第1話
残業が何時間目だったのか、もう分からなかった。
社内システムの打刻は二十二時で止まっているが、実際にパソコンを閉じたのは、たぶん日付が変わってからだ。
オフィスには、俺ひとりしか残っていない。
消し忘れた電灯が白く照らすフロアには、使い終わったデスクと、冷めきった空気だけが漂っている。
机の上にはエナジードリンクの空き缶と、コンビニで買った半額弁当の空き箱。もう何度目か分からない光景だった。
人は、驚くほど簡単に辞めていった。
「合わなかったので」
「もっと自分らしく働きたくて」
「新卒カードがあるうちに」
Z世代と呼ばれる若手たちは、そう言い残して会社を去っていった。
引き留めることも、説得することも、今はもうない。
会社も、それを受け入れている。
皮肉なことに、新卒の初任給は年々上がっている。
三十万円が当たり前になりつつある時代だ。
その一方で、俺の給料はほとんど変わらない。
三十五歳。
中堅。
管理職候補。
そう呼ばれる立場になった結果、仕事は増えた。
辞めた人間の分の業務が、そのまま俺のところに流れてくる。
「山形さんなら分かるよね」
「ここ、お願いできる?」
断れない言葉ばかりが並ぶ。
責任という名の荷物だけが、静かに積み上がっていった。
転職、という言葉が頭をよぎらなかったわけじゃない。
だが、俺にとってそれは現実的でなかった。
資格はない。
勉強する時間もない。
何より、新しい環境に飛び込む気力が、もう残っていなかった。
市場価値のない三十五歳。
このまま一生、この会社で使い潰される。
いずれ管理職になり、部下の尻拭いをし、責任だけを背負って、独身のまま死んでいく。
それが、もっとも現実的な未来だった。
帰り道、電車の中でスマホを開く。
何の気なしに、流行りのマッチングアプリを起動した。
登録したのは、数週間前だ。
だが、通知は一件もない。
プロフィール欄には、当たり障りのない文章。
仕事ばかりで趣味もなく、金もなく、見た目も普通以下。
そんな男に「いいね」が来るはずもなかった。
画面を眺めて、そっと閉じる。
変わらなきゃ、とは思う。
でも、何をどう変えればいいのか分からない。
分かっていたとしても、行動に移す気力がない。
両親は、もういない。
二人とも高齢出産だったせいか、俺が三十になる前に癌で死んだ。
父も、母も。
同じ病気だった。
病室で痩せ細っていく姿。
抗がん剤の副作用に苦しむ姿。
それでも、結局は転移して、静かに息を引き取った。
この体にも、同じ遺伝子が流れているのだろう。
そう思うと、妙に納得できた。
こんな人間の遺伝子を、受け継ぎたいと思う相手はいないだろう。
仮に子どもができたとしても、同じように苦しませるだけだ。
子孫を残すこともなく、誰かに看取られることもなく、ただ働いて死んでいく。
それが、自分の役割なのだと、どこかで思っていた。
「……帰るか」
人気のないビルの出口で、そう呟いた瞬間、視界が揺れた。
足元がふらつき、世界が傾く。
次の瞬間、地面が急激に近づいてきた。
◆
気がついたとき、天井が白かった。
どこかの照明が、視界の端でぼんやりと滲んでいる。
消毒液の匂い。規則正しい電子音。
ああ、病院か――そう理解するまでに、少し時間がかかった。
「気がつきましたか?」
声をかけられて、ゆっくりと顔を向ける。
ベッドの横に立っていたのは、三十代くらいの女の人だった。白衣ではなく、看護師の制服を着ている。
「……ここは?」
「県立病院です。倒れていたところを、通りがかった方が通報してくれたそうですよ」
淡々とした口調。
必要なことだけを、過不足なく伝える話し方だった。
「私、高岡といいます。担当の看護師です」
高岡、と名乗ったその人は、慣れた手つきで点滴の具合を確認しながら説明を続けた。
会社を出た直後に倒れたみたいであること。
救急車で運ばれたこと。
幸い、命に別状はなかったこと。
命に別状はない。
その言葉を、どこか他人事のように聞いていた。
しばらくして、部屋のドアがノックされる。
「失礼します」
入ってきたのは、年配の男だった。
六十代くらいだろうか。黒縁の大きな眼鏡。顎には白い髭がうっすらと生えている。
「担当医の岡山です」
そう名乗り、軽く会釈をした。
「山形さん。意識が戻られるまでの間に、血液検査を含め、いくつか検査をさせていただきました」
穏やかな声だった。
だが、その奥に、言い慣れた重さが含まれているのが分かる。
「気になる点がありまして。この後も、追加で検査をさせていただけないでしょうか」
断る理由はなかった。
というより、断る気力がなかった。
その後、いくつかの検査を受けた。
機械の中に入れられ、指示に従って息を止め、また吐く。
すべてが流れ作業のようで、自分の体のことなのに、どこか他人の話を聞いている気分だった。
どれくらい時間が経ったのだろう。
高岡に呼ばれ、診察室へ向かう。
椅子に座ると、岡山は資料に目を落としたまま、軽く息を吐いた。
「山形さん」
その呼びかけで、ようやく現実が輪郭を持ち始める。
「検査の結果ですが――あなたは、大腸がんです。ステージは3になります」
言葉は、静かに落ちてきた。
大腸がん。
その単語を聞いた瞬間、頭に浮かんだのは、父と母の顔だった。
二人とも、同じ病気だった。
言われてみれば、思い当たる節はいくらでもある。
腹部の違和感。原因不明のだるさ。体重の減少。
だが全部、残業と不規則な生活のせいだと決めつけていた。
岡山は続ける。
「幸い、早期発見です。適切な治療を続ければ、十分に治る可能性があります」
治る。
その言葉に、心はまったく動かなかった。
「今後の治療方針について、詳しくお話ししたいのですが――」
「いえ、結構です」
自分でも驚くほど、はっきりとした声が出た。
岡山が顔を上げる。
「父も母も、同じ病気でした」
静かに、言葉を選びながら続ける。
「治療もしました。でも、結局は転移して、二人とも死にました」
岡山は何も言わず、ただ聞いている。
「治療して元気になっても、喜んでくれる人はいません。……そんなお金もありません」
自分の声が、少しだけ震えた。
「ありがとうございました」
それだけ言って、椅子から立ち上がった。
止められると思っていた。
説得されるとも思っていた。
だが、岡山は何も言わなかった。
診察室を出て、廊下を歩きながら、ふと思う。
そういえば、この病院は――自分が生まれた病院だった。
生を受けた場所で、死を告げられる。
出来すぎた話だ。
少し、笑ってしまった。
幸い、今日は日曜日だった。
会社は休みだ。
出勤しなくていいという事実が、今はただありがたかった。
そのまま、誰にも連絡をせず、病院を出て、自宅へ帰ることにした。
◆
家に帰ってから、何もする気が起きなかった。
カーテンを閉め切った六畳一間は、昼間だというのに薄暗い。ベッドに腰掛けたまま、しばらく天井を眺めていた。頭の中では、岡山の声が何度も反芻されている。
――大腸がん、ステージ3。
言葉自体は知っているはずなのに、実感が追いつかない。怖いとか、悲しいとか、そういう感情はなかった。ただ、ああ、やっぱりか、という妙な納得だけがあった。
スマホが震えた。
病院からだろうかと思ったが、表示されたのは会社のグループチャットだった。来週のシフト調整だの、誰それが体調不良で休むだの、どうでもいい内容が流れていく。
自分は、もう死ぬかもしれないというのに。
その事実と、この日常の温度差が、ひどく滑稽に思えた。
ベッドに倒れ込む。天井がゆっくりと回転する。検査疲れと、ここ数日の睡眠不足が一気に押し寄せてきたらしい。
そのまま、眠りに落ちた。
――夢を見た。
病院の診察室だった。さっきまで自分が座っていた椅子の反対側に、もう一人の「自分」が座っている。顔も、年齢も、着ている服も同じだ。
ただ一つ違うのは、その「自分」の体が、透けて見えていることだった。
皮膚の下、筋肉、血管、臓器。まるで医療用のスキャン画像のように、層になって見える。腸の一部が、黒く濁っているのも、はっきりとわかった。
――ああ、ここか。
なぜか、そう思った。
次の瞬間、視界が切り替わる。今度は自分が、診察室に立っていた。目の前には、別の男がいる。中年で、顔色が悪く、同じように体が透けて見える。
胃のあたりが、嫌な色をしていた。
「そこ、ですね」
自分の口が、勝手に動いた。
手を伸ばす。触れた瞬間、指先が熱を持った。熱が、光に変わる。黒く濁っていた部分が、じわじわと薄れていく。
男の顔色が、みるみるうちに良くなった。
――治った。
そう思った瞬間、目が覚めた。
心臓が、異様な速さで脈打っている。喉が渇いて、呼吸が浅い。夢にしては、あまりにも生々しかった。
悪い夢だったな、と片付けようとして、違和感に気づいた。
腹の痛みが、ない。
ここ数ヶ月、常にどこかにあった鈍い痛みが、すっと消えている。気のせいだろうかと思って、何度か体を捻ってみたが、やはり違和感がない。
まさか。
嫌な予感がして、翌日、別の病院を受診した。理由は告げず、検査だけをお願いした。
月曜日だったが、限界まで溜まった有休を使うことにした。
結果が出るまでの数時間は、妙に落ち着かなかった。夢のことを思い出すたびに、胸の奥がざわついた。
そして、再び診察室に呼ばれる。
医師は、首を傾げながら言った。
「特に、異常は見当たりませんね。以前、大腸がんと診断されたと聞きましたが……正直、信じられません」
頭が真っ白になった。
嬉しい、という感情はなかった。ただ、背筋が冷たくなった。
――治った?
あの夢で、自分がやったことは。
診察室を出て、病院の廊下を歩きながら、スマホを握りしめる。現実感が、どこかに置き去りになっている。
その夜、再び夢を見た。
今度は、自分以外の人間だった。
眠っている女性。体は透けていて、肺の一部が白く曇っている。触れた瞬間、同じ熱と光が走る。
目が覚めた時、確信していた。
――これは、夢じゃない。
自分は、人の体を“見て”、悪いところを“治せる”。
そんな、馬鹿げた能力を手に入れてしまったのだ。
◆
翌朝、目が覚めると、胸の奥に妙な高揚感があった。
昨日のことが、夢だったとはどうしても思えない。だが、現実だと認めるには、あまりにも都合が良すぎる。
試すしかなかった。
布団の上に座り、深く息を吸う。目を閉じると、あの感覚を思い出す。夢の中で見た、透ける身体。焦点を合わせるように、意識を自分に向けた。
すると、視界が変わった。
目を閉じているはずなのに、自分の身体が見える。皮膚の内側、骨格、臓器。曖昧だった輪郭が、次第にはっきりしていく。
――見える。
まず目についたのは、鼻の奥だった。
粘膜が赤く腫れ、細かい粒子のようなものが貼り付いている。小学生の頃から毎年春になると苦しめられてきた、花粉症の正体だと、なぜか直感でわかった。
触れる。
指先に、あの熱が走った。じんわりとした温かさが広がり、腫れはゆっくりと引いていく。赤みが消え、粘膜が滑らかになる。
目を開けた瞬間、鼻がすっと通った。
息が、驚くほど楽だった。
「……まじか」
思わず声が漏れる。くしゃみも、鼻水も出ない。薬を飲まなくても、春を普通に過ごせる感覚が、こんなにも違和感を伴うものだとは思わなかった。
次は、足だ。
靴下を脱ぎ、足の裏を見る。特に見た目は変わらないが、意識を向けると、皮膚の奥が再び透けて見えた。
角質の間に、白く広がる異物。長年放置してきた水虫だった。
同じように、触れる。
熱。光。
異物が、跡形もなく消える。皮膚は均一な色になり、嫌な痒みも、湿った感じもなくなった。
ここまで来ると、心臓の鼓動が速くなっていた。
最後に、洗面所へ向かう。
鏡の前に立ち、照明をつける。真正面から、自分の顔を見る。三十五歳。目の下にはクマがあり、頬は少しこけている。
そして――額。
最近、気になっていた生え際。写真に写るたびに、少しずつ後退しているのが分かっていた。
意識を集中させると、頭皮が透けて見える。
毛根の一部が、細く、弱々しい。生きる力を失いかけているようだった。
正直、半分は冗談のつもりで触れた。
だが、確かな手応えがあった。
熱が走り、毛根が太くなる。眠っていた細胞が、息を吹き返すのが分かる。地面から芽が出るように、黒い影がじわじわと増えていった。
数分後。
もう一度、鏡を見る。
生え際は、確かに戻っていた。劇的、というほどではないが、「少し薄くなってきた三十五歳」から、「まだ大丈夫な三十五歳」に変わっている。
笑いが、込み上げてきた。
乾いた笑いだった。
病気も、体質も、コンプレックスも。
全部、治る。
少なくとも、自分の身体では、そうだった。
そして、同時に思った。
――これを、他人に使ったら。
頭の中に、あの中年の男や、夢に出てきた女性の身体が浮かぶ。自分の病気が治った喜びよりも、そちらの想像の方が、なぜか現実味を帯びていた。
力を持った瞬間から、人は選ばされる。
使うか。使わないか。
救うか。見捨てるか。
その選択肢が、もう自分の前にある。
◆
火曜日。
流石に有休を使うことは出来なさそうだったので、出社することにした。
昨日は有休を使っていたにも関わらず、スマホが鳴り止まなかった。
会社は相変わらず忙しかったが、頭の中はそれどころじゃなかった。昼休み、コンビニで適当にパンを買い、公園へ向かう。
試さないと、確信できない。
平日の昼間の公園は、思ったより人が少なかった。2歳くらいの子どもとその親が数組と、ベンチで休む老人がいるくらいだ。
その時だった。
子どもが走ってきて、段差につまずく。前のめりに倒れ、膝を擦った。
泣き声。
反射的に、身体が動いていた。
「大丈夫――」
膝をついた子どもの前にしゃがみ込み、意識を集中させる。皮膚が透け、擦りむいた表皮の下が見えた。
触れる。
熱が走り、赤く滲んだ傷が、ゆっくりと塞がっていく。血は止まり、皮膚は元に戻った。
子どもが、きょとんと目を瞬かせた。
次の瞬間。
「ちょっと、何してるんですか!」
母親の声だった。
腕を強く引かれ、子どもから引き離される。視線が刺さる。不審者を見る目だ。
「違います、今――」
言い訳をする前に、周囲の空気が一気に冷えた。誰かがスマホを構えるのが見える。
逃げるしかなかった。
背中を向けて歩き出すと、後ろから、子どもの声が聞こえた。
「あのおじさんが、なおしてくれたー!」
すぐに、大人の声がかぶさる。
「そんなわけないでしょ。転んだくらいで」
振り返らなかった。
振り返れなかった。
奇跡は、簡単に否定される。
それでも、確信は得られた。
――使える。
少し歩いて、別のベンチに座る。
そこには、帽子を目深にかぶった老人が横になっていた。昼寝をしているらしい。規則的な寝息だが、いびきをかいている。
隣に腰を下ろし、意識を向ける。
スキャン。
血管が浮かび上がる。圧が高い。糖が、異常に溜まっている。高血圧、糖尿病。年齢相応、と言えばそれまでの身体だった。
触れる。
熱。
流れが整い、数値が正常に近づいていくのが分かる。薬で抑えるしかなかったものが、根本から書き換えられていく感覚。
終わる頃、老人が目を開けた。
「……おや?」
身体を起こし、首を回す。肩をすくめる。
「なんだか、えらく楽だな」
立ち上がり、軽く足踏みまでしてみせる。
「最近は、立つだけで息が切れてたんだが」
こちらを見るが、疑いの目ではなかった。ただ、不思議そうな顔。
礼も、驚きもない。
それが、逆に現実だった。
治っても、人はすぐに幸せになるわけじゃない。
だが。
確実に、人生は少しだけ前に進む。
――これは、金になる。
そう思った自分に、嫌悪はなかった。
◆
その日の夜。
シャワーを浴びても、公園の空気がまだ皮膚に残っている気がした。子どもの母親の視線と、老人の「楽だな」という一言。
どちらも、頭から離れない。
スマホを開く。
匿名SNSで新規アカウントを作成する。実名も顔もいらない場所。真偽不明の情報と、承認欲求と、詐欺が渦巻く世界だ。
名前は適当でいい。検索に引っかからず、覚えにくい文字列。プロフィール欄は空白のままにした。
最初の投稿文で、すべてが決まる。
派手すぎれば嘘くさい。
弱すぎれば埋もれる。
少し考えて、文字を打った。
――
「寝ている間に、身体を“治します”。
慢性疾患、体質、見た目の悩み含む。
条件あり。詳細はDM。」
――
投稿する指が、一瞬止まる。
これが犯罪かどうか、分からなかった。だが、少なくとも「まとも」ではない。
送信。
画面に、何の変化もない。いいねも、反応もない。いつものタイムラインに、投稿がひとつ増えただけだ。
期待していなかった。
どうせ、誰も信じない。
そう思っていたのに。
数分後、通知が鳴る。
DM。
開く。
「本当ですか?」
短い一文。
続けて、もう一件。
「花粉症、治せますか」
さらに。
「ガンは?」
心臓が、はっきりと音を立てた。
「嘘乙笑」
なんて言ってくるアカウントもあった。
疑いと、希望と、 必死さが、文字越しに伝わってくる。
返信は、すぐにしなかった。
条件を決めなければいけない。
善意でやる気は、最初からなかった。昼の公園で、それは分かった。
メモ帳を開き、箇条書きで打つ。
・対面
・一人ずつ
・現金前払い
・治療後の返金なし
・口外禁止
値段は、少し迷った。
安くすれば、人は集まる。
高くすれば、本気の人間だけが来る。
桁を、一つ多く打った。
高額だった。
それでも、安い。
ガンが治るなら。
人生が少しでも変わるなら。
条件文を整え、DMに返信していく。
「本当です」
「可能です」
「条件があります」
送信するたびに、自分が何者か分からなくなっていく。
医者でもない。
詐欺師でもない。
ただ、治せてしまう人間。
画面の向こうで、誰かが生きる理由を取り戻そうとしている。
その理由を、治すことはできないのに。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
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次の話は明日投稿予定です。




