第二章 人の奇妙さについて(1)
ジコクは自分の物でない豪邸に戻って、昼食を食べようとているところに、メイドたちに取り囲まれた。これらの若い女の子たちは今まで彼を不親切な目で遠くから見ていた。ところが、今や六人が彼の行く手も逃げ道も阻んでいる。女の子たちは拳を顎に当てたり、腰に手を当てたりしながら、鋭い目で彼を見つめている。
リーダーであるはずのツインテールのメイドが他のメイドに言う、「この物の見た目がましになるには、どうすればいい?」
もう一人の女の子がパウダーとドライヤーを取り出して言う、「ゼロから始めよう。私たちには不可能はない!」
そしてジコクは、瓶や缶がいっぱいの、魔法師の実験室みたいな空間まで引きずられて行った。彼の顔と髪が女の子たちにさまざまな物を塗られる。さらに、着替えさせられる。
それらの女の子たちはジコクを彫る石のように扱う。しかも、質の特に悪い石材のように。彼らはジコクに「頭を回せ!」「目を閉じろ!」と命じる以外に話しかけない。ジコクを話せない石のように扱い、仲間だけに話している。
だから、ジコクは多くの内幕を気軽に耳にした。
「またあの声を聞いたよ」
「また? いつも夕暮れに始まるでしょう?」
「あの声、本当に気持ち悪い。変態一つが壁の中に埋め込まれているの?」
「私には変態たちのように聞こえたよ」
「それで、夫人は何って言ったの?」
「神経過敏だって」
あるメイドが声を張り上げて言う、「あろうことか、神経過敏だって? 彼女は他の人を評論する資格はない」
「夫人は薬をどんどん増やしてるらしい。いつ何が起こっても珍しくない」
「それは全部ハナが与えたものじゃない? あの嘘つきの薬は絶対に飲まない」
「前回、彼女は私をネズミ講に引き込もうとしたよ」
「え、彼女はそのことをしてる?」
「まぁ、ここには幽霊が出てもおかしくない。前回、ここでは人が死んだことがあるって聞いたよ」
「どういうこと? 詳しく教えてほしい!」
「夫人がここに家を建てるよう指示したそうだった。最初地主は売りたがらなかったけど、色々な手段を用いて、その後、地主は病気で亡くなった。この家の人のせいだとも言えると思う」
「夫人はそんな大きな権力を握ってる?」
あるメイドが声を低くして言う、「彼女は長年病気だそうだ。以前、だんな様は彼女を可愛がっていた。でも、彼女は『病気』だったから」彼女は自分の頭を指差しながら言う、「こんな風になった。だんな様は元々、彼女の意向に従えば、彼女は改善すると期待していただろう」
メイドたちに二階の宴会場に押し込まれるとき、ジコクはワールのようなウェイターに見え、他の人の引き立て役として上流社会に正々堂々と出入りできるようになった。彼はすでに、派手な服を着た女性に近づく資格すらなくて街頭に露宿している貧乏な魔法師ではなくなった。
今日彼の仕事は、宴会を支援することだ。
彼はシェフの指示に従って、サーブに協力する。さまざまな料理をセルフサービスエリアに届けたり、長時間放置された食品を撤収したりする過程で、大部分の食べ物は客に触れられなかったのに厨房に戻ったことに気づいた!
彼は一皿の冷めた焼き魚を両手に持っている。これほど大きく、金色にカリカリに焼かれた焼き魚を、彼は今までの人生で初めて見た。彼は精一杯真摯な目でシェフに訊く、「これを食べてもいいですか?」
料理を生業としているシェフにとって、彼の食に飢えた目は強烈な褒め言葉だ。シェフは休憩区で交代で食べ残しを食べる若いシェフたちを指差しながら言う、「そこに加わって」
それで、ジコクは仕事の合間に、里芋のフライ・エビフライ・豚の丸焼き・ハムスライス・チキンスープなどをたくさん食べたり飲んだりしている。そして、厨房のスタッフ全員は彼に同情的な目で見ている。
あるスタッフがわざとジコクの肩を叩いて言う、「ここでは宴会が頻繁に開かれる。お腹が空くことはもうないよ」
そのため、ジコクは転職の考えを払拭した。
彼は(食事をしていないとき)傍観者として宴会場を歩き回っている。金持ちの宴会は、彼が思っていたものとはあまり同じではない。
彼がテレビで見た宴会は、誰もがこの世に心配に値する事が存在しないような笑顔をしていた。それらの名流が人々に感じさせたメッセージは、宴会がワクワクさせるし、疲れを吹き飛ばさせるし、人間が全く善人であるのを再び信じるし、面白い話題がたくさんあるし、目を輝かせる演技を見るし……
悠々と流れる音楽、華麗なホール、美しいカーテン、ピカピカのカトラリー、たくさんの食べ物、屋内の温度も適度だ。誰もが高価で美しい服(しかし、おそらくあまり快適ではない。例えばエルゴノミクスに反するハイヒール)を着ている。
彼らが笑顔を浮かべているのは事実だが、ジコクが想像していた心からの笑顔を浮かべている人はいない。一部分の人が笑ったのは、笑顔をすることで自分を幸せにしたいからだ。一部分の人が笑ったのは、この場合では泣いてはいけないからだ。一部分の人が笑ったのは、他の人が苦しんで笑顔を搾り出すのを見たからだ。大部分の人がここにいるのは、ここにいなければならないだけだからで、彼らがここにいたいからではない。
彼らは面白くない冗談に笑い、そしてまた誰かの笑いにつられて笑う。彼らの大げさな笑顔は仮面に似ている。まるで自分が笑っている様子を他の人にはっきりと見せなければ罪があるかのように。
ジコクは女性集団のそばで皿を片付けている。それらの人たちの中の一人は新婚で、今友人たちに結婚生活を披露している。
あの女の人は夫との交流について何を言っても、他の女の人は別の解釈ができる、とジコクは気ついた。例えば、あの女の人は言う、「旦那のために物を片付けます」「旦那は毎日定刻に帰宅します」「旦那は新鮮なことが好きですから、私は毎日同じではない料理を作ります」
他の女の人は別の解釈をする、「汝は夫のメイドになって、彼はもう汝を女性として見なくなるでしょう。そして彼は浮気をします」「彼は仕事を早退しても知らせないでしょう。そして彼は浮気をします」「彼は新鮮な女の人も好きでしょう。そして彼は毎日同じではない女の人と浮気をします」
彼女が何を言っても、結論は彼女の夫が浮気をしますということだ。それらの女の人たちは自分の意見にそんなに固執しており、まるで彼女の夫が浮気をしないと、それらの女の人たちには不幸なことが起こるかのようだ。だから、彼女の夫は浮気をしなければいけない。
政治の話をしている男性集団もいる。その中の一人の男の人が言う、「というわけで、政策はこの方向に進むべきです」
もう一人の男の人が言う、「いいえ、その方向に進むべきだと思います──」
先の男の人はすぐに言い直す、「実に私もそう思います!」
まるで、目の前の人に同意することは、理性よりも、思考よりも重要なことかのようだ。まるで目の前の人の意見を合わせなければ、空が落ちるかのようだ。だから、相手に同意しなければいけない。相手の意見が何であるかは重要ではなく、必ず同意する。
これらの食べ物だけが本物だ、とジコクは感じる。宴会場での他の事物は、例えば来客などが、ちゃんと生きているように見えない。彼らは生命と無関係な世界にいるようだ。その世界では、重要なことは笑顔を積み重ねて生み出した偽りの喜びしかない。
ジコクは真面目に働いているふりをしている。また、それらの人々に畏敬の念を抱いているふりをしているため、彼らに目を向けない。そんな表面的な作業は《黒夜教団》では基本的なことだった。あそこでは、誰もが人を殺すことができないふりをしながら、クラスメートを一人ずつ殺していた。
実際に、ジコクは一人一人の会話を明瞭に聞き取って、一人一人の外見の特徴を心に暗記して、それらの人々の間の利害関係も推し量った。必要な時に使えるためだ。
ある人が言う、「どことなく、この家はおかしいと感じる!」
ジコクは耳を立てる。でも予想外のことを聞いた。「この家はおかしいと感じる……ブランドの手すりこそ最も精巧な工芸品だ。しかし、この家に使用したのは……ブランドだ。こんな劣等品がおかしいと感じさせる。本当に格調悪い!」
彼らに“劣等品”と呼ばれるものの単価は、ジコクに良い賃貸住宅を半年間借りさせることができる。
ジコクは、主人一家を探し始める。もう去るつもりがないなら、ここの権力構造を解明し、誰を挑発してはいけないかは知る必要がある。
彼が最初に見つけたのはハナさんだ。彼女の尖塔の頭は群衆の上に突出しており、天井板を指していて、見つけやすい。
ハナはいつもより数倍派手な魔法師ローブを着ている。そのローブの上の法陣は印刷から耐水性顔料で手描きに変えられており、複雑さも数倍に跳ね上がっている。彼女の身上に大げさでも機能しない法器がたくさん掛かっていて、まるで歩く風鈴束のようだ。ハナは賓客に囲まれている。彼女の手で持つ杖は、先端に大きな宝石があり、柄に金属の蔓が巻き付かれており、重くて不便なように見える。制御を失った法術エネルギーによって、ハナは色とりどりの火花を散らして、客人たちの高価な衣服に点々と小さい穴を焼き開けた。そして客たちは、「すごい!」「綺麗だね」と絶賛している。
その後、ジコクは賓客の移動方向をたどって、主人一家を見つけた。身につけているジュエリーの価格から、誰が主人で誰が客人かを判断できる。たとえ客人が主人よりも大きなダイヤモンドを持っていても、身につけることはできない。そうしないと、主人に対して礼を失することになる。
群衆の真ん中に一人の白髪の男がいる。それがこの家の主人であるはずだ。だんな様は若くないが、彼のまっすぐな背骨を見て、彼が若者よりも力強く、体調も良いことがわかった。
ジコクはそばにいる双子の姉妹を見つけた。誰が誰だかわかるのに少し時間がかかった。この公開の場合では、二人ともフリルいっぱいのフロアレングスの礼服を着ており、身をしっかり包んでいて、丸い腕だけ露出している。姉・リーヌオの髪は頭の右側で結われている。彼女は人々の話を聞くことに集中しようとしている、しかし、明らかに気が散りやすい。妹・ジーヌオの髪は頭の左側で結われている。彼女も話を聞くことに集中しようとしている、でも時折うっかり軽蔑の眼差しを出してしまう。
ジコクはこの家の女主人も見つけた。彼女はだんな様よりもずっと年下だ。他の人の会話から、彼女の名前はユーランだと知った。彼女は二人の娘と同じ卵型顔をし、頬に娘たちより多い肉が付き、顔の輪郭がより丸みを帯びている。小さな口には艶やかな赤い口紅が塗られている。肩がより厚く、とても豊かな胸を支えている。彼女は長くて優雅な首をしており、シンプルなネックレスをつけて、さらに高雅になっている。彼女は美人だが、顔には明らかな疲労困憊があって、彼女の美しさを損なっている。
客の視線はだんな様と双子の姉妹に集中しており、誰も彼女に話しかけない。彼女について話すことがあっても、他の話の流れのついでに過ぎない。たとえば、「貴方の奥さんは今日もすごく綺麗ですね」「汝のお母さんの料理は美味しいね」
誰も彼女に意見を求めず、誰も彼女のところに来て何かを議論せず、誰も彼女の賛同を望まぬ。彼女はただ薄い影であり、だんな様の引き立て役であり、宴会場での歩く花瓶である。
それらの人々の他に、ジコクは黒い服を着た老婦人に気づいた。彼女は隅に静かにとどまっている。媚び諂いに来た者は全て彼女に追い払われる。「私を静かにさせてください。この喪服が見えないのですか?」
この老婦人はこの場の他の誰も持っていない威厳を持っている、とジコクは感じる。彼女がいる隅は他のどこよりも強い重力があるようだ。他のところでは男性客が親切を装って女性客の腰をめちゃくちゃに触ったことがあるが、ここでは絶対に駄目だ。その老婦人は絶対に見て見ぬふりをしないからだ。
ジコクはカップを片付けに彼女のそばに行っているとき、最善を尽くして端正な姿態をしている。老婦人は最初横目でジコクを見て、すると振り向いて彼に直視し、首をゆっくりと横に振り、声を低くして言う、「この社会は病気です」
ジコクは何も言えない。胸を張り、カップをしっかりと持ち、まっすぐに歩き去った。
その後、ジコクは現場の人々を研究し続けて、見覚えのある人が見えた。その男を見るやいなや、彼はすぐに背を向けて厨房に逃げ込もうとした。もう外出しない言い訳を見つけよう!
その青年はジコクより五歳ほど年上で、珠玉のような光沢を持つ金髪、濃密な眉毛、明るい青緑色の瞳、彫りが深い顔をしている。身長が2メートルに近く、たくましい体格をしており、群衆の中で非常に目立っている。銅ボタンのダブルブレストのショートコートにタートルネックを着ている。体にぴったり合うズボンの下の太ももの筋肉が非常に強いことが見てわかる。長いブーツ、硬い騎士服。剣を腰に帯びている。その剣は鍔に透かし彫りが施されており、鞘に宝石が飾られており、装飾的な意味が実用的価値より多い礼儀の剣である。胸に5センチの大きさの銀製の盾形の騎士徽章が留められた。その徽章の中央には白いバラがエッチングされている。
その人は俗に《聖潔之盾》と呼ばれている《皇家騎士団》の一員で、名前はサーレンだ。ジコクはまだシェフの庇護の下に隠れていないうちに、彼に発見された。騎士は全員武夫で、歩きが速くて大股で、ジコクに追いついて、鉄の箍のような手でジコクの鳥の足のような細い手首をつかんだ。
ジコクは首をすくめ、背を丸め、振り返ってサーレンを睨んでいて、サーレンは正直な目を向けている。
黒暗学院が壊滅した後、ジコクは一度全国の指名手配になって、荒野を逃げ回った。サーレンは当時彼を追いかけている人の一人だった。今やジコクはもう良民になっているので、サーレンはもはや敵ではない。しかし、ジコクは習慣になっているから、騎士を見ると逃げたくなる。
「汝がここで働いてるのを聞いたことがあるよ」サーレンが極めて明るい笑顔をジコクに見せている。
ジコクは日差しを遮るために手を挙げたい衝動に駆られた。本当にサーレンの眩しい笑顔を見たくない。しかし、捕まった今は、逃げたいという気持ちを堪えて、サーレンと話すしかない。
「誰から聞いたの?」ジコクは言った。
「スイラウのお父さんだよ。彼はいつも汝のことを気にかけてる」
「そう」
スイラウは黒暗学院が壊滅した際にジコクが救出した女の子だ。その後、彼女は無事に家族のそばに帰った。スイラウの家柄は良く、少しの貴族の血統さえある。ジコクはサーレンの話を完全には信じていない。そのような社会的地位の高い人は、彼のような社会の底辺の人がどのように生きているかに関心がない、とジコクは思っている。
「彼はスイラウにも言ったよ。スイラウは──」
「もういい。興味ないよ」ジコクはサーレンの話を遮った。彼とスイラウは基本的に2つの世界の人間だ。
「汝は、なんで社会のぼっちらしい感じが出ているの?」サーレンが眉を少し上げた。ジコクが特赦されてから2年以上経ったのに。
「私は確かにそんなものだからだ」ジコクは言った。
サーレンはちょっと間を置いて、ジコクのウェイターの制服を見ながら言う、「汝の仕事は魔法師助手だって聞いた」
「魔法師助手ってこんなものだよ」ジコクは局長さまの役人風の口調で答えた。
「大丈夫。話そう」
「まだ仕事中だ!」
「上流社会のルール、お客さんと話すのも仕事の一部だ。こちら」
それで、サーレンはジコクを引きずり行った。
サーレンはジコクを誰もいないバルコニーに連れて行っている。
外は雪が降っていて、暗くなっている。バルコニーは先進の暖房法術を使用しているので、凍結するほどではないが、家の中と比べて、やはり寒い。
ジコクは腕をさすりながら言う、「なんで外に出たの? 他人に聞かれてはいけない話なの?」
「まあね」
それを聞いて、ジコクは眉を上げ、祭刀を抜いて振り回す。盗聴法術がないのを確認し、隠れている人がいないのも確認して、言う、「話して」
サーレンの眉も上がった。ジコクのそんな警戒心は平和な生活を送る人間に似ていない。
サーレンが言う、「この土地には問題があると知ってたか?」
この土地はテイウコ草を人頭草に変えることができる所だ。ジコクは言う、「知ってた。見たこともある」
「内幕情報を聞いたことがあるか?」
「たくさんある」
「それじゃ、《光明之杖》がこの土地を欲しがっていると知ってたか?」
「へえ、なんで?」もしかして変種テイウコ草を大量に栽培したいのか?
「わからない。《光明之杖》は長い間この家とコミュニケーションを取ってたけど、無駄だった。今、彼らは《聖潔之盾》に助けを求めた、だから私はここにいる」
「私の意見だけど、汝は全然役に立ってない」ジコクはずばりと言った。
サーレンは苦笑いを浮かべて、言う、「たしかに。今悩んでる」
《光明之杖》と《聖潔之盾》、この2つの機関は長い間戦友としての関係を持っている。相手の頼みには、助けられる時は常にお互いに助け合う。助けられない時は役人風をふかす。助けている途中に逃げたくなった時は病気のふりをする。現在、サーレンは戻って役人風をふかすか、または現地で病気のふりをするか、2つの選択肢から選んでいる。
ジコクが第三の選択肢のようだ。
サーレンはジコクに向かってとても真剣に言う、「税務調査は良い手段だと知ってたか?」
「え?」なぜ突然そんな事に言及したのか、ジコクはわからない。
サーレンの表情はとても真剣で、「主導者の把柄を掴むだけで、すべてがうまく行くだろう」
ジコクは目を見開いた。正義を代表している騎士がそれを言ったのはどういう意味か!
「正当な手段が効かなければ、違法でない他の手段を使わざるを得ない。何か知ってることがあれば、ぜひ教えて。例えば──」サーレンは上下の唇を軽くこすり合わせていた。次に言う事を言うのは彼にとって難しい事のようだった。「乱倫」
その姉妹二人が? ジコクは首を横に激しく振り、「いや、知らない、何も知らない」
「噂が飛んでる」サーレンは一呼吸を置いて、言い続ける、「そんな事は本来警察の仕事であるべきだ。でも、利用できるものは利用すべきだ」
「汝は、私は必ず手伝うと確信してるか?」上司の上司の醜聞をスパイすることは必ず骨の折れる仕事だろう。
「汝は多少とも正義感があるとおっ──」
サーレンの話が終わらないうちに、会場から女性の悲鳴がした。
ジコクとサーレンはすぐに向きを変えて会場に駆け込んだ。
今、会場は静まっている。多くの人は笑みが凍りついており、仮面を脱ぐ時間がなかった。一部分の女の人は恐怖に顔を背け、自分が見たことを認めたくない罪悪感を浮かべている表情をしている。男の人は顔の筋肉を緊張させ、非難の表情を抑えようとしている。
群衆の真ん中にはだんな様一家がいる。ユーラン夫人が地面に倒されており、ネックレスが切れて、ビーズが地面に散らばっている。滑らかで明るい床に数滴の血が落ちており、彼女のもがきの動きで広がってきた。
双子の姉妹は、姉が唇を締めており、彫像のような読み取りにくい表情を浮かべている。
妹が目を見開き、眉を下げた。この会場であえて不満をあらわにしているのは妹だけだが、そのことをやった人は気にしていない。
「汝に話す番がいつ来た? 俺が汝に口を開く許可を出したのか? 俺は女さえ管理できねえと思わせるつもりか!」だんな様がユーラン夫人のそばに立ち、客全員の目の前で、ユーラン夫人を激しく蹴った。ジコクは重い「ドン」と音が聞こえた。周波数が非常に低く、振動のように感じられる。サーレンとジコクはだんな様が全力を尽くして蹴ったことがわかった。
サーレンが戦車のように群衆を押し分けて進み、最前面に出て、足を伸ばしてだんな様の次の蹴りを阻んだ。サーレンの微妙な表情から、ジコクはあの蹴りがとても痛いと知った。
「やめろ! 傷害罪だ!」サーレンがだんな様に言った。彼は厚い壁のようにだんな様とユーラン夫人を隔てている。
ところがだんな様は、サーレンが自分にとって脅威だとは全く思っていない。だんな様は顎を上げて、音量を上げてユーラン夫人に訊く、「ユーラン、話せ。俺が汝を傷つけたことはあるか?」
「い、いえいえ、だんな様、全部私のせいです、自業自得なのです」ユーラン夫人は顔を押さえながら、震えながら起き上がって座った。彼女の顔はゆっくりと紫色に変わってきている。
「聞こえたか、どけ!」だんな様がサーレンに向かって乱暴な声で叫んだ。
傷害罪は親告罪だから、ユーランが告訴しない限り、サーレンはだんな様を法律で罰することはできない。サーレンはそこで諦めなかった。彼は騎士だから。
「止めないなら、決闘を申し込みます」サーレンはだんな様を睨みながら言う、「槍・剣・巨斧、武器は汝次第です!」
だんな様は防御的に顎を引いた。彼は武夫ではなく、騎士と決闘する愚かなことはしない。でも、騎士が彼に決闘を申し込む場合、彼は拒否すれば、人々から悪口を言われるだろう。彼は視線が泳いでおり、心の中で窮地を脱するために逃げ道を探している。
逃げ道を探せば、必ずある。この件は終わった。少なくとも、現在は、終わっている。
ジコクは向きを変えて厨房に行って、冷めたパイを取り上げて力強く噛み、怒りをパイにぶつけた。一家の主がそんな様子じゃ、この家はもうおしまいだ。
彼は何度か換気を繰り返して、とうとう仕事用の表情を取り戻して、再び笑い声が響き渡る会場に戻った。水を汲んだり、食べ物を届けたり、食器を集めたりしている。地面に落ちた血は消えている。皆の表情は何事もなかったように、尽きることのない理由のない楽しみに戻っている。
ジコクはかつて、こんな事を二度と見る必要はないと思っていた。
ジコクの頭に響いているのは、黒暗学院で聞き慣れた女の人の低く沈んでかすれた声だ。
「黒夜王者の下で、私たちは兄弟姉妹になった」それはミヨ院長の声だった。彼女はいつも人々に美しくて喜ばせる言葉を言っていた。
ミヨが言った、「私たちの間にはもう外部の人はいない。血族でも互いを見捨てることがあるが、私たちの家族は本物で、真の一致団結を持っている」
彼女が司会した晩祷課では、誰もが満足した表情を浮かべていた。彼女の言葉が彼らの心を動かして、彼らのすべての需要を満たして、彼らの魂を豊かにして平和にさせたようだ。低学年生はいろいろな絵で会場を飾り、愛している神の美徳を讃えていた。中学年生は神様が私たちをどれほど愛しているかについて作文を朗読していた。そしてジコクは、高学年生たちの中におり、賛同して頷き、終始笑みを浮かべていた。
しかし、ジコクは知っていることがあった。ミヨから遠くない位置に、包帯で顔の半分を覆っている一人の学生がいた。その包帯の下の眼窩が空っぽだった。他の生徒は彼の目玉をえぐり出して、危うく殺しそうになった。
その事をやった女の人はジコクの隣に座り、滝のような金色の髪をいじっている。彼女は瞬きをし、血のような赤い瞳が狩りの喜びに満ちている。
ミヨはあの生徒の顔にある包帯を見て、完全に優しい笑顔を浮かべながら、あの生徒に言った、「さぞ痛いだろう? 安心して。ここでは怪我をしない。私たちは皆、兄弟姉妹なので、お互いを傷つけることを絶対にしない」
あの生徒の命が今夜を越えられないことは、誰もが知っていた。
ジコクの隣の女の人は声を低くして言う、「黒夜王者はみんなに愛を注いでいます」彼女は今夜必ず成功する。
DV事件から30分以上経って、サーレンはついに再び会場に現れた。姿が現れるとすぐにジコクに歩いてきて、彼を掴んでバルコニーまで連れて行って、二人きりで話す。
「ユーラン夫人は無事だった。今休んでいる」サーレンがジコクに言った。まるでジコクはユーランのことを心配しているかのように言ったんだ。でも実際には、ジコクはあまり気にしていない。少なくともサーレンが思っているほどの心配はない。サーレンがユーラン夫人のことに注意する、とジコクは知っている。
「ハナが彼女を癒す」ジコクは言った。傷みの治癒は、おそらく魔法師の仕事の中に最も古い部分であろう。
「ハナは高いとんがり帽子をかぶった魔法師か?」
「あれは高いとんがり帽子じゃなくて、髪型だよ!」ジコクは莞爾した。
「ほんとう? 彼女の演技を見たけど、法術は一つも成功しなかった」サーレンはもう一度振り返って会場を見た後、ジコクに言う、「行くね」
「気をつけて」ジコクは無表情で答えた。社交の慣例では、別れを告げた後、まだしばらく話し続ける、と彼は知っている。やはり、サーレンが自分の椅子を引き出して座って、またジコクの椅子も引き出した。それでジコクも座った。
「だんな様と個人的に会いたかったけど、さっきのことのせいで、だんな様は私に会いたくなくなっただろう」サーレンが微笑みながら言った。
「そう思う」
「ここに慣れたか、何の用品が足りないか」サーレンが訊いた。
「足りない物はない」ジコクは答えた。あの部屋の状況では、元々用品がとても不足しているはずだった。だが、彼はパくんの物を使っている。所詮、パくんはそれらを使わない。
「じゃあ、本当に行かなきゃ。留まり続けたら、悪党たちがいまにも動き出しそうだ」
「大部隊でこの場所を削って平らにしてもいいよ。私は絶対に袖手傍観する」
「ちょっと考えさせて」
サーレンは左手で拳を握り、前腕を胸の前に水平に上げ、騎士礼を行った。そして堂々と胸を張って会場を通り過ぎて去った。
ジコクも会場の仕事に戻り、蜜汁焼肉と一緒に厨房に撤退した。