宇宙と人
宇宙空間の果てしない闇の中で、航宙機のパイロット、コールサイン「エコー」は、いつものようにコクピットのシートに体を沈めていた。
銀河の星々が散らばる無限の虚空を、静かに目的地に向かっていた。
エコーはこれまでも、数え切れないほどのミッションをこなしてきたが、今日の任務は単なるルーチン巡回だった。
天王星と海王星の間の宙域で、異常信号を探るだけ。機体のAIが低く唸る音が、唯一の伴侶だった。
突然、警告音がコクピットを切り裂いた。
赤いランプが点滅し、メインコンソールのディスプレイにエラーメッセージが踊った。
「3Dジャイロセンサー故障。姿勢制御システムエラー。」
エコーは眉をひそめ、最初は冷静に反応した。
マニュアルを確認し、リセットボタンを押した。
だが、何も変わらない。
センサーが死んだ。
機体の「耳」であり「目」であり「平衡感覚」であるジャイロセンサーが、完全に沈黙したのだ。
機体の姿勢がわからなくなる程度ならバックアップシステムでカバーできるはず。
エコーは補助ディスプレイを呼び出し、星の位置から手動で基準点を計算しようとした。
だが、センサーの故障に加え機体は微妙に回転し始めていた。
ジャイロセンサーがないと、それがわからない。
上下左右、前後――すべてが曖昧になる。
エコーはシートベルトを締め直し、深呼吸した。
「落ち着け。マニュアル通りにやるだけだ。」
しかし、数分後、異変が体に忍び寄ってきた。
機体の回転がわずかに加速しているのか、それとも自分の感覚が狂っているのか?
コクピットの窓から見える星々が、ゆっくりと流れ始めた。いや、流れているのは星か? 機体か?
エコーの視界が揺れた。重力発生装置は正常のはずなのに、体が浮遊感に襲われた。
胃が浮き上がり、吐き気がこみ上げる。
「これは……幻覚か?」
彼は目をこすったが、星の流れは止まらない。
基準点がない。自分の体がどの方向を向いているのか、わからない。
機体がスピンしている? それとも静止しているのに、脳が勝手に回転を想像している?
パニックの最初の兆候は、呼吸の乱れだった。
エコーの胸が急速に上下し始めた。酸素レベルは正常だというのに、空気が薄く感じる。
ヘルメットのバイザーに息が曇り、視界がぼやけた。
「コンピュータ!姿勢データを再取得しろ!」
彼は叫んだが、返事は冷徹だった。
「ジャイロセンサー故障のため、データ無効。手動修正を推奨。」
手動? どうやって? エコーはコンソールを叩いた。指先が震え、キーを押し損ねる。
今度はドクドク、ドクドクと心臓の鼓動が耳に響き始めた。
まるで宇宙の真空が心臓を締め付けるように。エコーは過去の訓練を思い出した。
同様の状況を座学で、そしてシミュレーターで体験したはずだ。
あの時は笑い飛ばせた。でも今は違う。本物の宇宙だ。
無限の闇に取り残され、方向感覚を失う恐怖。
機体がどの方向に進んでいるのかわからない。
最も近い惑星はどこだ? 太陽はどこだ?
遮るもののない宇宙空間、センサーが死んでいる今、星々はすべて同じに見える。
回転が加速している気がする。体がシートに押しつけられる感覚――いや、それは錯覚か? 遠心力?
エコーは叫び声を抑えきれず、喉から低いうめき声が漏れた。
「くそっ……止まれ、止まれよ!」
視界が狭くなり始めた。パニックの典型症状だ。エコーは知識としてはそれを知っていたが、止めることができない。
手がコンソールにしがみつき、爪が食い込む。
指先が白くなり、息も荒くなる。
酸素を無駄に消費しているのに、止められない。
「誰か……俺を見つけてくれ……」
無線をオンにしたが、信号は宙域の外に届かない。孤独が彼を飲み込んだ。
宇宙空間の絶対的な孤独。誰もいない。
機体の壁が迫ってくる気がする。回転で潰される?
いや、機体は静止しているのかもしれない。すべてが頭の中の幻想か?
幻覚が始まった。星々が渦を巻き、機体がどこかの星に吸い込まれるような感覚に陥る。
エコーの目が大きく見開かれ、瞳孔が広がる。
汗が全身を覆い、制服がべっとりと張り付く。喉が渇き、舌がからからだ。
「水……」
彼はボトルに手を伸ばしたが、零重力で浮かぶボトルを掴み損ね、苛立ちが爆発した。
「ふざけるな!」
拳でコンソールを叩き、痛みが走る。
それが現実の痛みか、錯覚か? 区別がつかない。
時間感覚も失われ始めた。あれから何分経った? 何時間?
コンソールの時計はまだ正常だったが、信じられない。
回転が速くなり、体が引き裂かれる恐怖。
エコーはシートに体を丸め、胎児のように縮こまった。
幼い頃の記憶がフラッシュバックする。地球の青い空、地面の固さ。
あの安定した世界が恋しい。宇宙は無情で、冷たい。
宇宙空間で基準点を失った人間に為す術はない。
パニックは頂点に達した。エコーは絶叫した。
「止まれ! 止まってくれ! 俺はどこだ? どこにいるんだ!?」
手が無意識にコントロールスティックを握り、機体をランダムに操作する。
だが、回転を悪化させるだけ。警告音が鳴り響き、頭を叩く。
視界が白くなり、意識が遠のく。
エコーは最後の理性を振り絞り、緊急ビーコンを起動した。
だが、それに基地の人間が気付いて救助に来てくれるのはいつか?
彼の心は闇に沈み、宇宙の虚空に溶けていくようだった。
それでも、パニックは波のように引いては寄せる。
エコーは息を整えようと試みたが、すぐに次の波が来る。
永遠に続く恐怖のサイクル。
宇宙空間で、基準点を失った人間の、脆く儚い精神の崩壊。
それは、静かなる絶望の始まりだった。