とある子爵家の話
虐めの描写があります。苦手な方は注意。
王立学園卒業式前日。
キース・クレイン子爵令息が出奔した。寮の自室に書き置きを一つ残して。
「私は自由になりたい」
出奔から七日後。
ブレット・クレイン子爵はキースが婚約していた伯爵家へ謝罪に行った。本来ならこの日に結婚式が行われていた。当然伯爵の怒りは収まらず、ブレットは針のむしろだった。
「まさか結婚前に逃げ出すとはね。クレイン子爵、貴方は教育を間違えたらしい」
「その通りです」
「娘の五年間が無駄になった。恥もかかされた。もちろん結婚式の費用は払ってもらうが、金や謝罪でどうこうできるとでも思っているのかね?」
「ですが、私にはそれしか手段がわからず」
何を言われてもブレットは耐え頭を下げ続けた。一時間後、ブレットは書類にサインした。この婚約で残ったのは慰謝料と無駄になった結婚式の費用だけだった。
屋敷に帰ってきたブレットの顔には連日の疲労の色が強く出ていた。
「ただいま」
「情けない顔ね」
妻のボニーは労うどころか冷たくそう言った。二人の仲は結婚当初から冷めている。
ブレットは書斎に向かうと書類や手紙に目を通しながら、今後の事を思案した。
慰謝料等は万が一の時のために貯めていた金で何とか八割は払える。残りは借金だ。クレイン家はそもそも小さな貴族で収入の中心は農業。生活を見直し、売れるものは売り、少しずつ返していくしかない。子爵はもう一人の息子ジーンに継がせる事になる。
(キースの事は諦めるしかない。ジーンに余計な苦労を背負わせる事になるな……キースは、それほどまでに深い悩みがあったのか?)
しばらくブレットが様々な事を考えていると、ノックの音が聞こえた。
「奥様が御用があると」
「入っていいぞ」
ボニーは机の上に数枚の書類の束を投げつけた。離婚に関する書類だ。
「驚かないのね」
「何となく予感がしていた。君の好きにするがいい。書類は出しておく」
「これでこんな金も名誉もない情けない子爵家からおさらばできるわ。アクセサリーとかは全部持って行っていいでしょ?さもないと色々周囲に……あら、もう評判は地に落ちていたわね」
ボニーは鼻を鳴らすとつかつかと書斎を出て行った。おそらく愛人の家へ行くのだろう。内容を確認すると、ブレットはペンにインクをつけてサインをした。不思議と悲しいとか悔しいとか、そんな気持ちはわかなかった。
こうしてブレットの二十一年間の結婚生活も終わりを告げたのだった。
新学期が始まった。
「見ろよ、あの逃走令息の弟だぜ」
「学園にいて恥ずかしくないのかしら」
「兄も兄なら弟も弟じゃないか?」
「常識のない方には近寄らない方がいいわよ。同類と間違えられたら嫌でしょう?」
ジーンが廊下を歩くだけで聞こえてくる悪口。伯爵令嬢が第三王子に見初められたのも拍車をかけ、ジーンの立場はさらに悪くなった。ついたあだ名は「逃走令息の弟」。
(今まで見向きもされなかったのに、こうも変わるとはね)
ジーンは歩きながらため息をつくしかなかった。ただ悪口よりも辛かったのは友人だと思っていた者たちが次々と離れた事だ。
「お前が悪いわけじゃないんだけどさ、親がうるさくて……だから話しかけないでほしいんだ」
どんなに辛くともジーンには次期子爵という新しい責務がある。逃げるわけにはいかない。
ジーンは昼食に食堂のサンドイッチを食べる事が多い。しかしジーンが座ると人が次々と立ち上がって去っていく。生徒がひしめく食堂内で、ジーンの周囲だけ空白ができていた。
「大丈夫なわけないよな」
「まぁね」
隣に男子生徒が座った。
一つ年下の幼馴染、ザカリー・コルボーン男爵令息だ。
コルボーン男爵は領地を持たない貴族で、会社経営に成功し、その資産を様々な慈善事業に使った功績を認められ爵位を得た。ザカリーもやっかみから色々言われる事が多い。
クレイン領の大麦の一部はコルボーンビールに卸しており、小さな領地の主要な財源の一つとなっている。
「君の父さんにお礼言っておいてくれないか。契約を切るどころか増やしてくれた事。父さんが手紙で書いていたよ」
「どうせ親父の事だ。今の内に恩を売っとこうって算段だろ」
ザカリーはアップルパイにフォークを刺す。彼は自他ともに認める甘党だ。
「それよりお前も大変だな、バカ兄貴のせいで」
「ははっ、バカ兄貴か。彼のおかげで僕はみんなの注目の的さ」
力なく笑うジーンの横顔を見て、ザカリーは顔をしかめた。ふとこちらをチラチラ見て何かを話している者たちに気がつく。彼が睨むと慌てて顔を背けた。
「ありがとう。でも睨むのはよくないよ」
「別に。目付きが悪いのは生まれつきだ」
(疲れた……ひどく疲れた)
夜、ベッドに入ったジーンは体が重く沈むような感じがした。疲れているのに目が冴えている。嘲笑が今も耳につく。言われた言葉が頭から離れない。
(キース兄さんは、何であんな事をしたんだろうか?)
ジーンから見たキースは、不真面目ではなくむしろ品行方正という言葉がよく似合う人物だった。婚約者とも仲は悪くなかった。
何が不満だったのだろう。
何から自由になりたかったのか。
(考えても仕方ないか)
ジーンは目を瞑ったが、しばらく眠りにつく事ができなかった。
春が過ぎ、夏になっても悪評は消えない。
伯爵令嬢と第三王子の恋が話題に上るたび、逃走令息の話もまた蒸し返される。
「シーラが屋敷を出たいと申しております、あとエドも」
「わかった。後で紹介状を書こう」
ブレットはハーブを摘みながら初老の執事コリーに指示する。
「これで使用人は四人か。元々九人だったからあまり変わりないがな」
背を向けているため顔は見えないが、声に力がない。背中も小さくなったように見える。苦労をされているとコリーは痛ましく思った。
「私の力不足です。申し訳ありません」
ブレットに向かって深々とコリーは頭を下げた。
辞めたいと言い出した彼らは給金がなくなる事を恐れていた。実際はクレイン家からの給金は変わっていない。しかし悪評だけが流れ、使用人たちはクレイン家が没落するのではないかという不安が拭えなかった。
「コリーが謝る事はない。それより人手が足りなくなった分、ダニーやハンナが無理をしていないか?」
「正直に申し上げますと、奥……誰かがいないおかげで、むしろ生き生きと働いております」
「ははっ。いつも妻の悪口に付き合わされていたからな。そろそろ中に入るか」
そう微笑みながらレモングラスが入った籠をコリーに渡し、ブレットは屋敷に入って行く。
(また細くなられた)
目に見えて招待状が減り、逆に借金に関する書類が増えた。
社交の場から帰ると、疲労の色が濃く顔に出るようになった。
古い友人から縁を切られたと、書斎で呟いていたのを聞いた。
(貴族というのは、残酷な世界ですね)
夏休みに入った。ジーンはいつもなら移動日数を抜かして一週間ほど帰省の申請をするのだが、今年は三週間と長くした。
ジーンが馬車を降りて最初に見たのは痩せた父の姿だった。ブレットはすぐに駆け寄り息子の手を握った。
「痩せたか」
「そうかな?」
「大変だったな」
「大丈夫だって手紙に書いただろう?」
ジーンはブレットへの手紙に学園で受けている事を一言も書かなかった。一時はノートを破られたり足を引っ掛けられたりもした。ただ梅雨が終わった頃にはそういう暴力だけは無くなった。ブレットも社交界で中傷の的とされている。
お互いにそのような話はしない。
「ジーン様は紅茶とハーブティーどちらがよろしいですか」
「父さんと同じでハーブティーがいいな。コリーは元気だったかい?」
「丈夫だけが取り柄でして。少々お待ちください」
コリーが書斎に持ってきたのはレモングラスティーだった。爽やかな香りに、ジーンは今までの疲れや胸の痛みが僅かに消えたような気がした。
ハーブティーを半分ほど飲むと、ブレットは顔の前で両手を組み彼を真っ直ぐ見た。
「帰って早々申し訳ない。だが教えなければならない事はたくさんある」
「うん……いや。はい、父上」
ジーンは背筋をしっかりと伸ばし、その姿にブレットは一つ頷いた。苦労したせいなのか、顔つきが去年より随分と大人になったとブレットは思った。
「まずはジーン。お前はキースの代わりにクレイン子爵を継ぐ事になる。私が今からしっかりと領地経営や必要な事を教える。借金はまだある。周囲の目も厳しいだろう。しかし責務を放棄するわけにはいかない」
「もちろんです」
「信頼を取り戻すには我々が努力するしかない。それと私たちはコルボーン男爵やコリーたち、領民、様々な人に支えられている。ゆめゆめ忘れるなよ」
「承知しました」
「よし。ではさっそくこの資料を見ろ」
ジーンはブレットから紙を受け取り、しっかりと頷いた。
暑い夏が終わり秋になった。周囲の嘲笑は少し減った。皆、他人の事にかまっている余裕がないのだろう。
ジーンは図書館で勉強するようになり、子爵を継ぐ事に意識を集中させた。
卒業式とパーティーの話題も聞こえるようになった。ドレス、アクセサリー、エスコート……そして逃走令息。
「彼も逃げるのかしら?」
「そうしたら面白いな。いくら賭ける?」
何を聞いても残り半年の我慢だとジーンは自分に言い聞かせた。
「俺がエスコートしてやろうか?」
「マロンタルトとチェリーパイを頼む人間にはされたくない」
「俺だって野菜サンドイッチとサラダを頼む奴は嫌だね」
互いに食べているものを揶揄した後、ジーンとザカリーは顔を見合わせて苦笑した。
今日は休日。二人は久しぶりに町に出て、カフェで昼食を食べる事にした。
ザカリーはあの後も時間が合えばジーンの隣で昼食を食べる。彼が睨みをきかせるおかげで、昼食時だけは嘲笑の声がしない。
「そもそも卒業パーティーには出ないしね。式が終わったら真っ直ぐ屋敷に帰るつもりだよ」
「パーティーなんてつまんないしな」
食事を終えると二人で町をふらふらとあてもなく歩く。
「たまには文具店でも見ようかな」
「あれのどこが面白いんだ?」
「墨一つだって作っている会社によって違う色合いがあって」
「おい!こっち来い!」
突然男の大声が聞こえてきた。見ると、客らしき男が店員らしき男を食堂の外に引っ張り出し怒鳴っている。
「スープが服にかかったじゃねぇか!」
「すみません」
「何だよその態度は!ちゃんと頭下げろよ!」
長身の店員は頭を下げる事はなくぼそりと謝罪の言葉を呟くだけ。唇を尖らせいかにも不満げに見える。
(あの人見た事あるような)
自分と同じ暗い赤毛。細い目。記憶よりも痩せて、顔には無精髭が生え、服は継ぎ接ぎや汚れが目立つ。ジーンは頭の中で記憶と目の前の人物を比べた。
「キース兄さんだ」
「はっ?」
困惑するザカリーをよそに、ジーンが店員に近づくとすぐに振り向いた。顔を見るや否やジーンに駆け寄り肩を両手で掴む。
「じ、ジーンか!久しぶりだな。迎えに来てくれたのか?父さんはもう怒ってないんだな?良かった、もう働くのはこりごりだったんだ!」
客にはジーンが服代を渡し、事情を店主に説明した。ジーンとザカリー、そしてキースは食堂奥の物置を借りて話す事になった。
ジーンは困惑した顔でキースを見、ザカリーはキースを睨み、キースは何故か嬉しそうである。
「お前が来たと言う事は、ほとぼりが冷めたのだろう?」
空の木箱を椅子代わりにして座るなりキースは腕と脚を組み、笑顔でそう言った。ジーンはザカリーと顔を見合わせた後戸惑いつつも質問した。
「今までどうしていたんだい?」
「それが大変だったんだよ」
キースは王都を出た後小さな町に行き仕事をしていた。しかしあのような態度で続くはずもなく、職を転々とし結局は王都へまた流れて来たのだ。
「お前が来たという事は父さんは私を捜してくれているのか?」
「兄さんを見つけたのは偶然だ」
「じゃあすぐに父さんに連絡してくれ」
「ねぇ兄さん。兄さんがどれだけの人に迷惑をかけたかわかっているかい?」
ジーンはまだ戸惑いながらも真剣な目でキースを見据える。キースは考えるような素振りを見せたが、表情は明らかに理解をしていなかった。
「父さん、婚約者だったサマーズ伯爵令嬢、伯爵夫妻、たくさんいるじゃないか」
「ははっ、それくらいだろ?大した事……うぐっ!」
「さっきから何笑ってんだよ!」
ザカリーはキースの胸ぐらをつかんだ。その顔は鬼気迫り、キースは恐怖でひゅうっと喉を鳴らした。
「やめるんだ!」
「お前、ジーンがどれほど辛い目にあってると思ってる?毎日毎日お前のやった事で嗤われ、無視され、怪我までさせられそうになったんだ。お前がふざけた事やったおかげでな!!」
「ザカリー!」
ジーンに名を呼ばれザカリーは渋々手を離した。キースは咳をしながら二人を睨みつける。
「げほっ!私は……私は、げほっ!ただ自由になり、たかったんだ」
「自由って何だい?」
「だから自由が欲しかったんだ!長男だからって家を継がなければならない。決められた女と結婚しなければならない。常に真面目に礼儀正しく!そんなつまらない人生から逃げたかったんだ!」
「……そんな理由で?」
「でもまさかこんな大変だとは思わなかったよ。金も無いし、こんな事なら不自由でも子爵になったほうがマシさ」
「……」
「そろそろ帰ろうと思っていたところさ。だから父さんに話をしてくれよ」
「わかったよ」
ジーンはそう言ってうつむいた。
それを見てキースは、これでようやく屋敷に帰れると思った。
ジーンは顔を上げ、キースを見据えた。
「キースさん。貴方に父親はいない。弟もいない。貴方はクレイン家とは一切関係ない人なんだ。半年前に貴方は除籍されている」
ジーンは怒りと失望の目をしていた。キースは体が固まった。
「いやだから反省しているんだ。父さんだって話せばわかってくれるだろ?」
「クレイン子爵と何を話す必要があるんだい?」
ジーンの低い声色からは兄への情が消えていた。本気だと気づいたキースは慌てる。
「じゃあ私以外誰が子爵になるんだ!」
「僕がいる。それに貴方には関係ない事だよ」
「少しやり方を間違っただけじゃないか!悪かった、反省してるんだ!なぁジーン、父さんに取り次いでくれ!話せば私の苦悩を理……」
伸びた手を振り払い、ジーンはゆっくり立ち上がる。そして涙目になっているキースを見下ろした。
「良かったじゃないか」
「へ?」
「貴方は家族や周囲の人を傷つけて、全てを捨ててまで自由になりたかった。願いが叶ったんだ」
「ただ私は少し自由を味わいたくて」
「ならこれから一生をかけて味わえるよ。おめでとうキースさん」
ジーンとザカリーは彼を残して食堂を後にした。背後からキースが号泣するのが聞こえたが、振り返る事はなかった。
ジーンはキースに会った事をブレットには伝えなかった。
秋が終わり、冬が来て、年が変わった。
少し周囲の態度は軟化した。ジーンとブレットに対し、今までの冷たい態度や仕打ちを謝罪する者も現れた。
表向きは受け入れた。
ただ心から受け入れる気には、二人とも到底なれなかった。
卒業式の日。
式が終わると生徒たちは制服から礼服やドレスに着替え、夕方のパーティーに向けて準備を始める。
ジーンは手荷物をまとめて馬車に向かった。パーティーの欠席連絡は学園に出し、寮内の荷物は先日送り終わり、ザカリーには昨日挨拶をした。
「卒業おめでとう」
「ありがとう父さん」
「苦労したな」
「お互いね」
馬車に乗った後、ブレットから祝いと労いの言葉をかけられた。
本当に長く辛い一年だった。
「少し良い事があった。第三王子との結婚の日取りが決まったからと、残りの式の費用をほとんど帳消しにしてくれたよ」
「伯爵家は裕福だからね」
「礼服を着なくてよかったのか。やはり、金の事を」
「パーティーは好きじゃないから」
ジーンは馬車の外を見た。雪が溶け道が少しぬかるみ、泥が勢いよく跳ねている。道端に小さな花がいくつか咲いているのが見えた。
「一昨日まではあんなに積もっていたのに」
「今年は寒い日が長かったから心配したが、これから暖かくなるぞ」
「暖かく……」
冬の終わりはもうすぐだ。




