【助けて】歌姫として夢をつかんだ私、悪役令嬢からネチネチと嫌がらせをされています
本作の感想欄では、ネタバレを特に制限しておりません。
物語の内容にふれる場合もございますので、未読の方はどうぞお気をつけください。
▼主な登場人物
レティシア:この物語の主役。ただしこの物語は……。
アルアリエル:嫌われ者の悪役令嬢。
エルマ:レティシアの侍女。
カイウス:音楽好きの公爵令息。
最後の一音が、サロンに響く鍵盤の音とともに消えた。
ここは国じゅうの貴族が集う王都中央大宮殿。
公爵家による音楽会。
――やった。歌いきれた。
胸の奥で押し殺していた不安が、安堵に変わる。
のどが震えそうになるのをどうにか堪えた。
笑い泣きしてしまいそうになった。
招待された貴族たちの静かな感嘆。
控えめな拍手が、熱を帯びながら次第に広がっていく。
「なんという澄んだ声でしょう……天使が舞い降りたようだわ」
「レティシア伯爵令嬢が、これほどの歌声を隠していたとは」
――夢みたい。本当に、夢みたい。
「ありがとう、レティシア。あなたのおかげで、今日は素敵な音楽会になりましたわ」
公爵夫人が歩み寄り、私の手をとった。
「もったいないお言葉です。このような機会をいただけて、光栄です」
これまで目立たずにひっそりと過ごしてきた、伯爵家の私。
やっと願いがかなえられた。
このために、朝も夜も必死に練習してきたのだ。
「素晴らしい声だった、レティシア嬢」
――ああ、カイウス様が声をかけてくださるなんて!
思わず深くお辞儀をした拍子に、ドレスの裾を踏みかけてよろめく。
「あっ……!」
すかさず差し伸べられた彼の手に支えられ、頬が熱くなる。
「大丈夫か?」緩やかに苦笑する彼。
「あ、ありがとうございますっ! ご、ごしあわせ、じゃなくて、し、幸せです!」
噛んだ言葉を必死で言い直しながら、ますます赤面した。
「う、うん? それはどうも、どういたしまして……で、いいのだろうか」
公爵令息カイウス・ド・ロシュブリューヌ。
この音楽会の主催者だ。王都でも一、二を争う芸術家肌。
すっきりした顔立ち。背筋を伸ばした整った立ち姿。
――落ちつけ私。変な顔、なってないよね?
彼の視線を独占している。笑ってくださっている。さらりとなめらかな栗色の髪と、涼やかな青い瞳を見つめるだけで、私の身体は熱に浮かされた。
「不思議だな。君の声を聴いていると、どこか懐かしい旋律が胸に浮かぶよ」
彼は何かを懐かしむように、窓の外の景色を熱っぽく見つめていた。
それから私の瞳をのぞき込んで微笑んだ。
「また聴かせてほしい。次の会でも、ぜひ」
甘やかな会話に、頬が熱くなる。
――ありがとう。あなたのおかげよ。
会場の窓辺、侍女エルマが、目だけでこちらを追っていた。感極まって涙ぐんだ様子の彼女に、私は満ち足りた笑みを返した。
場はふたたび優雅な舞踏会へと戻りはじめる。
――もしかしたらカイウス様が、私と踊りたいと、声をかけてくれるかも。
幸福感で息が詰まりそうになった。あの日の私に言ってあげたい。夢は、ちゃんと叶うのだと……。
「ごきげんよう、レティシア様」
そこに、氷を流し込むような冷たい声が割り込んだ。
場の空気が、張りつめた。
人々の視線が一斉に扉のほうへ向けられる。
その先に、彼女は立っていた。
貴族の娘に似つかわしくない、肩口で切りそろえたショートボブのプラチナホワイト。首筋や鎖骨、豊満な胸元をばっくりとあらわにしたオフショルダーのブラックドレス。
パステルカラーのドレスがあふれるこの場所で、夜の星空をそのまま写し取ったかのごとく、豪奢な宝石をちりばめたスカートがひらりと揺れ、濡れた光沢を放つ。
「アルアリエル様だわ」「まあ、カイウス様がいらっしゃると聞いて、駆けつけたのね」「見なさい、あの扇情的な服。つつしみというものを知らないのかしら」「先日も、有望な若手彫刻家を『つまらない』の一言でパトロンを失わせ、再起不能にしたそうですわよ……」
人々の表情は語っていた。
――なぜ、こんな女がここにいるのか。
この音楽会に招待されるなど考えられないのに。
アルアリエル・ド・ラ・ルミエール公爵令嬢。
十八歳の適齢期真っ盛りでありながら、過去に大醜聞を起こし、社交界で爪弾きにされる嫌われ者。
それでも、公爵家という絶対的な立場ゆえ、誰も面と向かって彼女を非難できない。
結果、影で『悪役令嬢』とささやかれる女だ。
整った顔などという言葉は彼女には生ぬるい。白い肌は陶磁器を思わせる硬質な光沢を放ち、傷一つない表面が冷ややかに輝いていた。鼻筋から額、頬骨にかけての滑らかなラインは、人間というより彫像のような完璧さだった。それが魔の者を思わせる酷薄な笑みを浮かべていた。
「ご立派な歌声でしたこと。でも、実に退屈な歌でしたわね。どこかで聴いたことがあるような、偽りのない純愛をうたう、ありふれた歌」
――え……?
自分の耳を疑った。
「申し訳ありません、アルアリエル様。何か、気にさわってしまったのでしょうか」
「とぼけるの? ああ、お見苦しい。必死に媚を売って。そこまでして男の注目を浴びたいものかしら」
「そ、そんなことは! 私は、ただ純粋に歌を……」
「笑わせないで。カイウス様に見つめられたと舞い上がっているくせに」
――何を言っているの、この人。
離れようとして、靴ずれがずきりとうずいた。
息が詰まるような沈黙が広がった。
周囲の貴族たちも、あまりに直接的な物言いに言葉を失っている。
「アルアリエル嬢」
カイウスの声が空気をやわらかく震わせた。
「あなたを招いた覚えはない。お引き取りを」
アルアリエルは一瞬だけ、何かを求めるような熱を帯びた視線をカイウスへ向けた。
だが彼の瞳はただ平坦に彼女を映すだけ。
ふ、と彼女は首を振り、唇の端を吊り上げる。
「その歌も、カイウス様も、あなたにはふさわしくないわ」
昏い光を宿した瞳で私を射抜いた。
「見ていなさい、レティシア・ベルナール。あなたの物語を台無しにしてあげる。あなたにお似合いの、みじめでみっともない結末に落としてあげるから」
それだけを一方的に告げると彼女は背を向け、人垣の中を優雅に去っていった。残されたのは、彼女が放った底意地の悪い言葉の数々と、恐怖に立ち尽くす私だけ。
この日を境に、私の人生は一変した。
かの悪役令嬢による、執拗な嫌がらせが始まったのである。
❖――♔――❖
まるで呪いのような日々。
私の行く先々に、アルアリエルが現れる。
例えば、友人のご紹介で訪れた、王都中心街の香水店。女王陛下も訪れるとウワサされるその店で、私はちょっとした自分へのごほうびにと、音楽会での成功を祝って一本の香油を選んだ。
「まあ、レティシア様」
だが手に取った小瓶の向こうから、彼女は音もなく現れた。
私の選んだ瓶を指でつまみ上げ、嗅ぎ取りもせずに嗤った。
「奇遇ですわね。これ、私が一昨日つけていたものと、まったく同じですのよ。ここで買わせていただきました」
店の空気が冷えるのがわかった。店主は一歩下がり、応対していた女店員たちは目を伏せた。アルアリエルは両目を大きく見開いて私に寄り付いてくる。『私のサル真似をしたのね』と言いたげだ。
「ふふふ……。かわいいところがあるのですね。店主に聞いたのでしょう? ねえ、そうなのでしょう?」
――なぜ、言ってくださらなかったの。
こんな面倒ごとの火種になるような香水など。
だが、店主はとんと心当たりがないといった風情で視線をさまよわせた。アルアリエルにじっとりと見すえられ、びくりと背筋を伸ばして「え、え、ええ。私はお止めしたのですが」とのたまった。
――はめられた。
「……申し訳ありません」
私はそう答えるのが精一杯。出入口を見つめていたアルアリエルは私に視線を戻し、ニヤア――と、意地悪く笑ってみせた。
「お気になさらないで。香りなんて誰がつけても勝手ですもの。でもね。同じ香りでも、まとう器でずいぶん印象が違うのよ。おわかりになるかしら? こんな滑稽なお話、このあとのお茶会でみなに教えてあげなくてはね?」
あまりにもあからさまな当てこすりだが、止められる者はいなかった。
明くる日は、出会い頭に私の髪にさした飾り羽根をつまんできた。目を細め、「まあ、今どきこんなフォルム。田舎の寄宿学校ではまだ流行っているのかしら」などと言ってきた。
さらに私のドレスのディープブルーの生地を見て、「喪の礼装に見紛うような色合いね。どなたかを弔うご予定でも?」とささやいた。
ベルナール家とつきあいのある令嬢たちまでつれてきて、彼女たちに「みなさまもそう思うでしょう?」と同意を求めた。友人たちは気まずそうに苦笑いを浮かべた。
アルアリエルが離れたあと、友人たちは冷や汗を流しながら謝ってきた。
「かわいそうに、レティ。あんな人にからまれるなんて。何がありましたの?」
「わからないの。私が、音楽会で歌ったせいなのかしら……」
「すてきでしたものね。でも、そんなことで公爵令嬢たるものが、嫉妬なさるなんて」
別の日の昼食会では、台帳にサインをした私のそばに立った。
「レティシア様の筆跡、お可愛いですわね。丸くて、幼くて、つたなくて」
しかも会場ではどういうわけか私の隣の席についた。この国の頂点である公爵家の令嬢と、そこそこの序列にすぎない伯爵家の令嬢。並んで座るなど悪目立ちしかしない。
周囲から奇異の視線。目の前のスープが冷たく感じられた。アルアリエルはニヤニヤと笑ったまま杯を傾けて、明後日の方向を見ながら「退屈な席ね」とぼやいた。思わず掌を振り上げそうになった。だがその先にあるのは公爵令嬢の頬。唇をきつく結び、手を握りしめるしかなかった。
――私は伯爵令嬢。
――ふさわしいふるまいを、忘れてはいけない。
――けど……!
きわめつけは夕方だ。ひとり、庭園のベンチに腰を下ろしていた私は、スカートのすそを手のひらでぎゅっと握りしめていた。空の色は穏やかだったが、心には影がかかっていた。そこに足音が飛び込んできた。黒外套を揺らしながら、一人の騎士が足早に通路を駆けてきた。
「きゃっ……!」
不意の水音。騎士が厚底のブーツで水たまりを蹴り、泥水が勢いよく跳ね、盛大に私にかかった。桶をひっくりかえしたようにずぶ濡れになる。「悪いな、急いでるんでね!」と、騎士は振り返ることすらなく、黒衣をたなびかせながら門の向こうに姿を消してしまった。
――なんてこと。
私は濡れたスカートのすそを見つめた。泥のしみたドレスからはポタポタと茶色い水滴が落ちる。侍女のエルマがあわてて駆け寄ってくる。
「まあまあ」
「お気の毒に、ふふふ」
くすくす、
くすくす、
くすくすくすくす。
気づけば、通りすがりの貴婦人たちが扇越しに笑っていた。気の毒そうに、でもどこか、楽しんでいるような目だった。
視線を感じて振り返った。バラのアーチの向こうに一際目立つプラチナホワイトが揺れていた。黒のパラソルを手にしたアルアリエルが遠巻きに立ち、微笑みながらこちらをながめていた。
彼女は、気づかれたことなどどうでもいいとでも言いたげに、ゆっくりと踵を返した。
❖――♔――❖
――なんで。ただカイウス様に、声をかけていただいただけよ。
帰りの馬車で、私は小さく息を吐いた。
――私が何をやったというの。頑張って練習してきたのに。
ルミエール家やロシュブリューヌ家のような最上位の貴族たちは、女王陛下とともに、王都中央大宮殿の中に居を構えている。
一方、私のような中流寄りの家柄は、王都の屋敷から馬車で宮殿に通うのが常だ。
窓の外には、百万人が暮らす大都市のきらびやかな街並みが続いている。夕焼けをまとった風が頬をなで、ほんの少しだけ気が楽になる。
二十年前に女王陛下の絶対王政が始まって以来、この国の上級貴族の多くは王都に集まり、日々、華やかな舞踏会やサロンで縁を結んでいる。そして、高貴なお方との縁談が家の未来を決める。私たち令嬢の世界とはそういうものだ。
アルアリエルは言っていた。
「カイウス様はあなたにはふさわしくない」と。
彼女は嫌われ者で、煙たがられている。けれど公爵令嬢であることに変わりはない。ロシュブリューヌ家の公爵令息、カイウスを狙っていたとしても、おかしなことではない。
私は、目をつけられてしまったのだ。
侍女エルマが、何も言わずに毛布を差し出してくれた。そっと私の肩に掛けたその手は包帯にくるまれ、指先までひどく冷えていた。
「ありがとう、エルマ」
彼女はうなずいた。仕草の一つ一つに、私を案じてくれているのが伝わってくる。
目が合うたび、何か言いたそうに口元を動かして、けれど声にはならない。包帯を巻かれた首がかすかに震えるだけだ。彼女はもう何も語れない。言葉を求めるなどできない。
ただ、黙って寄り添ってくれるその存在が、心からありがたかった。
「ねえ、私、間違っていたのかしら。カイウス様に歌声を褒められて、夢を見たのが、そんなにいけないことだったの……?」
返事はない。けれど、エルマはじっと私の顔を見上げて、ゆるやかにあいづちを打った。両手がかすかに震えていた。私は泥だらけのスカートに手を伸ばした。この子がいてくれるだけで私は救われる。
❖――♔――❖
私たちの邸宅は石造りの三階建て。外観は整っているが威容というほどでもない。
ベルナール家は、存在感のない家だ。かつて先祖が王都の医療に貢献した功績で伯爵位を得たというが、当代のオルドワーヌ・ベルナールは、決まった役職も持たず、大宮殿を幽霊みたいに歩き回るだけ。たまに誰かのサロンに呼ばれれば、笑顔でうなずくだけの脇役に徹している。
親も親なら娘も娘。
『レティシアは、特に秀でたところのない、ぱっとしない伯爵令嬢』――
それが大宮殿での評価だった。
私はいつも、きらきらした貴族たちのあなどるような視線を感じていた。
新しいドレスに着替え、広間で父とともに食卓に着いた。銀の燭台が二つ、淡く光を揺らめかせ、白いテーブルクロスの上に皿が整然と並べられた。
「くれぐれも、騒ぎを起こすなよ」
開口一番、それだった。
「分をわきまえた対応を心がけろ」
「承知しておりますわ」
言葉ではそう返しながらも、胸の内にはイラ立ちが渦巻く。いつも、いつも、そればかり。
先祖代々受け継ぐ魔法の宝物を、父は普段から隠し持ち、見せつけることもない。魔道具は貴族の権威の象徴であるはずなのに。
ベルナールの家宝は、魔法の羽根筆だ。以前、花ビンに筆の先を向けたとき、それがひとりでに踊り出すのを見た。あまりの珍しさに思わず声をあげてしまったものだ。こんなサロン映えする面白い魔法は大宮殿でもそう見かけない。もっと注目を集められそうなものだ。
が、父はそれを避けている。本物の宝物は隠し、代わりに地味で無難な魔法杖を、代々の家宝だと言い張っている。
すべてはベルナール家を守るため。私の使命はより高貴な方と結婚して結ばれて、より良い血脈をつなぐこと。血を回路とする魔法をより強くできるかどうかは、貴族としてのポジションに関わるのだから。
「だが、今回の件、お前の歌声がサロンで輝いているためだ、レティシア。頑張りは見ている」
父は言った。
「食べなさい。冷めてしまう。私に考えがある。あとで、一筆書いてあげよう。うまくやればロシュブリューヌの令息に近づく好機となる」
給仕が静かに皿を置く。前菜は、季節の根菜と香草を練り込んだパテ。主菜は骨付き仔羊のロースト。皿の端には、甘く煮たカブと、バターで軽く炒めたほうれん草。パンのカゴには、焼きたての小麦パンと、ライ麦の黒パン。デザートは砂糖漬けのオレンジピール。
私は仔羊の柔らかな肉をナイフで切り分け、肉汁を吸ったカブとともに口に運んだ。舌の上で甘みと香りがほどける。
ふと、足元に視線を落とした。
白い毛並みの小犬が、私の膝を前足でちょん、と叩いて見上げている。くりくりした黒い瞳が「ちょうだい」と言っていた。教わった通りの可愛らしいふるまい。
そっと仔羊肉を切り落とし、皿の端に置いた。
給仕が無言で取り分け、小皿に移して犬の前に差し出す。犬はしっぽをぶんぶん振り、嬉しそうに肉を咥える。
その頭を、私は指先で優しく撫でた。
――いい子。
温かくやわらかな毛の感触が、胸の奥にたまったストレスを、ほんの少し和らげてくれた。
「ほかに頼みたいことがあれば、何でも言いなさい。お前には期待しているのだから」
「……お父様のおおせの通りにいたしますわ」
燭台の火が、小さく揺れた。
❖――♔――❖
「つまり、彼女と話がしたいと?」
カイウス・ド・ロシュブリューヌは理知的なまなざしを向けてきた。父の手紙を手に、私は大宮殿内にあるロシュブリューヌ家の居住区画を訪れていた。
私はうなずく。「一度だけでいいのです。私は、なぜあのような仕打ちを受けるのか、ただ、それを知りたいだけで」
緊張で声が震える。身に余る願いだとわかっていた。公爵家と伯爵家。あまりにも立場が違いすぎる。
「お取り次ぎをお願いしたいなんて、分不相応だとは承知しております。ただ、あまりにも、あまりにもひどくて」
彼はしばらく黙し、カップの中で銀のスプーンをゆっくりとかき回した。
「いいさ。声をかけるだけなら簡単だ」
「えっ?」
「あいつは、うちの図書館によく来るからな。資料が必要らしい」
図書館。王都中央大宮殿に住み込む貴族たちは、一方で王都にも大きな屋敷をいくつも持っているのが普通だ。なかでも大宮殿のすぐそばにそびえるロシュブリューヌ家別邸は、国内有数の蔵書を抱える大図書館として知られる。
「アルアリエル様が、ここの図書館に?」
「ああ。週に一、二度は来ている。勝手知ったる顔でずかずかと」
語尾がほんのわずかに硬い。彼にしては珍しく、言葉の裏側から嫌悪がにじむようだった。
「ご迷惑なのでは」
「来るなと言っても聞かないんだ、これが」
苦々しげに言ったカイウスの言葉に、私はますます不安になった。
「なぜ、なぜあのような方が」
「アルアリエルが寝物語朗読係だからだ。もう二年近く、その役目を務めている」
「な……?」
私の心に、さざ波が走った。
――あの女が……どうして。
ゆらめく思考をおさえこみながら、私は言った。
「次に、アルアリエル様がいらっしゃるのは」
「わからない。よければ、これからしばらく、時間があるときにここに来るといい」
カイウスは紙片にいくつか時間帯を書き込み、私に差し出した。
「私がいる時なら、いつでも来て構わない。アルアリエルがいたら一緒に声をかけよう。ただし――」
「ただし?」
「気をつけろ。あの女に言葉で挑むのは、針の上で舞を踊るようなものだ」
警告のようでもあり、
どこか哀れみのようでもあった。
❖――♔――❖
……いつでも来て構わない。
あの方にそう言っていただくなど、本来なら願ったりかなったりのはずだった。いつでも会える。声を交わせる。見ていただける。それなのに、胸の奥に抗いがたい重みが沈んだ。
寝物語朗読係。
王都に生きる者なら誰もが、それこそ侍女ですら知っている、もっとも栄誉ある絶望の役職。
宮廷は儀礼の連続だ。起床から就寝まで、着付け一つ、祈り一つにまで参列順位が定められ、より内側の円に位置する者ほど高位と見なされる。
その最深部が『就寝の儀』。
夜、女王が寝室へ入られる瞬間だ。
入室を許されるのはわずか数名。
公爵、侯爵といった地位に関係なく、女王の真のお気に入りが集められる時間。
王室最高位の侍女長や女官長。
寝室の明かりを手にする燭台役。
気品・礼節・機知・信頼のすべてを備えた宮廷の頂点だ。
誰もが憧れる。女王の枕元ほど、権勢の真芯に近い場所は他にない。
その輪の中心で語り部を務めるのが、寝物語朗読係。名が示す通り、毎晩、女王に寝物語を献上する最高の栄誉職だ。常設の役職ではなく、女王が気まぐれに指名した女官に任ぜられる。
しかし、駄作を語り、飽きっぽい女王を退屈させたが最後、夜明けとともに大宮殿から放り捨てられ、二度と戻ることはない。ゆえにこの役職は『黄金の首切り台』とも呼ばれる。どんな才媛でも三ヶ月持てばよいほうだと言われる。
アルアリエルは二年も、留まっている。
女王好みの寝物語を語り続けている。
陛下は、血と鉄とで絶対王政を築き上げた女傑。
かようなお方が、いかなる物語を好まれるか。
それはこの王都において、
誰もが知りながら口にしない、
公然の秘密。
『愚か者が破滅する物語』。
見えすいたウソ。
醜い欲望。
浅ましい工作。
それらが、ゆっくりと暴かれ、
転落し、
ざまぁみろと笑われる者の姿。
涙も後悔も命乞いも何一つ届かぬ末路。
それが、あの方の愉しみなのだと。
であれば語り部は何よりもそれを追い求める。アルアリエルとて無から物語をつむげるわけではない。だから彼女はロシュブリューヌ家の図書館へと通っているのだ。
書庫をあさる。
取材する。
素材を欲しがる。
より、生々しく。
より、無様に。
より、面白可笑しい物語を。
……ならば。
ならば、ここ最近の、私へのあの異様なまでの執拗さは――?
この数日、いつでも、どこでも、彼女は私に接触してきた。ただ意地悪をするなどという単純な話であるものか? 命がけの役目を抱える立場でありながら?
ぞわり、と、背筋が冷える。
いや、まさか。
まさか。
気づかれるはずなどない。
私はただ歌っただけ。夢を見ただけ。ただ、それだけ――でも。でも――アルアリエルは、あの女は――
☩――― ❖ 令息の見解 ❖ ―――☩
――レティシア・ベルナールは『何か』をしている。
カイウスはそう考えていた。だから彼は、ロシュブリューヌ家別邸に足を運んだ。図書館の扉を押し開ける。書架の陰には、予想通り、悪役令嬢の姿があった。
「また勝手に来てるな、アルアリエル」
「勝手? あなたが断りきれないだけでしょう?」
アルアリエルは本のページをめくりながら、振り向きもせずに返した。しゃくに障る。彼女とその従者はいくつかのできごとを経て、この図書館にいつでも出入りできる『既成事実』を作ってきた。自然、声色も重くなる。
「ここはロシュブリューヌの施設だぞ。まあ、いい。用件は別だ」
「私はないんだけれど、用件」
「お前、貸主への義理を果たそうとかの良識はないのか?」
「図書館はあなたのものではないでしょう、公爵令息のカイウス様?」
――落ちつけ。こいつに口論を挑むなど愚かだ。
カイウスは近くの椅子へと乱暴に腰かけ、正面から切り込んだ。
「レティシア嬢についてだ」
さすがにアルアリエルは顔を上げる。青を帯びた複雑な色合いの瞳が、薄く細められた。
「知っての通り、俺は定期的に音楽会を開いてる」
「そうなの? ごめんなさいね、興味がなくて」
「……レティシアは常連になった。エルマという侍女をともなって、だ」
カイウスは淡々と続けた。
「もう半年ほど前のことだ。みながホールで四重奏に耳を傾けている頃、控室の廊下を通りかかったら――扉の向こうから歌声が聞こえたんだ。心臓が跳ねるような見事な声だった。息の置き方が自然で、旋律があでやかに色づく。頭がとけそうなほどまっすぐな声」
「あなたが言うとは、相当ね」
「しばらくして、侍女エルマの声だと分かった。ホールでレティシアと話をしている姿を耳にしたんだ」
「声はかけたの?」
「かけるわけないだろ。レティシア嬢にも失礼だ」
「……はぁ。まったく、今日もつまらない男」
「うるさいな」カイウスは首をふる。「話を戻すぞ。それから何度も、俺は音楽会のたびに控室に足を運んだ。耳はそのたび、持っていかれた」
「扉、開けた?」
「開けれるわけないだろ」
「本当につまらない男……」
「黙れ悪役令嬢。エルマの声は、歌というものの本質をとらえていた。一人きりで歌っていたと思う。壁の向こう、ホールの音楽会に耳を澄ませながら、レティシアたち貴族の集まりにあこがれながら、分をわきまえて、控室でこっそりとだ」
「ふうん」
手元の本のページをめくりながら、アルアリエルは片頬で笑った。
戸惑いの気配をまとわぬ、研がれた微笑である。
「好きなの?」
不意の一言に、カイウスはわずかに目を伏せた。頬に熱がさす。
「あらら。本当に?」驚き半分、あきれ半分といった声色。
「答える必要はない」
「わかりやすい答えをありがとう。それで? 惚気話を聞かせたいのではないでしょう?」
カイウスは短く息を吐く。
「先日の音楽会だ。他のサロンとの兼ね合いも合って、今回は少し間があいた。ひと月ぶりくらいの集まりだった。お前が無遠慮にも押し入ってきた日のこと。レティシア嬢が、唐突に、あまりにも上手に歌ってみせた。とても上達で説明できる幅じゃない。発声の位置、母音の抜き方、フレーズ終端の息の散らし方。何もかも別物だった。正確に言えば――エルマの歌声とそっくりだった」
アルアリエルの指が、開いた本の小口で止まる。
「見てくれ。《写し取りの鏡》。以前の音楽会、レティシアを記録したものなのだが」
言いながら、カイウスはポーチから小さな鏡を取り出し、アルアリエルに見せる。写したものを取り込める、安価で量産型の魔法鏡。たどたどしく歌うレティシアの姿が写し出されている。
「素人だ。よく頑張っているとは思う。貴族の遊興としては問題ない。でもエルマは違う。本物なんだ」
「悪いけど、歌はよくわからないわ」アルアリエルはやれやれと手を払う。「ま、あなたがそう言うなら、そうなのかもね」
「本番後、レティシアと言葉を交わした。だが、俺の目は窓辺のエルマにいってしまった。彼女はこのところ全く声を出さないらしい。お前が立ち去ったあと、レティシアに聞いてみたら『病気でのどを痛めた』ということだったが……俺は、レティシアが何らかの魔法によって、エルマから声を奪ったと疑っている。貴族が平民から大切なものを奪うなど、この王都ではさして珍しくもない」
カイウスは目を細め、声を低くした。
「アルアリエル。頼む。他人から声を取りあげる悪魔的な魔法について、心当たりがあれば教えて欲しい。お前はかつて聖女として各地を巡礼しながら、王族との大醜聞によって悪役令嬢に失墜し、今は寝物語朗読係として逸話や風聞を語る女だ。知ってるんじゃないのか? エルマを助ける方法を」
「エルマを助けたいと?」
「無論だ。お前はそう思わないのか?」
図書館に、静寂が落ちる。
ちょうど、そのときだ。
一瞬、空気が凍った。
書架の影がスルリと形を変える。
いつからそこにいたのか。若い騎士が影から歩み出ていた。
書架を回り込む足音も、衣擦れすらもない。
ただ漆黒の外套が、古紙の匂いの中でわずかに揺れる。
「お前」
カイウスが身じろぎするより早く、黒外套の騎士はアルアリエルの傍らに立ち、わずかに身を屈めた。
吐息すら音にせぬささやきが一言だけ、唇から彼女の耳へ滑り込む。
そっと、何かを手渡す。
アルアリエルの指がぴたりと止まる。
まぶたがゆるく開き、唇がわずかに「そう」と動く。
ゆっくりと形の整った冷笑が浮かぶ。
「他人の声を奪う、悪魔的な魔法、ね」
彼女は本をぱたんと閉じ、カイウスへ告げた。
「甘ったれのお坊ちゃんはこれだから。ここは王都中央大宮殿。女王陛下の――あの悪魔のお膝元でうごめくクズどもの一人が、果たしてそんなヌルい魔法を使うものかしら?」
☩――― ❖ 歌姫の物語 ❖ ―――☩
……レティシア嬢。
……歌ってほしい。
……きみの声を、もう一度。
突然届いた手紙。
直筆で書いてあった言葉。
私の心は――舞い上がった。
招かれたのは、カイウスが待つロシュブリューヌ家別邸。二階奥にある小さな音楽室。
扉を開けた瞬間、かすかに甘い香木の匂いと、窓から差し込む柔らかな夕陽が私を包む。
外の庭園では噴水が低くささやき、鳥の声が遠くに溶けていく。
侍女たちの姿は見当たらない。
——本当に、二人きりなんだ。
「よく来てくれた。伴奏は私がやろう。ぜひ、君の歌を」
低く、けれど迷いのないカイウスの声。何度も音楽会で歌ったけれど、こんなに近くで真剣に見つめられたことは一度もない。このお顔を、いつも、いつまでも、見つめてきた。
世界が違うのだと諦めていた。
ぱっとしない伯爵家の私。
彼は決して私を見てくださらない。
耳を傾けながら、目に入っていない。
痛いほどわかってしまう。
想いは押し潰すしかなかった。
数週間前、魔法使いに声をかけられるまでは。
——あの子のことが、嫌いなわけではなかった。
むしろ、初めて一緒に音楽会へ足を運んだときの、期待に満ちた笑顔を、今でも覚えている。
だからこそ、魔法使いからの提案を受けたとき、私の胸はざらりときしんだ。
……あいつから奪うのだ。
……サロンの主役になれるぞ。
おぞましい提案だった。
私は確かに、首を横に振ろうとしたのだ。
——でも、彼が欲しかった。
一度でいい、彼の瞳に私を映したかった。
この方法を使えば、彼に手が届くかもしれない。
決して開かない扉が、開くかもしれない。
そう思ってしまった。
欲しかった。
チャンスが欲しかったの。
頑張っても無理だったなら、
あきらめられるから。
魔法使いは、私を美しく歌えるようにしてくれた。澄みきった高音も、胸に響く低音も、堂々と操れる。失敗することのないよう、朝も夜も必死に練習した。
カイウスは鍵盤楽器にふれながら、ただ私を見ている。視線が熱くて全身が痛い。私はようやくここに立てたのだ。この瞬間が永遠に続けばと心の底から願った。どうかもっと先に行きたいと祈った。たとえ愛人扱いでもかまわない。今夜、ここで、彼が私だけを見てくれるなら。身体を清め、香を焚き、髪も整えてきている。
やがて、最後の音が消える。
静寂。
心臓の鼓動だけが、はっきりと聞こえる。
「君は」
カイウスは言った。
崖の下へと転がり落ちていくような、
壮絶な顔だった。
「…………エルマ……なのか?」
息が詰まった。
何を言われたのか、一瞬わからなかった。
捨てたはずの名を、あの子に押しつけたはずの名を、口にするはずのない人の唇から聞いたことが、信じられなかった。
ぱち、ぱち、ぱち。
後ろから、拍手の音。
振り返る。
複雑な虹の色を帯びたプラチナホワイトの髪。
ブラックドレスをまとい、立っていたのは――
寝物語朗読係。
悪役令嬢アルアリエル。
彼女は、冷たく笑っていた。
すべてを知っている者の笑みで。
「あえてこう呼びますね、『レティシア様』」
名を呼ばれた刹那、返事をしかけた舌が唇に貼りつく。「私」を選ぶまでの一拍、のどの奥が跳ね、短く息が鳴った。
「まずは、こちらを」
アルアリエルは机にコトンと小さなインク壺を置く。
インキが入っていない、空っぽのインク壺。
ふと、ぞくりと背筋を嫌な予感がかけぬけた。
何か致命的なできごとが起きている、と。
「実は私、少しばかり変わった魔法をたしなんでおりまして……一度でも目にした魔法なら、見よう見まねでできてしまうのですよ」
――ごと。
「なかなか便利ですね。ベルナール家の家宝、《詩い手の羽根筆》に秘められた〈吸魂の魔法〉。人間の魂を吸い出して物体に移し替えてしまう。魔法を解いてももう元に戻らない。さっそく試させていただきました。あなたのお父上、オルドワーヌを名乗る男に」
ごと、ごと。
「最初は私も、令嬢が侍女の声を奪ったと考えていました。でもこの大宮殿では思いこみは命取り。なのであの音楽会以降、ささやかなお話をして、反応を見てみましたの。『レティシア様』。あなたは伯爵令嬢にふさわしいふるまいをよく練習されていたわ。カイウス様との会話も、お友達の令嬢たちとの会話も、問題なかった。筆跡すら上手に模倣されていた。長いこと、そばでよく見ておられたのでしょうね。優秀なお方。私の騎士も驚いていました。まったくボロを出さなかったと」
ごと、ごと、ごと。
「けれど、だから、私たちは標的を切り替えた。途中から『レティシア様』を見るのをやめたの。隣にいる『エルマ』の動きはとてもわかりやすかった。貴族としてのふるまいは、練習して身につけるより、忘れて捨ててしまう方がよほど大変です。物心つく前からみっちり仕込まれ、骨身に染みつくものですもの。余計なことを言いふらされないよう、のどを封じ、指を封じ、口止めまでしていたようですけれど、お身体は正直でしたわ」
ごと、ごと、ごと、ごと。
「そう――肉体も、物体の一つと言えるものね」
からっぽのインク壺は。
命が宿ったかのように身悶えていた。
私がかつて目にした、ひとりでに動き出した花ビンのごとく。
「理解したかしら、カイウス様? この物語の『主役』が誰なのか。レティシア様がエルマから声を奪ったのではないの。エルマがレティシア様の肉体を手に入れ、成り代わった。レティシア様の魂は、要らなくなったエルマの肉体に放り込まれた。ベルナール家は貧相な伯爵家。侍女がいなくなるのはもったいないものね。犯人はこの〈吸魂の魔法〉の本来の使い手。オルドワーヌ・ベルナール伯爵よ」
「バカなッ!!」
カイウスは私から目をそらして鍵盤を両拳で叩いた。不協和音が鳴り響く。
「ふざけ——ふざけるなッ! いったい何の得があって!」
「得? 十分にあったじゃない」
アルアリエルは肩をすくめる。
「この『レティシア様』は一躍、サロンの主役に。誰もが拍手し喝采した。適齢期の娘としての価値が大いに上がった。カイウス様、あなたも鼻の下を伸ばしておいでだった。私、失笑をこらえるあまり何度も見つめてしまったもの」
「俺はっ……!」
カイウスは声を荒げそうになり必死に首をふる。
「ありえない。あっちゃいけないだろう! 実の娘だぞ。血のつながった娘なんだぞ」
「血ならつながっているでしょう?」
さらりと、アルアリエルは言ってのけた。
カイウスはゆっくりと顔色を失っていく。
「……お前、何を言い出すんだ」
「わかっているくせに。魔力は血液を回路として巡る。より優れた血脈を持つほど、より優れた魔法使いとなる。だからこそ貴族は血統を重んじる。言い換えれば——ベルナールの血が流れる肉体さえあれば、中身なんかなんでもいい。もっと性能の良さそうな魂があるならば、入れ替えてしまえばいい。実の娘であっても。いいえ、実の娘だからこそ。なぜなら伯爵ご自身がそうしてベルナール家に取り込まれたのだから」
「まさか……オルドワーヌ伯爵も」
「ええ。彼の中身もまた、どこかから連れてこられた優れた魂なのでしょう。元々の名前はもはや分からない。ベルナール家は代々そうして受け継がれてきた。おそらくは伯爵夫人も。『レティシア様』の兄君も、姉君も。オルドワーヌ伯爵の先代も、そのまた先代も。この『レティシア様』が今代の最新作というわけ。嫡男の魂なんていったい何人目になることやら」
私は何も言い返せなかった。机の上、からっぽのインク壺に、あの子の顔が揺れて映る。足首の力が抜ける。
「さて、では、ぜひとも主役に語っていただきましょう」
冷たい微笑みを悪役令嬢は浮かべた。
こちらを、ゆっくり、指さして。
「女王陛下に捧げる――」
私の行く先を告げてくる。
「『愚か者が破滅する物語』を」
私はのどが裂ける音を聞いた。金切り声をあげながらカイウスに背を向け、両手両足を振り回して部屋から出ていった。彼はこの期に及んで私をかばうようなことを言ってくれたと思う。けど、私の背中にべちゃりと貼りつくのは、去り際にアルアリエルが放った、カイウスへの忠告だった。
……現実を見なさい。私でも、一度も目にしたことのない魔法は真似しようがない。ではなぜ、当初ベルナール家の手口を分かっていなかった私が今、〈吸魂の魔法〉を再現できるのか。エルマをレティシアに入れたのが最後ではないからよ……
❖――♔――❖
どうしてこうなってしまったの。
悪いことをしたなんて、百も承知だ。だけどもともと私には手が届かない人だったじゃない。平民の身じゃ、どれほど努力したって公爵令息なんて夢のまた夢。だからこそチャンスをくれる魔法に飛びついた。やっと、ここまで来たのに。私は主役になれたのに。何も間違えなかったのに。あと少しで届くはずだったのに。あの悪役令嬢が私の物語を台無しにした!!
無我夢中で音楽室を飛び出し、どれだけ走ったか覚えていない。気づけば、私はベルナール家の邸宅の中にいた。もつれる足を叱咤して階段を駆け上がり、『父』の書斎の扉に乱暴に押し入った。
そこにいたのは、『父』の抜けがらだった。
椅子に座ったまま、目も口も半開きに見開いて、ただ虚ろに天井を見つめている。
生気の一片も感じられない。
足元では、白い小犬がすがりつき、キャンキャンと甲高く鳴き続けていた。
そして部屋の隅、カーテンの陰。
そこには、エルマがいた。
私の、かつての肉体。
四つん這いになって、ぼーっと虚空をながめている。私が部屋に飛び込んできたというのに何の反応も見せない。やがて、不意に右足を上げると、自身の胴をぽりぽりと引っ掻いた。
犬のような仕草で。
――なぜ、いるのだ。地下の犬小屋にしまっておいたはずなのに。主の危機でも察して、ここまでやってきたのか。
「いったい、どうしたんだ!」
声に振り返ると、嫡男のアモーリーが立っていた。
私は、しどろもどろに言葉を吐き散らす。
アルアリエルに《羽根筆》のことがバレたこと。
お父様をインク壺に封じられたこと。
どうしたらいいの、と。
アモーリーは青ざめ、しかし吐き出した言葉は別の色をしていた。
「そんなことより《詩い手の羽根筆》はどこだ。父がダメなら、やっと俺が使える。手に入れないと」
私は『兄』を突き飛ばし、書斎を飛び出していた。
家族が倒れているというのに。
違う。
『兄』からすれば父は『父』でしかない。
私は『妹』の『レティシア』でしかない。
『アモーリー』はそれを名乗るどこかの誰か。
私だって『レティシア』を名乗るどこかの誰か。
ここにいるのは、中身を取り替えた人形たち。
血と魔力のために結ばれた操り人形。
ふと、実家の家族を思い出す。父親は小作農家の次男。母親は育児に追われるごく一般的な女性。貧しかったけれど夕食の食卓にはいつも笑い声があった。あの温かい時間を思い出す。
自室に逃げ込み、荒い息のまま鍵をかける。
部屋の隅、姿見が目に入る。
私がずっと見ていた嫌いではなかった奪って踏みにじった見慣れた他人の顔だった。
絶叫が鏡を叩いた。
私は、幸せになるはずだったのに。
魔法使いに、人生を変えてもらったのに。
いいえ、違う、事実として変わったのだ。
甘いパンと柔らかな肉。
温かい寝床。
思いのままの使用人たちの指先。
貴族の暮らしが、これほどまでに甘く、人をたやすく曇らせるものだなんて、知らなかった。
とりわけ楽しかったのは『過去の自分』を好きにできること。《詩い手の羽根筆》があれば魂は抜き差しできる。『レティシア』に期待を寄せる『父』は何でもお願いを聞いてくれた。ちょっとイヤなことがあった日には、エルマの身体からあの子の魂を引き抜いて、小犬と入れ替えて遊んでみたり――。
あの満足感を知ってしまったら二度と庶民の道徳なんか信じられない。いいじゃない貴族が平民から、魔法で大切なものを奪うなんて、よくある話だ誰も止めない。誰も罰しない、ならどうして私だけが! こんなにこんなに楽しいなんて知らなかったの!!
ふいに姿見が砕けた。
「これでおしまいよ、『レティシア様』」
向こうからブラックドレスが現れた。
喜悦の眼光。
三日月に歪んだ口角。
虹色に乱反射するプラチナの髪。
響きわたるせせら笑い。
私の首筋へと伸びる爪。
嗚呼、なぜ、なぜ、
こんな怪物に見つかってしまったの。
鏡のようにきらめく、
右手の指輪を突きつけてくる。
意識が遠のく。体から魂が引きはがされる感覚。必死にしがみつこうとするが指先すら動かない。なぜか思い出したのは故郷の母の顔だった。王都へ奉公に出る日、私の手を強く握りしめて、こう言ったのだ。
……エルマ。悪いことだけはしちゃいけないよ。あんたみたいに普通の子が、下手な欲をかいたところでね、もっとズルくて悪いやつらの食いものにされるだけなんだから……
説教臭い小言だと聞き流していた。
でも、違った。
母さんは、知っていた。
私は、ただの――――。
最後に聞こえたのは、悪役の勝ち誇った高笑いだった。
❖――♔――❖
翌朝目が覚めると、そこは、王都の裏通りにある借間の天井だった。
指先は荒れ、爪の間には土が入り、頬はこけ、吐く息は冷たい。
手を伸ばせば、粗末な麻布の毛布。
私は、エルマに戻っていた。
魔法は解かされた。
容赦なくすべて元通り。
肉体も、名前も、身分も。
でも、もう何もかも違って見えた。
夢のような日々が頭に焼きついてしまった。
甘いパンの味も、絹の寝具の感触も、命令一つで動く使用人の姿も、忘れられない。
何も知らなかったあの頃に、もう戻れない。
扉を開けても、そこにいるのは下卑た笑いを浮かべた行商人や、泥まみれの子どもたち。
あの食卓も、銀の燭台も、私の恋も、もう二度と。
「……かえして」
外に出て、青空を見上げると、王都中央大宮殿の勇姿がはるか彼方に見えた。
誰にともなくつぶやいた言葉は、汚れた石畳に吸い込まれて消えた。
☩――― ❖ 悪役令嬢の書斎 ❖ ―――☩
夜が更ける中、アルアリエルは、ペンを静かに置いた。書きかけの羊皮紙には、ある伯爵令嬢の物語が、その破滅に至るまでの軌跡が、彼女自身の美しい筆跡でつづられている。
ここは、王都中央大宮殿の一角、ルミエール家とは別に彼女個人に与えられた宿舎。ひとまずの幕引きに、彼女は小さく息をついた。
音もなく、黒い影がそばに立つ。
「調査は終わったの?」
アルアリエルが問いかけると、影――黒外套の騎士は首肯した。
「はい。今日は平和なものですね」
彼の名は、ミル・アシノ。アルアリエルに付き従い『探偵騎士』を名乗っている。権謀術数が渦巻くこの大宮殿で、彼女をあらゆる陰謀から守護するためにルミエール公爵家が任じた、一代限りの騎士である。彼は自らの特殊な出自を活かし、きめこまかな調査網を王都に張り巡らせており、今回の『ベルナール家』の情報をアルアリエルにもたらした張本人。
「今回もありがとう、私の騎士。あなたの《鏡》が決め手になったわ」
「何よりです」
ミルは右目に装着していた魔法じかけの片眼鏡を外し、手帳のポケットに収めた。アルアリエルが他人の魔法を模倣するには、記録映像を見るだけで十分だ。彼はベルナール家に潜入し、オルドワーヌがレティシアの魂を小犬に移す瞬間を記録した。ロシュブリューヌ家の図書館にいたアルアリエルに報告をした時点で、すべてのピースはそろった。
「そちらは順調ですか」
ミルの問いに、アルアリエルは書きかけの原稿に目を落とす。
「終わり方をどうしようか悩んでいるの。女王好みの、みじめでみっともない破滅にしてあげたいのだけれど」
「昨日の今日ですからね」ミルは淡々と事実を述べる。「このごろ、王都郊外でいくつか殺人事件や行方不明事件が起きていたのですが、ベルナール家の『入れ替え』によるものと断定できました。かの家はちょうど適齢期の令息や令嬢が多かった。入れ替えシーズンで、用済みの魂がいくつか処分されたわけです。魂が肉体に戻ったオルドワーヌ伯爵は、殺人・誘拐の証拠品つきでカイウス様に引き渡しました。あの方ならば正当な処理をしてくださるでしょう」
「判決を待つのも面倒ね。彼らがどうなるか、推理できる?」
「もちろん。まず、伯爵が生きて帰ることはありません。ベルナール家自体、お家取り潰しは免れないでしょう。仮に免れても、あなたは昨夜のうちにオリジナルの《羽根筆》を破壊なされた。魂の入れ替えがなければ、あの家は優れた血と、凡庸な魂しか生み出せない家系に過ぎません。脱落は時間の問題です」
「まあ、そうね」アルアリエルは少しだけつまらなそうにうなずく。「レティシアは、かわいそうだけれど」
「彼女もまた自らの肉体に戻りました。よその魂と入れ替わったこともなく、生来の令嬢だったご様子。今後はカイウス様の庇護のもと療養に入られる。ついでに小犬も引き取られたそうです。いずれ、ロシュブリューヌ公爵夫人の女官として仕えるのが、彼女の貴族としての尊厳を保つ上で、最も穏当な道かと」
「……エルマはどうなる?」
「大宮殿やベルナール家に置いておくわけにもいかない。王都をしばらくさまよったあと、療養院行きです。正気に戻ることはないでしょう。カイウス様が救いにいくには、もう、いろいろな意味で距離が遠すぎます。あの方は扉を開けるべきだった。歌唱の才能は本物だったのでしょうが――魔法使いの誘惑に乗った、哀れな結末です」
「あなたが教えてくれた『シンデレラ』の物語は、ハッピーエンドだったのにね」
「なんせ、ここは女王陛下のお膝元ですから」
ミルの言葉に、アルアリエルはため息を払った。
「やっぱり『レティシア』を主役として語るのが一番か……」
蝋燭の明かりが揺れる机の向かいから、ミルが無言でグラスを差し出した。
「ありがとう。ちょうどのどが渇いていたの」
頬杖をつきながら口に運ぶ。その仕草を、ミルは何の感情も浮かべぬ表情で、けれど視線だけは忠実に追っていた。
「今回の脚本、女王陛下はお喜びになるでしょう」彼は言った。「これは本物だ、と」
「そうね。あの悪魔がよだれを垂らす仕上がりにしてやるわ。今お話ししている物語が完結するまでには間に合いそう。私は陛下の寵愛を得て、明日も贅沢で快適な暮らしができる。あなたが『レティシア様』を見つけてくれたおかげ」
「決着をつけたのはあなたです。お見事です、アルア様」
「ええ。そして私たちの夜は、これから始まるのよ」
アルアリエルは立ち上がると、ミルの手を取り、自らの肩へと寄せた。
冷たい指先が、彼女の肌に、ドレスの絹に、かすかにふれる。
「ねえ、私の騎士。次なる獲物の話は……寝室で、ゆっくりと聞かせてくれる?」
「喜んで。あなたの平穏が、僕の務めです」
二人の影が、揺れる灯火の奥に溶けていく。
誰にも明かせない、令嬢と騎士の共犯関係。
夜はまだ深く、悪役の恋物語は終わらない。
さあ、次は誰を狙おうか。
ここは王都中央大宮殿。
破滅させがいのある愚かな主役など、まだまだ、いくらでもいるのだから。
お読みいただきありがとうございました!
あるいは後書きからお読みになるタイプのお方、こんばんは!
いずれにしましても、この作品は『仕掛け』を抱えておりますので、
こちらでご説明をさせていただきたいと思います。
この物語は『倒叙形式』でございます。
語り手が悪人。
主役がざまぁされる側。
古くはコロンボ、ちょっと前だと古畑任三郎。
いわゆる『報告者がクズ』ってやつでございます。
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
もし、主役の物語をぶち壊しにするのが生業の『悪役令嬢と探偵騎士』、その奇妙で歪んだ関係性を少しでも楽しんでいただけたなら、感想やブックマークでそっと教えていただけますと、これからの執筆の大きな励みになります。
なお前書きにも記させていただきましたが、本作の感想欄ではネタバレを制限いたしません。
なにとぞ、お気軽に書き込んでいただければ!
それでは、またどこかの物語でお会いできますように。
※アルアリエルの過去の大醜聞を描いた物語も別作品にございますので、ご興味があればぜひこちらもご覧くださいませ。




