第十一章 No.0
今日も今日とて、いつも通り暗殺しながら普通に過ごしていく――と言いたいところだが、昨日来たmakerが俺の情報をばらしているに違いない。背後に針山のような不安が刺さる。つまり、この家は引き払って移動したほうがいい。だが、もし俺がここを動けば、この建物の住人に被害が及ぶ可能性がある。天秤の片方が赤く滴る血の匂いなら、もう片方は誰かの平穏だ。結論はすぐ出た。しばらくはここにいよう。そして来たやつを返り討ちにする。
コーヒーの熱が口の中でぼんやりと広がる。危機感の影はそこにあるはずなのに、俺は優雅にカップを傾ける。湯気が夜気に消えて、表情の輪郭を柔らかくぼかしていく。そうしているうちに、玄関のチャイムが軽く鳴った。金属が震えるような、朝の静けさを切る短い音だった。
「俺、何も頼んでないよな?まさか…もう来たのか。仕事が早いねぇ、Makerは…」
舌先で苦味を転がし、カップをテーブルに戻す。足元で壁の影が伸びる。来訪者の気配は、無言の矢のように空気を突いた。
ドアの向こうで声が弾む。朝の光はまだ淡く、外の世界は眠りぼけている。だがここに到来したのは、眠りの延長ではない。
「はいはい、おはようございまーす…っとなんだ、DELETEの人じゃないすか。こんな朝っぱらからどうしたんすか?」
「おはようございます。霊さんにお話があり、本日こちらまで参った次第でございます」
「ほほう、何の用ですかね。こちとら朝の優雅な時間が刻一刻と奪われているんですよ」
「申し訳ございません。ですがその優雅な一日も今日はなしで、DELETE本部のほうまで来ていただきます」
言葉の刃が、あざ笑うように俺の平穏を切り裂く。目の端に見える街路はまだ薄い靄に包まれ、遠くでエンジン音が低くうなるだけだ。しかし、この瞬間の空気は重い鉛の塊のように沈んだ。
「おいおい、マジかよ…まさかここ、引き払えってのか…DELETE本部には行きたくないんだがな」
ひび割れたコンクリの向こう、遠くの道から鈍い爆発音が裂けた。空気が一瞬揺らぎ、ガラス窓が微かに鳴る。灰色の朝が赤い火花で引き裂かれるような、その音。
「こちらに、お迎えの車が待っておりますので…」
「いや、その車爆発しますよ」
言い終わらないうちに、少し離れた向こう側で生温い硝煙の匂いがふっと混じった。音と匂いが結びついた瞬間、俺の中で計算がめりめりと回り始める。やはりmakerの仕業だろう。単純に俺を抹消するだけでは飽き足らず、DELETEにも被害を与えるつもりらしい。頭の中で可能性を一つずつなぞる。今は車一台、だが連鎖は生まれやすい。動機が同じやつらが協力すれば、一気に拡大する。
ドアの隙間かどこかで、誰かの驚きの息が漏れる。対応は早い。だが次の瞬間、その空気を裂くように、鉛が男の胸を貫いた。音は濁って、しかし確固たる残響を残す。血しぶきが白いワイシャツを赤く汚し、男はよろめいて膝をつく。足元のタイルに、濃く広がる赤が地図のように広がった。
「くそっ、市街地でも関係なしかよ!」
声はか細く破れ、街の音に揉み消されてしまう。射撃はどこからだ。足音は聞こえない。だが残響は明瞭だ――二キロほど離れた、影の中からの狙撃だろう。音は小さく、正確で、まるで空気そのものを切り取るようだ。狙撃特化型のmaker。腕が立つ。
俺は射撃全般が苦手だ。銃の隙を見せれば終わる。だが目視できる敵は近接武器を手にした二人。銃とナイフ。二人同時に相手をするのは厄介だ。灰色の朝は瞬く間に、赤と黒の現実に塗り替えられていく。
「やぁ、No101くん、ちょちょちょ!まってまって!少しお話しないか?殺し合いはそのあとでもできるしさ」
「優雅におしゃべりか。とっとと俺を殺してこの場から逃げたほうがよくないか?警察が来るぜ」
「それはないよ。だってDELETEが止めてるでしょ、警察の介入を」
言葉は軽い。だが軽さの下には鋭い鎌が隠されている。DELETEの規則、制約、そして見えない枷。ここで外へ出れば、ルールの網にかかる。残る選択肢は限られている。
俺は息を吸い、吐く。胸の内で何かが冷たく固まる。周囲の世界は不気味に静まり返り、血の匂いと燃え残りの硝煙が混じり、朝の空気を汚していた。視界の端で、男が沈むように倒れる動きがある。刹那、別の悲鳴が裂けるかもしれない。だが俺は感情を鞭で打ちすませ、次の動きを思考に刻む。
「最後に一つ聞こう。お前のNoはいくつだ」
「ぼくはNo110だ、先日は109が世話になったね」
数字の出し合いは無機質で滑稽だ。番号で人格を測るなら、ここにあるのはただの識別子。だが、番号を呼ぶ声にはいつも刃がある。相手はプロセッサもOSも進化していない、と嘲るように言う。殺すのが容易だとでも思っているのだろうか。
「あれ…僕、いつの間に刺されて…」
その声は遠くで薄く消えた。血の温度が地面を染め、時間が引き延ばされる。残るはあと一人か。空気がさらに締まる。焚き火でもあるまいし、火花は飛ばない。だが心臓の鼓動だけは確かに火花のように弾けた。
俺は立ち上がる。靴底がコンクリを掻く音が小さく響く。朝の光が窓ガラスに斜めに差し込み、そこに映る自分の影が細く伸びる。影の先端は、今日という日の輪郭を切り取っていた。何を選ぶか。動くのは俺だ。静寂の中で、次の一手を決めるために。