7.洙田音色 ⑥
北海道に住むこととなった音色へ、マエストロは伝手を使って日本在住のピアノやヴァイオリンの講師を送った。ヴァイオリンのレッスンは合わず追い返したが、ピアノの講師は口出しをあまりしないタイプであったため、音色は自分のやり方で鍛錬した。そして出場したピアノコンクールにて優勝したものの、表彰式後のインタビューの途中で倒れてしまい、心配した祖父母から暫く練習を休むように言われた。当然祖母は、彼の身体が強くないことを伝えなかった娘夫婦に激怒した。
強制的に通うこととなった小学校では、音色にとって慣れないことだらけだった。そんな彼が初めて背負ったランドセルの色は赤。祖父母がアメリカへ行く前に取り寄せた色だ。母親が使っていた黒色のランドセルもまだ家にあるが、どうしたらそうなったのかわからないほどボロボロの状態である。音色が男の子だと知って黒色の物を新たに購入しようとしたふたりに、彼は「かっこいいから赤でいい」と言った。
また、視力が悪いことに気づいた祖父に眼鏡を買ってもらった音色は、黒板の文字や楽譜がよく見えるようになり感謝した。しかし授業内容はちんぷんかんぷんで、集団行動や掃除など必要なことをクラスメイトたちに手取り足取り教えてもらった。彼と仲良くなるために行われたレクは、本人の苦手な運動であるドッジボール。ここで悲劇が起きた。女子の投げたボールを避けきれず、彼は右腕を骨折してしまった。
(なんもできねー)
両手を使用する楽器の演奏ができず、音色はできることが限られ途方に暮れた。これを契機だと思った祖母は、孫に家庭教師をつけた。今までの遅れを取り戻すべく、放課後は勉強漬けの日々だ。そこにプラスして、マナー講座も受けさせられた。
「ここ、また同じ間違いだよ。『はね』じゃなくて『とめ』だって教えたよね」
「読めればいーじゃん」
「テストだと丸をもらえないんだ。しっかり正しい書き方を覚えてもらわないと。そもそも、この字だと読む方も大変だよ」
「……」
優秀な男性の家庭教師による授業はわかりやすいが苦痛で、日本語を読んだり書くことにまだ不慣れな音色は何度も逃げ出そうとした。しかし、豪邸を綺麗に保つために雇われている者たちによって監視され、それは叶わない。やりたくもない勉強とずっと向き合わされる。
日本語は「ひらがな」と「カタカナ」と「漢字」を使い分ける。加えて、同じ字でも読み方が複数ある。話せることで国語なら楽勝だと考えていた音色は、結局一番苦労するはめになった。彼には漢字が変な記号にしか見えていない。
「息抜きに教科を変えようか。次は算数ね。九九は覚えられたかな?」
「……こんなの、どこで使うの?」
「使うさ。物を素早く数えるのに役立つよ」
「ふーん」
いまいち、音色は算数の楽しさを理解できていない。国語よりはまだ楽という感覚だ。
「先生はね、数学の魅力はその美しさだと思うんだ。例えばフィボナッチ数列というものがあって、これは前のふたつの数字を足していくんだ。一、一、二、三、五、八、十三、二十一……となっていく。面白いのは、数字が大きくなるほどに隣の数字との比率が黄金比に近づくんだよね。その黄金比は一対一.六一八。これは古代の建築にも用いられているんだ。この比率はとても自然で、バランスが良く見える。では、有名な螺旋を描いてみようか。まず、この紙に一辺が一センチの正方形を横にふたつ描く。その上に一辺が二センチの正方形。この三つの左に一辺が三センチの正方形。これらの下には一辺が五センチの正方形だ。これをどんどん作るよ。……うん、できた。次はコンパスの出番だ。それぞれの正方形の一辺を半径とした弧を描いて繋げてみよう。……すると、このように螺旋の完成だ。どうだい? 美しいだろ?」
「うん。これ知ってる。バッハも取り入れてる」
「ん?」
「ドイツで読んでもらった本に書いてあった」
「へ、へぇー」
教師は突然自分の専門外の話をされて困惑したが、教え子に興味の湧いた表情が見られたことで思案する。
「そっか。君はずっと音楽に関わってきたんだったね。それなら、数字の持つ美しさを芸術肌の君ならより理解できるはずだ。そっちの方向で試してみるか」
「まだ勉強するの?」
「数字の美しさの秘密を解明したら、良い音楽の法則も数字で表せるとは思わないか?」
「……そんなことできるの?」
「君がもっと勉強したらきっとね」
「……勉強してあげてもいーよ」
「ありがとう!」
その後の授業は、一般の小学生向けの指導ではなく音色のための特別な内容へと変更された。学校では習わないような数式でも、彼は意欲的に聞く。複数の言語を聞き取れる能力もあり、元々の地頭は良い。算数の授業をご褒美としてほかの教科にも手をつけさせ、どうにか一年で国語以外は同級生に追いつくことができた。
音色は日本においてもカノジョができた。名前は姫空。彼女は彼が骨折する原因となったボールを投げた人物である。
姫空は片手が塞がり不便となった彼の世話係に立候補した。学校生活での当たり前も教え、とにかく彼の傍を離れようとしない。理由は彼が大豪邸に住んでいるから。彼女は玉の輿を狙っている。
「音色君のお家、今日も遊びに行ってもいいかな?」
「いーけど、オレ、勉強ある」
「大丈夫大丈夫! こっちはお母様と仲良くお喋りしながら美味しいお菓子でも食べてるから!」
「……あの人、おばあちゃん」
「そうなの!? え、若いねー!」
音色は告白された時、きちんと好きではないと告げた。それでも付き合いたいと相手が希望すれば、経験のために彼も了承するというスタンスだ。これは両親の教育が悪い。
音色の祖父母は、よく遊びに訪れる孫のクラスメイトである彼女のことを、ただの友達だと思っている。まさか小学生で恋人ができるとは、少しも考えていない。破天荒な自分たちの娘と孫は、全く違うと信じている。
小学校を卒業し、音色は中学校へ通うようになった。国語の成績が芳しくなかったため、私立中学への受験は諦めた。問題ばかり起こして私立の小学校を追い出された母親の静と同じく、ふつうの公立の学校である。
これに喜んだのは姫空で、彼女は部活まで同じにしたいと言ってきた。そして音色が選んだのは吹奏楽部。楽器はオーボエだ。いくつかの楽器は吹いたことがあるが、音を知っていてもやったことのないものを選んだ。オーケストラにおいて、美味しいソロが多いというイメージもある。
ピアノとヴァイオリンについては、一度骨折で離れたことをきっかけとして先のことを冷静に考えた。音色はコンクールでひとり挑んで良い演奏をしても、マエストロが指揮する音楽に近づけているとは思えなかった。身体が弱かったりどんなに指を引っ張っても周りと比べて長くない自分には、偉大な演奏家になるイメージがずっと掴めずにいた。今でも家で弾くことはあるものの、仕事としてこのままやりたいのかと訊かれたら答えに困ってしまう。プロの演奏家として、コンサートで長時間弾き続ける体力はつきそうにもない。音楽は個人だけではなく、団体でひとつの素晴らしいものを作り上げるのが可能だということを見てきた。ならば、せっかく新しい楽器に挑めるチャンスがある今、吹奏楽という未知の場所でやってみるのも良いかもしれないと考えた。
だが、オーボエを始めた音色はこの楽器で思ったとおりの音を奏でることがどんなに難しいのか、嫌になるほど実感することになる。
「洙田君、ピッチ(音程)合ってないよ。直して」
「……」
「返事は?」
「……はい」
耳が良い音色は、言われなくてもピッチの悪さに気づいている。コントロールが大変で、やりたくてもできないのだ。それを具体的な解決策も出さずチューナーを見て指示してくる女子の先輩に、イラつきを隠せない。しかも、基礎合奏で共に部室にて音を鳴らすほかの楽器のレベルの低さに、頭が痛くなった。特にフルートやサックスやトランペットは、彼も家族に教わったことがあり、なぜこんなにも音質が悪いのかと問いたくなるくらいだ。それが言えない立場の自分の実力をまずは上げることを優先とした。
音色はマエストロに頼んで、オーボエに関する資料や音源をたくさん集めた。ついでにファゴットもプレゼントされた。両親からも、使わない民族楽器と一緒にコールアングレやアドバイスをもらう。そして個人レッスンをプロに頼み、学校指定のメーカーのマイ楽器で夜遅くまで練習をひたすら行う。財力のある家にいるため、リードもたくさん買ってもらえた。海外で出会った奏者からもらった道具を使用して、リードを削る作業も教わった。やることはピアノやヴァイオリンと同じで、努力など当たり前だ。
部活では、自分の好きなように行動することはなかなか許されない。やりたくないこともする。例えば、オーボエがなくても構わないポップスで、音色はパーカッションに回される。カノジョである姫空は、カレシが近くに来て消えかけのモチベーションが僅かに上昇した。これ以外にも、オーボエはダンス要員で呼ばれることもあった。運動音痴の彼には罰ゲームでしかない。あまりにも酷すぎたことで免除されたが、精神的に大きなダメージをくらった。
初めての吹奏楽コンクールの自由曲は『バレエ音楽 《コッペリア》』。この曲にはオーボエのソロが少しある。パートの三年生がこれを担当するのが普通だが、バレエを実際に観たことのある音色はその演奏に不満だった。そして、ひとりで練習してきた成果を顧問や外部指導者に聴かせ、オーボエを吹いてたった四ヶ月で先輩からソロの座を奪った。当然先輩はショックを受ける。完全実力主義の世界を見てきた彼には、周りから批判される状況に納得がいかなかった。
ここから、音色の暴走が始まる。




