神々に滅亡を。
九度目の反逆十字軍の結成が叫ばれたのは、我等の手が、祈りに結ばれるのではなく剣を持つようになって、1870年が過ぎようとしていた頃。
戦場は、鉄と土の味がする。
踏みしめるたびにぬかるんだ大地が靴底を掴み、乾きかけた血と新しい血、裂けた内臓の臭いが混じり合って、呼吸をするだけで喉の奥にまとわりつくような重苦しさを残していく。剣が噛み合う音、盾が砕ける衝撃、魔術が炸裂する爆鳴が途切れることなく続き、怒号と断末魔と獣の咆哮が重なって、もはやそれが誰の声なのかを聞き分ける意味すら失われていた。
剣と剣が噛み合い、火花が散る。
炎と炎がぶつかり、爆ぜる。
怒号、断末魔、獣の咆哮、呪詛、祈り。
それらが混じり合い、嗅覚も聴覚も、思考さえも麻痺させていく。
敵は亜人の連合軍だった。
獣人の重装歩兵、翼を持つ飛行兵、岩のような皮膚を持つ巨躯の種族。
彼らは統制を欠きながらも数に物を言わせ、押し寄せる濁流のように人類の陣を呑み込もうとしていた。
それでもバベルの騎士達は剣を掲げ、前進する。
重騎士の盾が壁を作り、後方から魔導兵の詠唱が重なる。
矢が雨のように降り注ぎ、亜人の前列を穿ち、倒れた死体を踏み越えてさらに敵が来る。
獣人の斧が盾を砕き、爪が鎧を裂く。
騎士が倒れ、別の騎士がその隙間を埋める。
死は日常であり、恐怖は訓練で殺されていた。その賜物か、第三騎士団の陣は、確かに形を保っている。重騎士の盾列はまだ崩れておらず、槍兵は折れた柄を短く持ち替え、魔導兵も歯を食いしばりながら詠唱を続けている。
しかしそれは「戦えている」という状態ではなく、ただ「まだ倒れていない」だけに過ぎなかった。獣人の斧が盾を叩き割り、爪が鎧の隙間に食い込み、飛行する亜人が空から舞い降りて背後を荒らすたび、人類側の陣形は少しずつ、しかし確実に削り取られていく。
――名もなき下級騎士は、もはや自分がどれほど剣を振るったのか分からなくなっていた。腕は痺れ、肩は焼けるように痛み、鎧の内側には熱と汗が溜まり、息を吸うたびに肺が潰れるような感覚が走る。
獣人の戦士が目の前で牙を剥いた瞬間、恐怖が背骨を駆け上がったが、それでも足は逃げなかった。逃げれば背を斬られ、立ち止まれば潰される。その二択しかない場所に、自分は立っているのだと、嫌というほど理解していた。
仲間が横で倒れた。喉を裂かれ、意味のある言葉になる前の音を漏らしながら血を噴き、泥の中に沈んでいく。その姿を見ても、叫ぶ余裕はなく、振り返ることすらできない。ただ剣を振り上げ、獣人の腕に刃を叩き込み、反撃を受けて吹き飛ばされながらも、必死に立ち上がる。神を殺した騎士団の一員だという誇りは、この瞬間、恐怖と疲労の下に押し潰されかけていた。
一方で、亜人連合の戦士は、この戦場を支配しているという確信を抱いていた。血の匂いは昂揚を呼び、倒れる人間の数は確実に増えている。獣人、飛行兵、巨躯の同胞たちがそれぞれの役割を果たし、包囲は完成に近づいていた。
人間は脆い。神の加護を捨てた狂った種族だが、数と力で押し潰せば、それで終わるはずだった。実際、第三騎士団の動きは鈍り、陣の隙間は広がりつつある。このまま押し切れる、そう信じるに足る状況だった。
だが、その確信に、説明のつかない違和感が混じり始める。理由は分からない。ただ、空気が重い。皮膚に触れる風が、わずかに熱を帯びている。戦場のどこかで火の魔法が使われたのかと一瞬考えるが、それにしては範囲が広すぎた。人間も亜人も、同時に呼吸のしづらさを覚え、刃を交える動きが一拍、遅れる。
人類側の陣は、限界に近づいていた。
盾は割れ、槍は尽き、魔導兵の詠唱は何度も中断され、空からの急襲で後方は混乱している。号令は叫び声にかき消され、誰もが「次の一撃で終わる」という予感を胸の奥に抱えながら、それでも剣を振るい続けていた。
――ここまでか、という思考が、誰かの頭をよぎった、その瞬間。
戦場の奥、まだ剣も矢も届かぬ場所で、確かに空気が変質する。理由もなく、ただ温度が上がり、息が熱を帯び、皮膚が灼けるような錯覚が広がっていく。亜人の戦士が不安げに振り返り、人間の騎士が無意識に背筋を伸ばす。
「第三騎士団、前へ」
その声は決して大きくはなかった。しかし戦場全体を貫き、恐怖で縮こまっていた背を、強制的に起こす力を持っていた。折れかけていた意志が、名もなき騎士の胸の奥で、再び形を取り始める。
そして、名が呼ばれる。
「太陽の剣聖、ジェニクラージュ・コールブランド!」
その瞬間、戦場はまだ英雄の姿を見る前だというのに、すでに理解してしまう。これはもはや戦争ではない。ここから先は、人類が神を殺した理由を、再び証明する時間なのだと。
ジェニクラージュ・コールブランドが前に出た瞬間、戦場に立つ全ての者が、言葉にできない圧迫感を覚えた。
それは威圧でも殺気でもなく、もっと原始的な、本能に直接触れる危険の感触であり、彼がただ歩いているだけだという事実が、異常そのものだった。煌めくブロンドは血と煤に汚れることなく揺れ、赤い瞳は戦場全体を映すように細められ、彼の存在を中心に空気が歪み、熱が層を成して広がっていく。
剣が構えられる。たったそれだけの動作で、大気が悲鳴を上げた。燃え上がる炎はまだ存在しないはずなのに、皮膚は焼け、喉は渇き、亜人も人間も同時に一歩を引く。次の瞬間、ジェニクラージュは踏み込み、剣を振るった。
音は遅れてやってきた。光が先に走り、世界が白に塗り潰され、遅れて轟音と衝撃が押し寄せる。剣から迸った陽光は炎というよりも刃であり、触れたものを燃やすのではなく、存在そのものを切り裂いて消し去っていった。
前線にいた亜人の軍勢は、抵抗するという概念を与えられる前に蒸発した。肉は熱に耐える暇もなく消え、骨は赤く灼かれて粉砕され、影だけが大地に焼き付いて残る。大地そのものが溶け、鉄が歪み、空気が震える。
飛行兵が空から落ちるよりも早く、空そのものが焼かれ、翼を広げる意味を失って墜落していく。巨躯の亜人が咆哮を上げて踏み出した瞬間、剣聖の二振り目が放たれ、その存在は叫びと共に断ち切られた。
ジェニクラージュは止まらない。踏み込み、薙ぎ、切り上げるという単純な動作を繰り返すだけで、戦場の地形が書き換えられていく。剣の軌跡が通った場所には何も残らず、炎は遅れて大地を焼き、熱風が遅れて人々を叩き伏せる。
第三騎士団の騎士達は、その背後で剣を振るいながらも、前方を直視することができなかった。そこにあるのは戦いではなく、災害だったからだ。
亜人達は理解する。これは敵ではない。数で押すことも、技で抗うことも、勇気で立ち向かうこともできない存在だ。太陽が地上に降り、ただそこにあるだけで全てを焼き尽くしている。その事実を受け入れた瞬間、戦意は恐怖に変わり、恐怖は逃走へと変質する。だが逃げるという選択すら、剣聖の前では許されない。振るわれる剣は方向も距離も選ばず、視界に入った全てを等しく滅ぼしていく。
誰かが叫んだ。
これは敵ではない。
これは災厄だ。
太陽が、地上を歩いているのだと。
名もなき騎士は、剣を握ったまま立ち尽くしていた。自分が今まで必死に戦っていた時間が、何だったのか分からなくなる。血を流し、仲間を失い、恐怖に耐えてきたその全てが、たった一人の存在によって上書きされていく。
それでも、彼は理解してしまう。これが人類が神を殺し、神の力を奪った結果なのだと。この光景こそが、人類の切り札であり、同時に最も危険な刃なのだと。
やがて、前線は完全に消滅する。溶けた大地が赤く光り、熱が引いた後には、もはや戦場だったと分かる痕跡すら残らない場所が広がる。ジェニクラージュは剣を下ろし、静かに息を吐いた。その動作一つで、ようやく周囲の温度が下がり、人々は自分が生きていることを思い出す。
戦いは終わったのではない。終わらされたのだ。
そして第三騎士団は理解する。太陽の剣聖とは、勝利の象徴であると同時に、人類が決して手放してはならない、そして決して制御しきれない力なのだと。
戦場に、音が戻るまでには時間がかかった。
剣が振るわれなくなり、怒号が消え、炎が収まったにもかかわらず、耳鳴りだけが残り続け、誰もがそれを「静寂」だと認識するまでに、数呼吸を要したのである。熱に歪められた空気がゆっくりと冷え、溶けていた大地がひび割れながら固まり、赤く光っていた地表が鈍い色へと変わっていく。その過程そのものが、戦いが終わったという事実を、否応なく理解させていた。
前線だった場所には、もはや敵味方の区別は存在しなかった。焼け焦げた影、炭化した残骸、形を保たぬ肉塊が不規則に散らばり、どこまでが戦場でどこからがただの荒地なのかすら判別できない。風が吹くたび、灰が舞い上がり、喉に絡みつく。生き残った者達は、無言のまま周囲を見渡し、自分が立っている場所が、ついさっきまで地獄だったという事実を、改めて噛みしめるしかなかった。
第三騎士団には、勝利を祝う声はなかった。誰も剣を掲げず、誰も歓声を上げない。ただ、命令に従うことだけが、かろうじて彼らを現実につなぎ止めていた。
負傷者を探し、まだ息のある者を引きずり出し、焼けて使い物にならなくなった武具を脇へ積み上げる。治癒の魔法が使われるたび、かすかな光が瞬き、しかし全てを癒せるわけではないことを、誰もが理解していた。
名もなき騎士は、崩れた陣の中を歩きながら、仲間の数を数えようとして、途中でやめた。数える意味がないほど、多くが失われている。それでも、生き残った者達は動かねばならない。死者を避け、負傷者を運び、まだ熱を持つ地面に膝をつきながら、水を口に含ませる。その一つ一つの動作が、戦いは終わっても、戦争は続いているのだという事実を突きつけてくる。
亜人達の遺体は、ほとんどが原形を留めていなかった。誰かを弔うための顔も、名を呼ぶための形も残っていない。ただ、かつてそこに「敵」がいたという痕跡だけが、無数に刻まれている。
人類側の兵士の中には、その光景から目を背ける者もいたが、同時に理解してしまう者もいた。これが太陽の剣聖が戦った後の戦場であり、これが人類が選び取った勝ち方なのだと。
ジェニクラージュ・コールブランドは、戦場の中央から少し離れた場所に立っていた。太陽の聖剣は既に鞘に収められ、彼の周囲だけが、不自然なほど静かだった。誰も近づこうとせず、誰も声をかけない。畏敬と恐怖が混じった視線が、遠巻きに集まるだけである。
それでも、完全な沈黙だけが支配していたわけではなかった。誰かが、誰に向けたとも知れぬ声で、かすれた息の合間に呟く。
「……生きてる」。その言葉は祈りのように、次々と周囲へ伝播していき、やがて小さなざわめきとなって戦場の端々に広がっていった。騎士達は互いの顔を見合わせ、血と煤にまみれた表情の奥で、ようやく実感する。自分達は生き延びたのだと。そして、その理由を、誰もが理解していた。
視線は自然と、一点に集まる。
バベル第三の騎士、陽光の現し身、太陽の剣聖。数あるあざなを携える英雄へと。
誰かが剣を地面に突き立て、膝をついた。それは命令でも儀式でもなく、ただ身体がそうするしかなかったからだ。続いて、他の騎士達も同じように武器を下ろし、深く息を吐く。
歓声はない。だが、その沈黙の中には、確かな感情が満ちていた。感謝。尊敬。そして、圧倒的な安堵。
「……太陽が、まだ俺達を見捨てていなかったな」
誰かの冗談めいた言葉に、かすかな笑いが漏れる。それは戦意を煽る笑いではなく、生き残った者同士が分かち合う、ひどく脆い喜びだった。名もなき騎士は、剣を握る手を見下ろしながら、胸の奥が熱くなるのを感じていた。恐怖も疲労も消えてはいない。それでも、あの光景を見た以上、今日という日は語らずにはいられない日になるのだと、直感的に理解していた。
太陽の剣聖が剣を振るったからこそ、この戦場で膝を折ることができる。そう思った瞬間、彼の中で、英雄という言葉が、初めて現実の重さを伴って形を持った。
彼自身は、それを気に留める様子もなく、ただ溶け固まった地面を見下ろし、何かを確かめるように、静かに息を整えていた。
やがて、指揮官の声が響く。撤収準備、戦線整理、負傷者優先。淡々とした命令が、戦場を再び動かし始める。人類はまた一つ、生存域を守り抜いた。その事実は確かだが、誰もそれを誇りにはしなかった。誇れるほど、綺麗な勝利ではなかったからだ。
騎士団は強大になったが、守る人類と領地は増え、政治は混迷し、人類は神域への遠征を行わずに生存圏に引きこもるようになっていた。
太陽は、まだ空にある。
だが、地上に降りた太陽の痕跡は、簡単には消えない。
第三騎士団は理解する。この静寂も、この後処理も、次の戦争へのただの準備に過ぎないのだと。そして、人類が神とその信徒を殺し続ける限り、この光景は、何度でも繰り返されるのだと。
炎は鎮まり、剣の鳴る音も絶え、ただ焼けた土と鉄の匂いだけが、空気に重く残されている。太陽の剣聖が去った後の大地は、神話の余白のように静まり返り、そこに立つ騎士達は、自らが歴史の一頁に踏み残された存在であることを、否応なく思い知らされていた。
その静寂を裂くように、遠くで鎧の音が鳴る。
太陽が傾き、戦場に落ちる影が長く伸びる頃、騎士達は異変を察した。風向きが変わったわけでもなく、魔力が高まったわけでもない。それでも、確かに空気の質が変わったのだ。剣を下ろしていた者は無意識に柄を握り直し、負傷者に肩を貸していた者は、理由もなく動きを止めた。戦場そのものが、次に起こる出来事に備えて息を潜めたかのようだった。
やがて、音が聞こえる。鎧の擦れる低い響きが、一定の間隔で大地を打つ。それは行軍の音でありながら、軍勢のそれではなかった。数は少なく、歩みは遅く、しかし決して止まらない。まるで古い年代記に書き記されるためだけに存在する行列のように、その音は戦場の隅々にまで染み渡っていく。戦場に慣れた騎士達は即座に理解する。それは急ぐ者の歩みではなく、恐れぬ者の進軍であり、もはや勝敗を疑わぬ者の足取りだ。
やがて、丘の向こうから姿が現れる。
先頭に立つのは、獅子の兜を被り、黄金と白亜の鎧を纏った一騎。その鎧は血と煤を受け付けず、まるで戦場そのものが彼を汚すことを拒んでいるかのようだった。背後には、獣を象った模様のマントを羽織る騎士達が従い、その列は秩序正しく、儀式の行列のように乱れがない。
その姿を見た瞬間、第三騎士団の騎士達の喉が、知らず鳴る。
誰かが名を呼んだわけではない。だが、言葉は自然と零れ落ちる。
獅子心王。
獣殺し。
カシウスの末裔。
そして、団長と。
それらの呼び名は称号であると同時に、神話の断片だった。彼は個として存在する騎士ではなく、バベルが人類の上に掲げた「裁きそのもの」の象徴であり、神を殺した時代がなお終わっていないことを示す、今も脈打つ証だった
彼の歩む先では、戦場の空気が変わる。死はすでに十分に撒かれているというのに、なお別種の重圧が降り積もり、騎士達は無意識のうちに背筋を伸ばす。太陽の剣聖が戦争を終わらせる光であるならば、この獅子は、終わった戦争に意味を与える影だった。
その行軍は、勝者の凱旋ではない。敗者を嘲るものでもない。
それは、神話において必ず訪れる後段――英雄が去り、裁定者が現れる、避けられぬ段階だった。
騎士達は悟る。
この先で下されるのは、戦いではない。
赦しでもない。
ただ、人類が生き延びるために選び続けてきた、冷たく、正しい終わりなのだと。
彼らが赴くのは今回の戦乱の首謀者、丘の上で幾重もの鎖によって捕縛された、羊の角を持つ獣人の元だった。鎖は食い込み、血と泥にまみれ、もはや拘束というより磔に近い有様で、その中心に座らされた存在は、敗北と理解の狭間で、なお目だけは鋭く周囲を睨み返している。
「ガウレリア族の長、バロメ。亜人種達を束ねての明らかなる人域への攻撃。バベルの権限を持って、ここに極刑に処す」
虎を象ったマントを背負う騎士の一人が、そう宣告する。その声には怒りも憎悪もなく、ただ定められた文言を読み上げる硬さだけがあった。これは復讐ではない。裁定だ。
獅子心王、団長と呼ばれた獅子の兜を被った騎士は、自分の剣ではなく、象を象ったマントを羽織る騎士が持つ、彼の背丈ほどもある大剣をゆっくりと引き抜き、バロメの首に添えた。その所作に躊躇はなく、刃の重さを確かめるような無駄もない。ただ、処刑という行為を、正確に完遂するための動きだけがあった。
「我等の神を殺し、簒奪した力……」
バロメは憎々しげに団長を睨み付ける。瞳の奥に宿るのは恐怖ではない。敗者としての理解と、それでも消えぬ憎悪だった。
「……呪うぞ人間」
「その呪いを行使するのは神か、悪魔か」
団長は一切の感情の覗かせないような怜悧な声で、剣を掲げた。
「生憎と、どれも殺した」
そして、剣が振り下ろされる。
重い刃は風を裂き、鎖の軋む音とほぼ同時に、バロメの首を断った。吹き出す血は土に染み込むより早く、熱に奪われるように色を失っていき、胴体が遅れて力を失う。断末魔はない。ただ、命が切断されたという結果だけが、静かにそこに残った。
第三騎士団の騎士達は、その光景を声もなく見届ける。誰も喝采しない。誰も呪詛を吐かない。それでも、この処刑が必要であり、避けられぬものであったことを、全員が理解していた。バベルの騎士達が戦争を終わらせ、団長である獅子心王が物語を閉じる。その役割分担こそが、今のバベルの在り方だった。
団長は血を払うこともなく剣を返し、丘の上から戦場跡を一瞥する。その視線の先には、救われた人類の生存圏と、これから生まれる次の火種が、等しく存在していた。
人類に牙をむいた亜人が、また一つ討たれた。
それは勝利の証ではなく、次の戦争が必ず訪れるという、静かな確認だった。




