おまけ.吹奏楽指導者 ②
大学生になった洙田音色は、島原大学の音楽監督に新しいあだ名をつけられた。毎年オータムコンサートで披露する「ローマ三部作」のひとつである『ローマの祭り』と、スプリングコンサートの一曲目である『剣闘士の入場』から、ローマ皇帝の名にちなんで「暴君ネロ」。髪色もハバネロのような赤のためピッタリだ。私も彼をそう呼ぶことにした。
ネロは部活の練習後も大学に残ることが多い。理由はバイトをするためだ。海外の富裕層の子供を相手にオンラインで指導を行っている。一番通学距離の短いボロアパートに住み家政婦を雇ってたまに掃除や食事を頼む彼は、お金のためというより貸しを作るために引き受けているようだ。
「同期がもう辞めたな。何か酷いことでも言ったのか?」
「言ってねぇよ」
バイトまでの時間を使って個人練習をするネロに、ここのコーチとして私は話を聞く。
言葉が乱暴である彼と同じパートはなかなか大変だろう。彼と同期の女子部員が辞めて早めに別のサークルへ所属することになったのは、彼女にとって良いことだと思う。
「ネロの言い方は他人を傷つける。そこを改めた方がいい」
「そんなこと言ったつもりはないんだって。ただ、ふたりで親睦会やりたいって言われて食事に行ったら告られて……」
「なんだと? 告白されたのか!?」
「そ。で、普通に断るじゃん。オレがシキマと付き合ってるって伝えたら、なんか泣いて店から出てった。次の日辞めるって言ってきて、意味わかんない。止めたけどまた泣かれた」
「私たちのことを伝えたのか!?」
「ああ」
「それはそうなるだろ!」
「なんで?」
「『なんで』って……。気持ち悪がられたってことだろ。私との関係はあまり口にしない方がいい。特に部員にはな」
「自分と関係ないなら、誰が誰と付き合うとか別にどうでもよくない?」
「好きな相手がそういうのだったら嫌になる!」
「そういうのって?」
「そ、それは、私たちみたいな……」
「それより、プリゾニゼーションって知ってる?」
「は?」
ネロは鞄から心理学のノートを取り出す。
「今日の講義で知ったんだけどさ、自主性が失われていくんだって。絶対的な指導者がいると、主体的に学ぼうとする者は増えないみたい。それって組織として難しいよな。だって、頼りない奴についていきたくないだろ」
「お前、ちゃんと授業受けてるんだな」
「大学生なんだから当たり前じゃん。あと、ミラーニューロンシステムっていうのもあって、観客の心を掴むのにこれって役立ちそうだなって思った。まるで自分も体験しているような感覚に勝手になるらしいよ」
「ほ、ほう」
私が大学生の頃は、ただ己が上手くなることしか考えていなかった。だけどネロは違う。この大学に来て総合的な視点で物事を考え、それを活かそうとしている。
「ネロが音大に行かなかったのって、私目当てじゃなかったんだな」
「何言ってんだよ。そうに決まってるじゃん。オレは会社作るんだからな」
えー。それ初耳なんだが? 好きな人の近くにいるためって思う方が自然だと思うのだが?
ネロの同期が辞めてそのすぐ後に、今度は彼のひとつ上の学年の部員が辞めた。辞めるタイミングを窺っている雰囲気はあったから、そこまで驚きはしない。
この大学でも彼はオーボエのトップになり、役員の黄山寧音は自分の仕事を放棄して彼に押しつけた。強引に自由を手に入れた彼女は、誰にも止められない。
実力のある彼は指導者たちのお気に入りだ。コンサートマスターとして異例の大抜擢をされるほどである。大人たちに囲まれても堂々と意見を言う彼と、私以外の指導者たちが喧嘩になることは日常茶飯事。しかし、私はずっと停滞していた部活の空気が変わる予感がした。
「……今なんて?」
「だから、みんな追い出すことにした」
「な、なぜだ!?」
音楽監督含め指導陣たちを大学から追い出すと宣言したネロ。それは、あまりに突然のことだった。
「だって、無駄が多いじゃん。合奏の形作ったのになかなか始まらなかったり、曲も観客受けが悪いっていうか、新規も呼ぶ努力しないとダメだと思う。あとさ、なんか偉そうな態度してるけど、言ってることそうでもないし。ちゃんと勉強してるのか疑問な奴もいるよね。ただ取り巻きでいたいだけっていうかさ。調べたんだけど、コンクールの常連は別として、今の吹奏楽って存続自体危ういらしいよ。指導者が足りないんだよ。あんな無駄に集まる暇があったら、もっといろんな学校に教えに行けばいいんじゃない? だから解散してもらう」
「こ、ここはどうするんだ!」
「代わりの指揮者は見つけた。オレが指導してそいつに振ってもらえば問題ない」
「ネロの言ってることはわかる。私もいろいろ思うところはあった。だが、あまりにも横暴がすぎるぞ。私だけでみんなを説得できるかどうか……」
「いや、それは全部オレがやるからいいよ」
「わ、私は何をすれば……」
「え? シキマは次の学校探さないとじゃない?」
「……私もここを出ないといけないのか?」
「そうだけど?」
「……私たち、交際中なんだよな?」
「そのつもり。違うの?」
「……そうだな。そうだよな。ちょっと混乱してるだけだ。気にするな」
恋人だろうが容赦しないのは、実にネロらしい。
そうか。そうなんだな。
昔の伝手でも頼ってみるとするかな。
島原大学を出た私が辿り着いたのは、若い指導者が集まって教えている熱田西高校。この高校には、私が若い頃に勉強のため通ったハル先生の教え子が中心におり、やり方に共感を覚えた。ほかにも北海道の高校はもちろん、今まで足を伸ばしてこなかった地にも行っている。ネロの言うように、少子化や部活の地域展開の影響を強く感じる。同じ場所にいるだけではわからなかったことが見えてきた。
大学の方は心配していない。彼に反発する部員はいるだろうが、間違いなく良い方へ向かうはずだ。
高校の全国大会に行くと、そこで大学の指導者たちが集まっていた。私もその輪に入れられてしまう。かつての教え子からのお礼の言葉は嬉しいが、現役の子のフォローへ早く行きたい。銀賞も立派だと思うが、本人たちは悔しいに決まっている。
私は辺りを見回した。すると、少し遠くに赤髪が見える。ネロだ。
彼の隣には可愛らしい女子生徒。そのふたりに近づくのは彼の元カノ。
これはどういう状況だ? 元カノではなく別の子と会場を出る彼に、私の心はざわついた。
解放されてネロにメッセージを送る。
前に高校生を教えていることは聞いた。そこの生徒と来年のための視察に来て、これから帰るらしい。
少しでも会いたくて電話をかけると、怒ったような声が返ってきた。
『だから、すぐ帰るって言ってるだろ!』
「どうして会場で話しかけてくれなかったんだ!」
『だって、シキマ挨拶で抜け出せそうになかったから』
「今はもう大丈夫だ」
『いや、もう時間だから。明日の講義出られなくなるだろ。高校生もちゃんと返さないとだし』
「真面目か!」
『じゃ、そういうことで。またな!』
「あ、おい!」
引率なら仕方がない。
次に会う日を楽しみにしていよう。
この日はクリスマスイヴ。明日は、ネロの二十歳の誕生日だ。
私は彼の家でお祝いの用意をする。だが、彼はなかなか帰って来ず、連絡しても繋がらない。部活の時間はとっくに終了している。
やっと電話に出たかと思えば、今日は部活を休んで演奏会に行っていたと言われる。
「今タクシーか? 今日中に帰るんだよな?」
『ああ。そ。今帰ってるとこ』
「気をつけて帰れよ。演奏会へは勉強のためか? ひとりで偉いな」
『え?』
「……ひとりじゃないのか?」
『ひとりじゃないけど』
「浮気か!? 浮気してるのか!?」
『違うって! バカ!』
「バカ!? 何をそんなに慌てているんだ!」
電話では揉めたが、結局夜遅くに帰ってきてくれたネロ。疲れていたのかすぐに眠ってしまった。
翌朝、私は彼からリクエストのあったピアスと、演奏会で使いたがっていたワインをプレゼントする。ピアスには私の誕生石を使用している。このチョイスは自分でも重いと思ったが、彼の赤髪によく似合う。ワインは故郷のもので、彼が誕生した年に作られたもの。どちらも気に入ってくれた。少しでも祝えてよかった。
肺炎で入院したことを教えてくれなかったり、アンサンブルコンテストの会場に来ていたのに会いに来てくれなかったり、ネロへ腹を立てることはあった。それでも、なんだかんだで関係は続いている。家政婦に調理してもらったワインを使った料理も、一緒に美味しく食べた。
遂にネロが起業した。私は傍で見守るつもりだ。
「私はこの会社で何をすればいい? 地方の出張も慣れてるから、遠慮なく言ってくれ」
「え? うちで雇うつもりないけど?」
「……ん? 私たち、まだ付き合ってるんだよな?」
「何回も言わせるなよ」
「だったらなんでだ?」
「シキマは今までどおりでよろしく。この会社のシステムもまだ完璧じゃないから、別の角度で指導する者がいないとだろ?」
「それ、私である必要はあるのか?」
「シキマなら大丈夫だって」
「もう一度確認させてくれ。私のこと、好きなんだよな?」
「……うん」
「間があったが?」
「オレ、浮気しない主義だから。安心して」
「……信じてるからな?」
「おう!」
笑って言うネロに、私は本当に弱い。
不安はある。でも、信じるしかない。
彼の期待に応えるべく、私は自分の仕事を全うするだけだ。




