3.洙田音色 ②
ある日、父親の律が所属する楽団の楽屋で、五歳の音色はヴァイオリンの練習をしていた。ホールでは律たちが次の公演のリハーサルを行っている。ここには彼と同い年の男の子もおり、その子は絵を描いて遊んでいる最中だ。何度も会っているが、あまり話したことはない。すると、これまで黙っていた男の子が話しかけてきた。
「ネイロかいたよ」
「ふーん」
「プレゼント」
「いらない」
「ぼくのきもちだ」
「あっそ」
「ネイロ」
「なんだよ……っ!?」
突然、音色はその男の子に唇を奪われた。
「…………は?」
「パパがいってた。すきなこにはキスをするんだ」
「…………は?」
笑ってそう言う彼に、音色の理解は追いつかない。
そこへ休憩時間に入った団員たちが、楽屋に戻ってくる。
「パパー!」
男の子は父親の胸に飛び込んでいく。そして唖然とする音色に律が近づいた。
「どうかした?」
「……キスされた」
「Wow! ファーストキスかい! それはおめでとう! で、相手は?」
「……あいつ」
「あぁ、彼か! あの子のパパとは僕も昔付き合ったことがあるよ」
「…………は?」
「ん? あー、ママは知ってるから安心して。今はなんともないしね。ただの友達だよ」
「そうじゃなくて……」
「音色にはパパの恋愛遍歴を話したことがなかったよね。今度聞かせてあげるよ。ママの話も面白いよ。特に、高校生の時に後輩の女の子に告白されて付き合ってた頃、相手の子の束縛が大変だったこととか」
「…………は?」
「いいかい、音色。恋愛の形はたくさんなんだよ。より良い音楽を目指すためには、恋愛は絶対に欠かせない。でもね、やっちゃいけないこともある。それは同時に複数の人に手を出すこと。浮気はダメ! 人を傷つけるような奴はただのクズ! 忘れちゃいけないよ。……で、彼と付き合うのかい?」
「すきじゃない」
「そっか。キスされて嫌だった?」
「わかんない」
「嫌だったら言うんだよ。もし言いにくかったらパパが代わりに伝えるからね」
「うん」
その後も恋愛の素晴らしさを説く律。だが、音色にはさっぱり理解できなかった。
音色は初めてのコンクールに挑んだ。
ジュニアのコンクールで楽器はピアノ。結果は最優秀賞。しかし彼は嬉しくなかった。両親や祖父母に囲まれながら、彼は静かに涙を流した。
「あのコンクール、子供相手でも厳しいって有名なんだよ。去年の最優秀賞は該当者なしだったんだから。パパは音色の演奏よかったと思う。何が気に入らないのか教えてくれるかい?」
「……だしたいおとじゃなかった」
「思ったように弾けなかったのが悔しいんだね」
「……うん」
「だったら、勉強をしてもっと練習するしかないな。みんな音色のために協力は惜しまないよ」
「アタシにはわかんないなぁ。そんな理由で泣いたことないもん。っていうか、泣いたこと自体ない。そんな暇あるなら練習した方がよくない?」
「君はちょっと……いや、かなり特別だよ」
「私の出番かしらね」
祖母の目が鋭くなり、律は顔色を悪くする。
「ママのレッスンはスパルタだからなぁ。潰さない程度に留められる?」
「それは音色次第ね」
「私もルミ子にレッスンしてもらいた……なんでもありません」
妻に冷たい目を向けられたマエストロは、身体を縮めて一歩下がった。
「アタシは? ピアノもヴァイオリンも教えられないけど、やれることある?」
「静さんは、オートミール以外の料理を音色に作ってあげることから始めなさい」
「オートミール楽なんだもん!」
音色はこのコンクールをきっかけに、より音楽にのめり込んでいった。
大人が合奏などで面倒を見られない時も、ひとりで黙々と練習をした。ピアノで疲れたらヴァイオリンを弾き、ヴァイオリンで疲れたらピアノに戻る。息抜きでほかの楽器に触ることもあった。また、知識を頭に入れるために様々な書籍を大人に読んでもらった。彼の周りは異常者しかいない。休憩もせず一心不乱に練習をするのは当たり前で、食事を忘れることも珍しくない。理想の音を必ず考え、それに向かって弾き続ける。いくつものコンクールでトップを取っても、決して満足することはなかった。そして、やはり音楽に必要な恋愛については何もわからないままだった。
マエストロとルミ子に連れられて八歳の音色がやってきたのは、フランスにある劇場。ここで、バレエの公演が行われる。
マエストロや律たちには、各地にパトロンがいる。音色もコンクールなどで声をかけられ、支援をしたいと申し込まれたことがある。パトロンとの関係は様々で、律からはよく考えて選ぶように言われた。
この劇場は、マエストロのパトロンのひとりが所有する場所だ。音色はそのパトロンの孫であるフランス人の姉妹を紹介された。姉の名前はFleur。そして妹はLucie。どちらも栗色の髪と瞳を持つ。彼女たちもバレエに取り組んでおり、トップダンサーのエトワールを目指していると教えられた。Fleurはフランス語がまだ上手くない音色のことを、弟のように可愛がって面倒を見た。一方、Lucieは度々バレエのレッスンを抜け出しては、楽器の練習をする音色を引っ張って遊びに出かけた。一応彼よりも歳は上で背も高かったが、精神年齢は基本的に幼かった。
「遊びに行こ!」
「れんしゅう。もどる」
「ネイロはそればっかり! 今日はどこに行く? あっちにマルシェあるから、何か買って食べよっか」
「れんしゅう!」
「聞こえませーん! もっとフランス語が話せるようになったら聞いてあげる」
「……」
マルシェでフルーツを購入し紙袋に入れてもらうと、Lucieは音色の手を引いて公園へ移動した。
「はい、ネイロ」
「ありがとう」
ふたりは公園のベンチに座り、軽く拭いたアプリコットにかぶりつく。水々しく甘さもある果実の味に、音色は目を輝かせた。
「気に入った?」
「きにいった」
「ずっと練習してたでしょ? 休むのも大事だと思う。私が声をかけなかったら、ネイロはあのままお昼ご飯を食べるのも忘れちゃう」
「まわり。みんな。おなじ」
「よくないなぁ。楽器の演奏は私にはできない。でも、もっといろんなことを知るのが必要だってことはわかるよ? 例えば『恋』とかね。……そうだ! ネイロは私と付き合えばいいんだよ」
「やだ」
「どうして?」
「すき。ちがう」
「私はネイロのこと気に入ってる。キスすれば、きっとネイロも好きになる」
Lucieはそう言って、音色にキスをした。
ゆっくり離れていく彼女に、彼は嫌な気がしなかった。初めての時とは全く違って、心臓が少しだけ速く動いているのを感じた。
「ネイロは私が好き」
「……わからない」
「今はそれでもいいよ」
Lucieはベンチから立ち上がると、身体を自由に動かして踊った。
「風を感じない? 鳥の声は? 水の音はどんな音? 自分とそれ以外の間には何があるの? こうやって全身で感覚を研ぎ澄ます。そうしたら、もっと感情を込めたバレエになる。ネイロの音楽もそうだと思う」
近くにいた者たちは、Lucieのダンスに気づいて足を止めた。どんどん人が集まってくる。人々を魅了するその姿に、音色も心を奪われた。
自由奔放な性格のLucieはよく人を困らせ、そして叱られる女の子だった。
音色はLucieの一番の被害者だ。使用人の家族が住む田舎に無理やり連れていかれ、そこで釣りをし浅瀬の川に落とされた。彼女は全身びしょ濡れの音色を笑い、釣った魚にビビる彼を何度も揶揄う。さらに、捕まえたウサギと魚を滞在先の老人が捌く様子を一緒に見学し、音色に一生残るトラウマを植えつけた。
姉のFleurは、そんな妹をいつもフォローし庇う。なぜそうするのか、彼女は音色にだけこっそり教えた。
「Lucieのバレエ、見た?」
「みた」
「あの子、私よりずっと才能があるの。私がレッスンで叱られると、あの子はわざと問題を起こして自分の評価を下げようとする。エトワールになれば誰も悪く言うことはなくなるのをわかっていながら……」
「わるくいうのなんで?」
「それは……いろいろあるのよ。とにかく、私はあの子を大事な妹だと思ってる。そしてLucieはもっと輝いていい子なの。だから、私はどんな時もあの子の味方でいるわ」
「ふーん」
「ネイロはLucieの恋人なのよね?」
「たぶん」
「だったら、あの子の心の隙間を埋めてあげてね」
「どういうこと?」
「知らなくてもいいの。ただ、傍にいてあげて」
Fleurの願いの意味を知ったのは、それから暫くした時だった。
広い邸宅に住まわしてもらっている音色は、ある夜、ふたりの使用人と共に二階の部屋の窓から外へ抜け出そうとしているLucieを発見した。
「なんだネイロか」
「へんなおと、きこえた。それできた。……いえで?」
「違う! ちょっとママに会いに行くだけ」
「Lucieのママならへやにいるよ」
「あの人はFleurのママ。私のママじゃないわ」
「?」
「ネイロ。今から私がどこに行くのか誰にも言わないなら、一緒に連れていってあげる」
「れんしゅうする。べつにいい」
「一緒に来い!」
「いかない!」
「大声出さないで!」
「いたい!」
頭を叩かれた音色は、嫌々Lucieと使用人たちと車に乗って夜の街へ向かった。
目的地はキャバレー。
音色とLucieは年齢を偽って中に入る。
「今日も盛り上がってるね。……前に大人のフリして入ったけど、追い出されちゃった。親同伴じゃないとダメなんだって。あそこに私のママがいるのに」
Lucieの父親は、キャバレーのダンサーのひとりに既婚者であることを隠して手を出した。そして産まれたのがLucieだ。
母から三歳だった彼女を引き離したのは父方の祖父。理由は将来政略結婚をさせるため。つまり駒だ。実母も育ての母も、Lucieのことを大切に想っている。だが、彼女は不自由のない暮らしの中にいても、どんなにバレリーナとしての素質を認められても、レッスンを抜け出して自然のある田舎で遊んでも、心に空いている穴は完全に埋まらなかった。
こうして信頼する使用人がたまにキャバレーへ連れていってくれるが、彼女はここで踊る母親と暮らすことだけが叶わない。
「Lucieのパパはクズだな」
「そうだね」
音色はLucieの手を取り、そっと握り締めた。
「ママ、とっても綺麗でしょ」
「うん。でも……」
彼は彼女に口づけをする。
「ネイロからは初めてだね」
「ダメ?」
「ううん」
情熱的に盛り上がるショーの熱気が充満する中で、ふたりは静かにもう一度キスを交わした。




