4.洙田音色 ③
音色はフランスでの生活の中で、祖父母から音楽についての知識を叩き込まれた。マエストロには編曲の課題を出されることがあり、自分が演奏するピアノやヴァイオリン以外もたくさん勉強をした。また、元フルート奏者である祖母のルミ子によるスパルタ指導は大人でも泣くレベルで、それを受けた音色は精神面をかなり鍛えることができた。ただし、体力面はいくら努力しても向上しなかった。そのため、練習中や出場したコンクールで演奏後に倒れたこともあった。長時間立っていることもできない。これは起立性調節障害の症状でもあるが、彼の周りの大人たちはそんな知識を持っておらず、気合いでどうにかなると思っていた。
「貧弱」
「うるさい」
Lucieは身体の小さい音色の体力強化を試みた。
音色が肉や魚を食べられなくなった原因を作ったことにほんの少しだけ責任を感じており、植物性のタンパク質を摂らせる。だが、彼はかなりの少食だ。そこでバレエの体幹トレーニングをやらせてみたものの、改善はしなかった。
「情けない」
「うるさい」
手本としてバレエを踊ってみせるLucieは、とても自由で優雅だ。彼女は音色と出会ってから前よりバレエと向き合うことが増えた。このところ、本気で笑うようにもなった。
彼女は、姉妹のどちらかを才能のある音色の許嫁にしようと祖父が考えていることを知ると、嬉しそうに恋人へ報告した。
「ねぇ、ネイロ」
「何?」
「私たちの将来のこと、考えてみたの」
「ふーん」
「ステージの中心で私が踊って、ネイロはオーケストラピットでコンサートマスターとしてヴァイオリンを弾く。どうかしら? 素敵だと思わない? 大人になったら結婚して、いつまでもここで一緒に観客へ感動を届けるのよ。ネイロがいるなら、私はここでやっていけるわ」
「先のことなんてわからないよ」
「わかるわ。これは確定なのよ。だから、もっと私のことを知ってほしいし、私もネイロのことを知りたい。たしか、ネイロのルーツは日本なのよね?」
「そうみたい」
「フランス人はね、日本のカルチャーが好きなの。今度、日本がテーマのイベントにでも行ってみましょうよ」
「あんまり日本のことは知らないんだけど」
「だったら私と学べばいいわ」
Lucieだけでなく、姉のFleurも音色がこの家にずっといることを望んでいた。たとえ妹にエトワールの座を奪われたとしても、ふたりが活躍する未来を願った。
しかし、音色がフランスを離れることが決まった。
「別れましょう」
「っ!? どうして?」
「だって、ネイロはここからいなくなるじゃない」
「また戻るかもしれないだろ? 今までもそうだった。同じ場所を訪れることは何度もあった」
「……もう終わりよ」
「Lucie!」
「……」
「フランス語、上手く話せるようになった。だからちゃんと話を聞いて!」
「……さようなら」
音色が初めて好きになった少女の態度は冷たくなった。
別れを告げられ、話し合うこともできない。Fleurが離れても必ず連絡をすると言ってくれたが、失恋した彼の耳には届かなかった。
フランスを後にした音色は、心に空いた穴を埋めるように楽器の練習をした。
現在彼と行動を共にしているのは母親の静。その髪色は清々しい水色だ。
「まだ落ち込んでるの?」
「……」
「ルーシーだっけ? 可愛いカノジョの名前」
「Lucie」
「あ、そうそう。リュシーね。フランス人の女の子って、みんな金髪で青い目かと思ってたけど違うのね。……マエストロのこと、恨んでる?」
「……別に」
マエストロは、音色からLucieが実の母親と離れ離れになってしまったことを聞いた。
パトロンである彼女の祖父にそのことについて説明を求め、口論になり仲違いをしたふたりは関係を解消した。フランスで新たな縁を繋ぎ、音色のことまで世話をするというパトロンを見つけた彼には、もうあの家は用済みだ。バカな次男坊を叱りつけ、喧嘩した男に姉妹を駒としてではなくて人として愛し育てるように意見し、彼女たちが自分の思うままに成長することを願った。
そして、次のパトロンの要望で仕事が入り忙しくなったマエストロは、比較的自由に動ける静へ音色を託すこととなった。彼としては孫をフランスに縛りつけるつもりの男から守ったのだが、結果的に恋人から引き離す形となってしまった。
「恋愛なんてそんなものよ。たくさん経験していって、それを音楽に活かすの。りっちゃんもよく言ってるでしょ? まぁ、アタシとりっちゃんは離れていても超ラブラブだけど!」
「……」
「反応悪いなぁ。もしかして反抗期? え、反抗期なの? ヤダー! カーワーイーイー!」
「……」
うんざり顔の子供にたっぷりのキスを贈ると、静は出かける用意をした。
「それじゃ、今日もママは呑んできます! 音色もお隣行くよ!」
「……うん」
アパートの隣人は、静が所属する楽団の一員である老人だ。
練習終わりに仲間と呑みに行きたい静は、以前ひとりで子供を留守番させて通報されたことがある。それ以来、彼に預けるようになった。子守役をこの老人にした理由は、彼がオーボエ奏者で楽団の練習後はリード作りや調整で忙しく、呑みに行くことがほとんどないからである。
音色は隣の住民の部屋に入ると、慣れたように椅子に座りヴァイオリンを弾いた。寡黙な相手は、他所の子供がいても気にせず黙々と作業をする。そして、時計を見るとご飯を食べることを忘れて集中している隣人の視界に入り、一旦手を止めさせる。何か食べなければずっとこのままだと知っている音色は、家から持ってきた携帯食料を取り出して口に入れた。それを見届けると、老人はまた作業へと戻る。音色のヴァイオリンの弦が切れて怪我を負った際には、優しく手当てをしてくれたこともあった。
この歳の離れたふたりの演奏家は、あまり言葉を交わさない。しかし、老人はたまにリードを削る様子を間近で見学する外国人の子に、嫌な顔ひとつしなかった。音色はその手の動きをじっと観察し、試し吹きする時の音にもよく耳を傾けた。オーボエ奏者は何人も見てきたが、これまでリードを一から作る場面は見たことがない。ピアノやヴァイオリンと違って職人でもある奏者が珍しく、興味をそそられた。
静が次の地へ移動すると決めこの老人とも別れることになった時、彼は音色へリード用のナイフなどをプレゼントしてくれた。
その後も短期間でいくつもの地を訪れた音色。
十歳になった彼は、今アメリカにいる。
「おい、ネイロ。今日も店に来るのか?」
「うん」
「そうか! あいつも喜ぶよ!」
小さな劇場や呑み屋が並ぶ道で音色に声をかけたのは、大柄な若い男性。名前はJabari。肌は黒く、服は汚れている。
「着替えなくていいの?」
「着替えるさ。今あっちの仕事が終わったところなんだ。その前に飯でもどうだ?」
「お腹空いてない」
「そう言うなよ。な?」
「えー」
「ネイロー!」
「うわっ!?」
ふたりが話している途中で、音色は背中から誰かに勢いよく抱きつかれバランスを崩す。それをJabariが支えた。
「おかえり」
「ただいま、お兄ちゃん! ネイロ、今日来る?」
「それ、Jabariと同じ質問だぞ」
「そりゃ兄と妹ですから! で、来るの?」
「ああ」
「やった! ネイロ、大好き!」
「離れろー!」
音色の後ろにピッタリとくっついているのは、Jabariと同じ肌を持つ少女。名前はKamariaだ。
Lucieと同い年の彼女は、異国からやってきた少年に夢中である。
「いつになったら私の恋人になってくれるの?」
「ならないって言ってるだろ!」
「でも好きだった子に振られたんでしょ?」
「言うなよ!」
「そっちが教えてくれたんじゃない!」
積極的にアプローチし続けるKamariaを、兄は微笑ましく思いながら見ている。彼は彼女の親代わりでもあった。
「Jabari! 助けろよ!」
「どうして? 俺は妹の味方だぞ」
「そうよ! さ、加勢して!」
「おう!」
「やめろよー!」
言葉では嫌がっているが、兄妹に戯れつかれる音色の表情は笑顔だった。
食事や酒を楽しめる店には、小さなステージが用意されている。
クラリネットやサックスやトランペットなどと一緒に、音色はここでピアノを演奏する。店員の中にはビシッと身だしなみを整えたJabariの姿もある。そして、観客の視線を集めるのはKamaria。大人びたドレスを着る彼女は、まだ子供ながら歌で人々を魅了した。




