第2話
最初の患者は、花粉症だった。
DMのやり取りは、短くて、切実だった。
「本当に治りますか」
「薬も効かないです」
「毎年この時期になると、何も楽しくなくなります」
文体から、若さが滲んでいた。
年齢を確認すると、女子高生だという。正直、少しだけ躊躇した。だが、向こうは迷っていなかった。
「十万円です」
そう送ると、既読がつくまで少し間があった。
高い設定だと思った。花粉症だ。命に関わる病気でもない。普通なら、ぼったくりだ。
それでも、返信はすぐだった。
「払えます」
理由を聞くと、こう返ってきた。
「バイトして、ずっと貯金してました」
「最近は結構割りのいいバイトがあるので」
◆
待ち合わせ場所は、駅から少し離れたビジネスホテルだった。
こちらは、帽子とマスクを着けている。キャップを深くかぶり、顔はほとんど見えない。
部屋に入ると、まず机を指さした。
「先に、支払いをお願いします」
少女は黙って頷き、バッグから封筒を取り出した。中身を確認する。十万円。きっちり揃っている。
それから、アイマスクを差し出した。
「次に、これを着けてください。外さないで」
一瞬だけ、彼女は逡巡した。だが、何も言わずに装着する。
「……大丈夫です」
椅子に座ったまま、背筋を伸ばしている。逃げる気も、騒ぐ気もなさそうだった。
意識を集中させる。
スキャン。
暗転した視界に、彼女の身体が浮かび上がる。鼻腔。赤く腫れ上がった粘膜。慢性的な炎症の痕跡。
触れる。
熱が走り、腫れが引いていく。空気の通り道が、ゆっくりと開いていくのが分かる。
数十秒。
それだけで、終わった。
「……もう、いいです」
彼女はアイマスクを外し、無意識に鼻をすする。
止まる。
目を瞬かせて、深く息を吸う。
「……あれ?」
もう一度、息を吸う。
「……苦しく、ない」
声が、わずかに震えた。
「いつも、この時期は息するのもつらくて」
「友だちと遊びに行っても、全然楽しくなくて」
しばらく黙った後、ぽつりと続けた。
「……実は」
スマホを取り出す。
「最初から、録音してました」
一瞬、空気が張りつめる。
「変なことされたら、SNSに流すか、警察に行こうと思って」
こちらは、何も言わない。
数秒の沈黙の後、彼女は小さく笑った。
「でも……消します」
操作音がして、録音データが削除される。
「ちゃんと、治してくれたので」
それだけ言って、深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
ドアが閉まる。
静かになった部屋で、封筒を手に取る。
十万円。
彼女は、疑っていた。
それでも、来た。
最近の若者は、ちゃんとしている。
疑うことも、守ることも、ちゃんと知っている。
それでも――治ったから、信じた。
信じさせたのは、誠実さじゃない。
結果だ。
治すことは、信用を生む。
◆
ある日の夜。
スマホの通知が鳴った。
見覚えのあるアカウント名。最初の患者――花粉症の女子高生だった。
DMを開く。
「ありがとうございました!」
続けて、写真が送られてきた。
テーマパーク。
キャラクターの被り物をして、友達と肩を寄せ合って笑っている。目は少し細められていて、マスクはしていない。
楽しそうだった。
文面が続く。
「今年、初めてちゃんと外で遊べました」
「ずっと鼻水とくしゃみで、それどころじゃなかったので」
「本当に、人生変わりました」
画面を、しばらく見つめていた。
治したのは、花粉症だ。
たったそれだけ。
それでも、彼女の春は戻った。
――治すことは、意味がある。
この時はそう思った。
◆
次の依頼は、少し毛色が違った。
「病気じゃありません」
「でも、治せるならお願いします」
送られてきたDMは、妙に丁寧だった。
「顔です」
「ニキビと、跡です」
添付された写真を見て、少しだけ目を伏せた。
赤黒く残る跡。凹凸。炎症は治まっているが、長年積み重なった痕跡が、皮膚に刻まれている。十代から、ずっとだろう。
年齢は二十代後半。社会人。
「病院にも行きました」
「薬も、レーザーもやりました」
「でも、もう諦めてます」
金額を提示すると、返事は早かった。
「それでも、お願いします」
待ち合わせは、前回と同じ条件。
帽子とマスク。
先払い。
アイマスク。
部屋に入ってきた彼は、終始うつむいていた。こちらの顔を見ようともしない。封筒を置く手が、少し震えている。
「……ずっと、これのせいで」
アイマスクを着けたまま、ぽつりと言った。
「人の目が、怖くて」
「笑われてる気がして」
「別に、誰も何も言ってないのに」
言葉が、そこで止まる。
「始めます」
それだけ告げて、意識を集中させる。
スキャン。
皮膚の層が、はっきりと見える。炎症の名残。傷ついた組織。再生しきれなかった細胞。
――治せる。
直感した。
触れる。
熱が走り、皮膚が書き換えられていく。凹凸がなだらかになり、色が均一に戻っていく。時間を巻き戻すような感覚だった。
数分後。
「……もう、いいです」
彼は、ゆっくりとアイマスクを外した。
鏡を見る。
動きが止まる。
数秒。
十秒。
それから、息を吸う音が聞こえた。
「……あ」
声にならない声。
「……ない」
何度も、角度を変えて顔を見る。触れる。確かめる。
「……本当に、ない」
笑った。
でも、その笑顔は、どこかぎこちなかった。
「ありがとうございます」
深く頭を下げる。
「これで……普通になれますよね」
その問いに、答えはなかった。
彼は帰っていった。
後日、DMが届く。
「治ってました」
「会社で誰も何も言いませんでした」
「今まで通りでした」
少し間を置いて、続きが来る。
「嬉しいはずなのに」
「思ったほど、世界は変わらなくて」
治したのは、顔だ。
だが、彼の時間は、戻らない。
コンプレックスは、消えても、記憶は残る。
――治すことは、救いじゃないのかもしれない。
その感覚が、自分の中に積もり始めた。
◆
次のDMは、文章がやけに整っていた。
絵文字も、感情の起伏もない。
「うつ病です」
「診断書あります」
「薬を飲んでいますが、良くなりません」
年齢は三十代前半。性別は書かれていなかった。
「治せますか」
その一文が、やけに重かった。
正直、迷った。
身体の異常とは違う。脳だ。心だ。
それでも――これまで見てきた限り、治せないものはなかった。
金額を提示する。
既読がつくまで、少し時間がかかった。
「……払えます」
理由は聞かなかった。
当日。
部屋に入ってきたその人は、驚くほど普通だった。清潔な服装。落ち着いた態度。帽子とマスク越しに見ても、どこか疲れているだけの社会人に見える。
先に支払い。
封筒。
アイマスク。
一連の流れを、淡々とこなす。
椅子に座ったまま、その人は動かなかった。
「……一つだけ、聞いてもいいですか」
アイマスクの下から、静かな声。
「治ったら、何か変わりますか」
答えられなかった。
「始めます」
そう告げて、意識を集中させる。
スキャン。
脳が見えた。
化学物質の偏り。過剰な抑制。感情を司る回路が、重く沈んでいる。壊れているわけじゃない。ただ、動けなくなっている。
――治せる。
その事実が、少し怖かった。
触れる。
熱が走る。
滞っていた流れが、ゆっくりと動き出す。神経伝達が整い、沈んでいた部分が、本来の位置に戻っていく。
数分。
それで終わった。
「……終わりました」
アイマスクが外される。
その人は、しばらく黙っていた。
深く息を吸う。
「……あ」
小さな声。
「頭が……静かです」
驚きも、歓喜もない。ただ、確認するような口調。
「いつも、何かに追われてる感じがしてたんですけど」
「今は……何もない」
立ち上がり、ゆっくりと周囲を見る。
「楽になった、はずなんです」
そこで、言葉が止まる。
「……でも」
視線が、床に落ちる。
「何をしたいかは、分からないままです」
沈黙。
「死にたいと思わなくなっただけで」
「生きたい理由は、出てこない」
その言葉は、刃物みたいに胸に残った。
「ありがとうございました」
そう言って、頭を下げる。
その背中は、軽くなったようでいて、どこか空っぽだった。
後日、DMが届く。
「薬はやめられました」
「仕事にも行けています」
少し間が空いて、続き。
「でも」
「治ったのに、幸せじゃないです」
画面を見つめながら、思った。
自分は、病気を治している。
でも、人の人生は、治していない。
父と母が病気で死んだから、自分は不幸なんだと思っていた。
でも、違った。
不幸は、理由がなくても、そこにある。
治すことは、救いじゃない。
それでも――人は、治りたがる。
◆
それからは、静かな日々だった。
派手なことは、しなかった。
バズる言葉も、使わなかった。
匿名SNSでも、話題にならないように、投稿は最小限にした。
DMは、こちらから選んだ。
本気で困っている人。
条件を守れる人。
騒がない人。
場所は毎回変え、顔は見せない。
帽子とマスク。
先払い。
アイマスク。
それを、淡々と繰り返した。
花粉症。
慢性的な腰痛。
円形脱毛症。
ニキビ跡。
不眠。
過敏性腸症候群。
治る。
ほとんどは、驚き、喜んだ。
「人生が変わった」
「もっと早く会いたかった」
そういう言葉も、何度ももらった。
一方で、違う反応もあった。
治ったのに、仕事はつらいまま。
治ったのに、人間関係は変わらない。
治ったのに、孤独は消えない。
世界は、案外そのままだった。
病気やコンプレックスが、人生のすべてじゃなかった人もいる。
逆に、それが人生を覆っていた人もいる。
同じ奇跡でも、結果は違う。
治すことは、万能じゃない。
それでも、人は来る。
治るという事実だけを、信じて。
その度に、思った。
――自分は、何を売っているんだろう。
治療か。
希望か。
それとも、ただの一時的な逃げ道か。
答えは、まだ出なかった。
◆
最後の依頼は、本人からではなかった。
「娘を治してください」
簡潔なDMだった。
続けて、年齢と病名だけが送られてくる。
二十代前半。
がん。
ステージ4。
「本人は、もう治療を望んでいません」
「ですが、親として、それを受け入れられない」
金額を提示する前に、相手は言った。
「いくらでも払います」
待ち合わせ場所は、都心の高級マンションだった。
エントランスだけで、住む世界が違うと分かる。
現れたのは、父親だった。
高価なスーツ。整った身なり。
それでも、目の奥は疲れ切っている。
「娘は、もう寝ています」
部屋に案内される。
広い寝室。
ベッドの上に、若い女性が横になっていた。顔色は悪いが、整った顔立ちだ。医療用のウィッグが、枕元に置かれている。
本人の意思は、確認しなかった。
確認する意味が、ないと分かっていたからだ。
机の上に、アタッシュケースが置かれる。
「どうかお願いします」
父親は、深く頭を下げた。
治療をするために父親は一旦部屋の外に出てもらった。
意識を集中させる。
スキャン。
身体が、はっきりと見えた。
臓器に広がる影。
転移。
何度も見てきた、あの光景。
――治せる。
迷いはなかった。
触れる。
熱が走る。
異常な細胞が、静かに消えていく。
壊れた組織が、元に戻っていく。
奇跡は、音もなく進む。
数分後。
すべて、終わった。
彼女は、目を覚ました。
ゆっくりと、天井を見る。
「……まだ、いるんだ」
独り言のような声。
起き上がり、息を吸う。
深く。
何度も。
「……苦しくない」
こちらを見る。
驚きは、なかった。
「治したんですね」
責めるでも、喜ぶでもない声だった。
父親を呼ぶ。
父親は部屋に入るなり、泣きそうな顔で駆け寄る。
「良かった……本当に……」
彼女は、父親を見て、少しだけ笑った。
「ねえ」
静かな声。
「私、死にたかったんだよ」
父親の動きが、止まる。
「もう、十分だった」
「全部、やりきった気がしてた」
「痛くなる前に、終わりにしたかった」
部屋の空気が、張りつめる。
「でも」
彼女は、続ける。
「治っちゃった」
こちらを見る。
「……これから、どうすればいいの?」
答えは、出なかった。
治したのは、がんだ。
だが、彼女の人生の終わらせ方は、奪ってしまった。
後日、父親からDMが届く。
「ありがとうございました」
「娘は、普段の生活が送れるようになりました」
その下に、短い一文。
「ただ、前より笑わなくなりました」
画面を閉じる。
治すことは、できる。
だが、生きる意味は、治せない。
父と母が死んだから、不幸なのだと思っていた。
違った。
生きていても、人は絶望する。
治っても、人は救われない。
それでも――
人は、治ることを選ぶ。
選ばせるのは、いつも周りだ。
自分は、ただの闇医者だ。
神でも、救世主でもない。
それでも今日も、どこかで誰かの身体は治る。
生きる理由を、残したまま。
◆
それ以来、依頼は受けていない。
SNSのアカウントは残っている。
消してはいない。ただ、更新もしない。
たまにDMが来る。
病名と年齢と、必死な言葉が並ぶ。
でも、もう返信はしない。
あの夜から、治すたびに思い出す。
――治ってしまった人の顔を。
人は、死にたいから病気になるわけじゃない。
生きる理由が見えなくなったとき、病気はただの口実になる。
自分は、その口実だけを消してきた。
残った人生までは、引き受けられなかった。
今日も、画面を閉じる。
未読のDMが増えていく。
治せる力があることと、
治すべきだということは、同じじゃない。
それを知ってしまった以上、
もう、前には戻れない。
だから――
次の患者は、いない。
これが、自分にできる
最後の治療だ。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
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