救世主と婚約した姫君は、己の仕事を始めようとする
魔王復活から討伐までの四年間、各国は数多の勇者を送り込み続けた。
その多くが無情にも命を散らす中で、悲願を達成したのは――小国アロイア、第八の勇者。
以来、世界のパワーバランスはすっかり変わってしまった。
少なくとも、アロイアの姫君・ルビーはそう思う。
連日やってくる、大国の使者。日に日に豪奢になっていく。王も民も。
皆、変わってしまった。
幸せに。豊かになったのだ。誰もがそう言う。
そうなのだろう、確かにそうなのだろう。
けれど――ルビーだけは、物憂げに思う。
些細な幸福を尊んだ、あの頃のアロイアはもう無いのだと。
「姫、どうしたのです? お顔が優れないようですが……」
傍らの男が遠慮げに声を掛けたので、ルビーは無理やりに笑んだ。
「いえ、どうもしませんわ」
簡単な否定をすぐに信じる。
男はパッと顔を輝かせると、二の句を継ぐ暇さえ与えずに話し始めた。
「今日は何をしましょうか? 季節もいいですし、遠乗りなど如何ですか? 是非お見せしたい景色があるんです。少し距離はありますが、僕の馬は疾いですから……」
ルビーはうんうんと適切に相槌を打ちながら、なかば話を聞き流す。
つまらない。とてもつまらない。
彼といるのは。
……しかしこの作業は、いまやルビーに唯一残された仕事と言ってもいいだろう。第八の勇者セロンは、世界の英雄にしてこの国の至宝だ。彼を輩出した国、というだけで、アロイアは主要国家の位置に躍り出た。
(この男がすべてを変えてしまった)
そう思うたび、ルビーはこの男が憎かった。
純粋に民のことを考え、貧しくともその身を粉にして国民に仕えた父。
そんな父を心から尊敬し、時に素晴らしい助言で支えた母。
そして、二人の唯一の子として国を背負いたつべく、研鑽を積んできたルビー。
もう要らない。
政治は、大国から派遣された優秀な士官が執り行っている。
父と母は外交に忙しく、ほとんど国にいない。
ルビーも執政の任から解かれ、次の王――勇者セロン――の慰みものとして、彼のご機嫌取りに徹する。
すべてが――すべてが馬鹿らしい。
本当はなにもかもぶち壊して無くなってしまえばいいとすら思っているから、ある朝目覚めて自分が次の魔王になっていたって微塵も不思議じゃない。
でも、だからといって、ルビーに何が出来るだろう。
人外の魔すら祓うこの男相手に。
最早世界最強の凶器ですらある、この男に。
「姫? ……姫、やはり、お身体の具合でも……?」
おろおろとこちらを構ってくるその仕草、声に、苛立つ。
ルビーはそれでも、気丈に笑顔を貼り付けたまま、彼に感謝の言葉を述べた。
「お気遣いありがとうございます。……そうね、ここのところよく眠れていないので、少し目眩がするのですわ」
お前が救った世界に反吐が出るのよ。
とは、さすがに言わなかった。
「それはお辛いでしょう。気が付かず、申し訳ありません……」
セロンはその後にも何かモニョモニョ喋っていたが、冷えきったルビーの心には何ひとつ届かない。
「申し訳ないのですけど、今日は下がらせて頂いても……?」
「ええ、ええ! 勿論です!」
聞き分けのいいところだけは、助かる。
セロンは空気も読めぬ変わり者で、平民であるが故に知性も品性も無いが、ルビーの言うことなら大抵なんでも聞き入れた。
「今日はお休みになって、また明日、なにか楽しいことをしましょう」
ルビーはその言葉に、会釈を返す。
(だってその提案に、拒否権はないのでしょう?)
やがて、ルビーはセロンと結婚する。
それは無償で世界を救った勇者が、唯一欲した褒美。
謙虚で小さな願いだ。
ルビー以外の全人類が、そう思ったことだろう。
彼に背を向け、自室に下がる道すがらで――ルビーは、思い出していた。これから全てが様変わりするだろう、と予測できたあの夜、まだまともだった父が告げた、ひとつの真実のこと。
――ルビー、君は抑止力になったんだ。
その言葉の意味を、今も考えている。
数多の力自慢を屠った魔王を殺した勇者。
過ぎた強さを持つ勇者。
その彼が力の使い方を誤らぬよう、誰かが「操縦」しなくてはならない。
(それが、私のこれからの仕事)
世界の安寧を守るため、ルビーはセロンを愛しているふりをする。
仲睦まじく幸福なふりをする。
彼が人を、ルビーを裏切らぬよう。
決して傷つける側に回らぬよう。
そのためには、彼の子供を産んだり育てたり――そうやって懐柔していくしか、ないのだろう。
魔王が滅び、人の世に平和が訪れた。
しかし、ルビーの戦いは……まだはじまったばかりだ。