10.洙田音色 ⑨
Lucieは日本へ観光をしに訪れたのだと話した。子供の頃に親しかった友人の家にも寄ってみようと思ったと言うが、音色は彼女が嘘をついていると見破っている。なぜなら、観光にしては荷物が少なすぎるからだ。鞄はひとつで着替えさえ旅行に必要な分を充分持ってきているとはとても考えられない。
夜中に追い返すこともできず、祖父母は食事を与えてゲストルームに泊まるよう提案し案内した。思考の読めないLucieに心が乱された音色は、部屋に戻って姉のFleurに連絡を取ろうと試みる。メールを確認すると、数時間前に彼女から送信されていたことに気がついた。内容はLucieがいなくなったことと、もし連絡があったら知らせてほしいというものだ。すぐに彼は返信し、彼女が日本にいることを伝えた。
(……何やってんだよ)
家出にしては随分と遠くまで来てしまったLucie。夜に初恋相手の部屋へ訪問することを躊躇い、音色は明日の朝に説明してもらおうと決めた。宿題を終わらせ、気持ちを落ち着かせるためにヴァイオリンを弾く。彼の部屋は防音環境が整っており、夜中でも祖父母や住み込みの使用人たちへ迷惑をかけることはない。
トントントン
ノックする音が聞こえ、まさかと思いつつも音色は部屋のドアを開けた。
「……Lucie」
Lucieは音色の身体を押すと、強引に部屋へと入りドアを閉める。その時靡いた髪からはコンディショナーの香りがした。
「なんの曲弾いてたの?」
彼が手にしているヴァイオリンを見て、彼女は尋ねた。
「……『コッペリア』」
「あぁ。懐かしい。人形に恋する話ね」
「結局は恋人を選ぶ話だ」
「……」
「……黙って家を出てきたのか?」
「……Fleurは心配性だね」
「……」
楽器をケースに戻した音色はLucieの背中に右手を回し、左手で彼女の手に触れる。訊きたいことはたくさんあるが、今は離れていた時間を取り戻すようにその温もりを感じたくて、華奢な彼女の肩に顔を埋めた。
「まだ私の方が背が高いね」
「うるさい」
「……ネイロ」
「ん?」
顔を上げた彼の頬に、彼女は空いている手を添える。そして軽く微笑んでから、その唇に優しくキスをした。
音色は朝が弱い。低血圧で起きるのが苦手でも、部活の朝練のために無理やり目を覚ます。自動で開くように設定したカーテンから漏れる光を浴び、鳴り響くスマホのアラーム音を止めて身体を起こす。
ベッドにいるのは彼ひとり。さっきまで感じていた温もりが今はなく、昨日の晩のことは夢ではないかと自分を疑った。念のためメールを確認すると、Fleurとのやり取りが残されている。
「……」
音色は着替えると、Lucieに用意された部屋へと入った。しかし、そこは既にもぬけの殻だ。彼女は勝手にやってきて、置き手紙も残さず姿を消してしまった。
Fleurから送られた新着メールには、音色へ迷惑をかけたことへの謝罪と、Lucieが帰ってくると返事をしてきたこととと、彼女が結婚する予定であることが書かれていた。
その年の北海道は例年以上に暑かった。夏休みが明けて数日経っても、まだまだ気温の高い日が続いた。
午後の授業で外を走らされた音色は、放課後の部活のセクション練習中に具合が悪くなり、途中で抜け出してトイレで戻した。自分が今熱中症である自覚はあったが、全国大会前の大事な練習を学生指揮者としてこれ以上抜けたくない。この日は外部講師による合奏もある。だから廊下をフラフラの状態で歩き、練習場所まで帰ろうとする。だが、思うように進まない。彼はその場に倒れ込んでしまった。
無駄に傷つけてしまったKamariaのことは、彼女のことを話す声が聞こえる度に申し訳なく感じる。しかし、あんな事件があっても前に進む彼女の邪魔はしたくない。このまま、アメリカにいる仲間たちに任せるのがベストだと思った。そして、彼女のような才能のある者がもっと開花しやすくなる場所だったり、見つける者自体を育てる必要性があると考えた。
姫空の件で知った部活における経済的な格差をなくすため、音色は仕組みを日々模索している。楽器はもちろん練習場所も指導者も確保しないといけない。とてもひとりでは難しい。ボランティアだけでどうにかなる話でもなく、彼は仕事として成り立つ方法を探した。
雪深のことは、周りから誤解されて音色から酷い振り方をしたことになっている。元カノに対しても指導する時に容赦がないのが原因だったが、そこは上手くなってもらうためにも譲れない。音色も否定しなかったことで、雪深が本当のことを言っても間違った噂は消えなかった。
マエストロから託された吹奏楽の未来についても、音色は頭を悩ませている。もちろん現在所属する部活の運営も真剣に取り組んでおり、自分が担当する重要なソロの練習をしつつ、部員たちの技術を向上させるための練習計画を組み立てる。コンクール時期は、体力も精神力もどんどん削られていき苦しい。それでも自分が頑張らないといけない。部員たちに弱さを見せるつもりはない。
コンクールの地区大会をカレシと一緒にデート感覚で聴きにきた立葵には、いったいどういう神経をしているのかと本気で問いたくなった。間男扱いをしたLucieのことは、もっと理解ができない。両親から言われて音楽のためにしてきた恋愛が、彼にはよくわからなくなってしまった。
まだ高校三年生にもかかわらず、たくさんのものを背負っている音色。廊下に倒れた彼の意識は朦朧としていたが、誰かに声をかけられ背負われた気がした。
目を覚ました音色は、点滴をされている状況からここが病院だとわかった。
「音色君!」
「音色、大丈夫?」
彼の顔を心配そうに覗き込む雪深とスマホを弄りながら訊いてくる立葵が、ベッドの横の椅子に座っている。寝不足だったこともあり、彼が起きたのはもう部活が終了している時間だった。雪深は学校からわざわざひとりで来た。立葵は、孫が倒れたと電話で知らされ取り乱した祖母を落ち着かせている祖父の代わりだ。
「ちゃんと寝て食べないから倒れるのよ」
「音色君はみんなのために動いてるんです! 彼は悪くありません! 私が近くにいたのにこんなことになって……」
「重いなぁ」
「はい? というか、あなたは音色君とはどういったご関係で?」
「(元)カノジョ」
「は!? わ、私だって(元)カノジョですから!」
「そんな身体で?」
「わ、若さでは勝ってますから!」
「こっちには大人の魅力があんのよ!」
「音色君の好みだとは思えません!」
「はぁ!?」
「ふん!」
どちらも現在の恋人でないが、病室はなぜか修羅場のような空気になっている。
(……うるさい)
そこに、小太りの男性が入ってきた。
「廊下まで声が漏れているぞ。静かにしなさい」
現れたのは、吹奏楽部の外部講師である色摩我哉。顧問にはまだ学校の仕事があり、副顧問もほかの部員を残して抜けることが難しく彼が救急車に乗った。予定していた合奏はなくなった。
色摩は睨み合うふたりを追い出し、音色が目を覚ましたことを病院側へ伝えるように頼んだ。
「こんな所で何を争っているんだか」
「さぁ?」
「先生たちも今こっちに向かっているそうだ」
「別に来なくていいのに」
「そう言うな。洙田は背負いすぎだ。もっと大人や仲間を頼れ。フルーツ買ってきたから、これだけでも食べなさい」
「……今日の合奏は?」
「気にするな」
「……ねぇ」
「なんだ?」
「シキマが運んでくれたの?」
「……たまたま早く着いたんだ。みんなの練習を見学しようと思ったら驚いたよ」
「ふーん。……ありがとう」
「お前、人に感謝することもできるんだな」
「オレのことなんだと思ってるの?」
「女癖が悪いとか、遊んでばかりだとか、いろいろ噂になってるぞ。さっきのあれも二股が原因か?」
「そんなことしないって。あれはどっちも元カノだけど、同時期に付き合ったりはしてない」
「洙田。恋愛をするのはいいが、もっと真面目にしないと周りに誤解されるぞ」
色摩は頭に手を置いた。それに音色は心地良さを感じる。
「……じゃ、シキマがオレと付き合う?」
「…………は?」
目を丸くする講師に、音色は屈託のない笑顔を向ける。
「父さんが言ってた。恋愛の形はいろいろらしい」
「ダ、ダメだからな! そんなこと、あってはならん! じょ、冗談でもダメだ! ふざけていないで今はコンクールに集中しなさい!」
「……」
色摩から必死な形相で断られたが、彼は諦めなかった。
ソロコンテストに出場し一位を取った音色は、会場に来ていた色摩に再び付き合うように言ってみる。しかし、また断られてしまった。
何人かに勧誘されたり記念撮影を求められている間も、彼は不機嫌な顔を隠せない。
「コンクール終わったじゃん」
「ダメなものはダメだ! こっちの立場も考えろ!」
「大丈夫。オレの親も歳の差あるから」
「そういうことではなくてだな!」
「ねぇ、好きなタイプは?」
「はぁ!?」
「ねぇ、タイプは?」
「じょ、情熱的な人が好き、かな? って、何を言わせるんだ!」
「へぇー。……うん、わかった」
「え、わかった? そ、それはどういう意味で!?」
「待ってて」
「いや、こっちの話ちゃんと聞きなさい!」
音色は高校を卒業すると、音楽推薦で受かった大学へ進学するための準備をした。春からは長崎でひとり暮らしだ。祖母にバレないように立葵に頼んで耳に穴を開けてもらい、北海道の家を出るとピアスをつけて眼鏡もコンタクトに変えた。また、髪色も情熱的な赤色に染める。
そしてイメージチェンジした彼は島原大学へと入学し、母親譲りの強引さで新たな恋人をゲットするのだった。




