第一章 このような場合は、落ち着いてください(1)
本巻の内容は2011年に初めて発表されました。
血の川を押し渡り、骨の道を切り開き、
命も魂も踏みにじり、生きとし生けるものをひれ伏させた
この運命は上天が私に悪戯をしたのか、それとも私を万民への試練として使ったのか
暗闇を乗り越えて、眩しい光の中で盲目的に探し求めていく
平和への扉はどこにある? ロックしているか、それとも私のためにオープンしてくれるか
「ここは私が来るべき場所ではない」ジコクは心の中で呟いた。家の各所から彼に注がれる視線が、そのメッセージを伝えている。それらの警衛、召使い、時折現れる客の目が、お前はこの場所に相応しくないとジコクに知らせた。
ジコクはいわゆる“豪邸”を写真でしか見たことがなく、比較できる経験があまりない。ここは豪邸だと知っているが、彼の限りある社会的常識では、何かおかしいと感じている。
足元には複雑でエキゾチックな模様の柔らかいカーペットがあり、壁には本物の油絵がある。ジコクは絵の見方を知らないが、それらの静物画や風景画を通して、幸せや平静、さまざまな情緒を感じた。目に映る範囲内では、屋内の隅々まで完璧に配されている。至る所に花瓶が置かれている。それらの生花は色も形も丁寧にマッチしている。柔らかな音楽が廊下を通じて家中に広がっている。どの方向から音が来ているのか聞き取れない。
それらの事物は明らかに高価だ。しかし、それほど多くのお金を使ったにもかかわらず、照明は無数の蝋燭の光によってもたらされているものだ。壁に沿っては50センチごとに一本の精緻な銀の燭台がある。蝋燭の炎が揺らめき、周囲にぼんやりとした影を多数落としている。ロマンチックな雰囲気が漂っているとも言えるが、何かおかしい。
ジコクは乱れた黒髪を持っている。その髪は光沢のない雑草と似ている。草むらから2つの黒い目が露わになっている。鋭い視線が人を不快にさせて、長すぎる前髪と相まって卑猥な印象を与える。皮膚は青白く、その下には青い血管がはっきり見える。骨格が細く、関節が太い。彼はまるで皮と肉の薄い層ばかり残った骸骨のようだ。それに、その少々の肉はあと数日飢えたら、すべて消えてしまうかもしれない。
彼は少し猫背で、急所を守るような警戒した姿態を示している。濃い灰色の魔法師ローブを着ている。そのローブはスタイルが非常にベーシックで、装飾が全くなく、素材が最も安価で、色によって多くの汚れが隠されている。彼は一つの大きいから紅のスーツケースを持っている。そのスーツケースは傷だらけで、塗装もひどく剥げていて、拭いても汚れが落ちない。それは彼がゴミ捨て場で拾ったものだ。
という全身のガラクタの他に、彼の首には革紐がついており、革紐の下に小さい銀製の長方形の匣がぶら下がっている。その匣の表面には花や草の浮き彫りが施されており、細工が素晴らしい。また、彼の腰にはプロ仕様の魔薬パックがある。少し古いが、状態は良好だ。
ジコク・サイグ、19歳。この名前は彼が出生時に贈られた名前ではない、でもこれは彼が現在持っている唯一の名前だ。いろんな事を経験してきたため、彼は実年齢よりも老けて見える。豪邸の中にいる人は貧乏と辛苦が何を意味するか知らないような格好をするべきだが、彼はまるで貧乏の化身だ。
彼は魔法師であり、この国家の魔法師の所轄庁《光明之杖》が発行した魔法師免許証を持っている。
ジコクの前には一人の女の人が立っている。礼儀上、他の人の話を聞く際に相手の目を見るべきだと知っているが、ジコクは相手の頭の上から視線を逸らせない。彼の目の前の女の人の名前はハナだ。これから彼の直属の上司だ。ハナは派手な魔法師ローブを着ている。そのローブの上にはたくさんの純粋に装飾用の、機能しない法陣の図案がある。また、彼女は桃色のプラスチックフレームの眼鏡をかけている。
ジコクが視線を逸らせない原因は、ハナの頭のてっぺんにあるものだ。彼女の髪の毛は輪のように結み、上へ上へ幾重にも重なり、頭のてっぺんで円錐形の尖塔のように込まれている。その髪の塔の上に大きい桃のヘアピンがある。プラスチック製の桃の上に大きな青い目が一つある。ジコクは地球上にそんな姿の妖魔や魔草が存在することを記憶していない。
ジコクは努めて相手の顔に視線を戻した。ハナさんは彼を凶悪そうに睨みつけている。
「いいか、汚らわしいお前は仕事があることに感謝すべきだ! 私の言う通りにしろ! 言い訳も遅れることもするな! あと、陰口を叩くな! 私たちは高貴な家だから、召使いが悪口を言うことは許されない!」
ハナさんの職業は“家庭魔法師”である。つまり、お金持ちの家に住んで、その家だけに仕える魔法師である。おねしょやニキビを治すための魔薬を作ることも、彼氏が浮気をしているかを占うことも、呪いで彼氏の浮気相手を転ばせて前歯を折ることも、政敵の腸を腐らせることさえも、すべて家庭魔法師のサービスで、合法かどうかは関係ない。
家庭魔法師は地位が高くて雇い主の秘書に匹敵し、身分が上級顧問に近い。ジコクはそれほど高貴な存在ではなく、彼はハナさんに雇われた“魔法師助手”である。
ジコクは頷き続けている。ハナさんと今日は初対面なのに、ハナさんが一言目からそんな話を出した。それは職場の正常な現象かどうかわからないが、とにかく頷いておけばいい。
「来い! 寮に連れて行ってあげる!」ハナさんが言った。ジコクは素直に従った。
華やかな一階を通り過ぎるとき、ジコクは希望を抱いていなかった。簡素な二階を通り過ぎるとき、ジコクは少し期待を抱いていた。結果、ハナさんは彼を屋根裏への階段の前まで連れて行った。目の前の木の梯子は最も質の悪い残材で作られたようだ。それは成人男性の体重を支えることができるか、とジコクは疑っている。どうせ、彼の体重は成人男性の平均体重には及ばない。
「パくん! パくん!」ハナさんが階上に向かって嫌悪の表情で叫んだ。数秒が過ぎて、応答はなかった。するとハナさんが鼻で息を強く出し、ぶつぶつと呟く、「ここにベルを取り付けるべきだった。いや、こんな面倒な事をする価値があるか? ほんのクズのため……」ハナさんは梯子のてっぺんに登って、屋根裏部屋の扉を叩いたが、依然として応答はなかった。そこで彼女は鍵を取り出して扉の錠を開けて、言う、「一人で入れ。パくんが部屋にいる。何かあったら彼に訊け! まったく、この汚いところには一歩さえ近づきたくない! 荷物を置いたら、すぐに階下に行け!」そう言って、ハナさんは背を向けて階段を下った。
ジコクはきしきし鳴る階段を慎重に上る。梯子は彼が歩くにしたがってゆっくり粉と化していくようだ。最上部の木の扉はぐらぐらと揺れて今にも落ちそうだ。ジコクはドアノブへ手を伸ばすと、すぐに扉の隙間から漏れる冷たい風を感じた。そのとき、彼の生活環境への期待はもう徹底的に壊滅してしまった。
どんなものを目にしても勇気を出して立ち向かう、とジコクは決意して、扉を開ける。
それほど多くの心の準備をしたのに、それでも目の前の部屋の惨状が彼の心を凍らせた。この屋根裏部屋は倉庫として使われており、インテリアが全くない。足元は灰色のむき出しの木の床であり、頭上には右側へ傾斜している屋根の梁がある。ベッドは複数の枠箱で構成されており、机はない。その他に、数籠の古着、毛がなくなったモップ、色々な物が堆積している。窓枠が歪んでいる。開いた窓から冷たい風が部屋に流れ込んでいる。
パくんらしい人は見当たらなかった。ジコクは勇気を出して一歩を踏み出したところ、何か柔らかい物を蹴った。
彼は頭を下げて見ると、床に横たわっている死体が一つあった。
それは外観に破損のない男性の死体だ。魔法師ローブを着ており、両手を広げて床に仰向けに横たわっている。
ジコクは息を吸い込んで、階下に向き直って叫ぶ、「ハナさん、パくんは死んでいます!」
「あの怠け者はいつも死んだように眠ってる! 彼のことを放っておけ! 彼から学ぶな! さもないと給料を減らしてやる! 荷物を置いたら、工房に行け!」ハナさんの叱責の声がした。
ジコクはしばらく待っていたが、ハナは他の応答をしなかった。彼女はもう遠くに行っている。
この地の人々は死体をどう処理するのか、ジコクは知らない。彼は死体を跨いで部屋に入るしかなかった。扉を閉めた。
彼は自分を制御し、死体と習慣的にお喋りをしなかった。死体のそばにしゃがんで、指で死体の手に触る。彼が最初の一目で判断したとおり、この人は死んだ。死斑が現れているからだ。皮膚は青紫色をしており、触ると冷たく、少し硬く、押すと形が元に戻らない。
ルームメイトのためにもう何もできないことを確認した後、荷物を置いて、ハナさんが言った通りに、生者であるジコクは階下に下りて仕事に行った。
ハナさんの工房は3つの区域に分かれている。1つ目はハナさんが客を迎えるために使う“渉外事務室”である。ガラスケースや暗い家具が置かれている。棚に多くの魔法理論の難解な本が並べられている。本の表紙はピカピカで新しく、読まれたことがないと確信できるほどだ。また、机の上に古代の有名な魔法師の小像が置かれている。明示的かつ暗示的な手段を使い尽くして、この場所の主人が魔法師であることを来者に感じさせる。
2つ目は、ハナさんが今いる区域、彼女の個人的な休憩室である。ここのインテリアは目が眩むほどに輝いている。本棚もテーブルも椅子も、すべて金で縁取られている。長毛のカーペットが敷かれており、たとえ血がかかっても見えないほど赤い。壁に20代の若い男性芸能人のポスターが貼られており、本棚に多くの香水が並べられている(魔法の書籍は見当たらなかった)。実際の行動を通して、この場所の主人が魔法の専門知識にあまり興味がないことを表現している。
ハナは同じ血のように赤いベルベットで覆われた金縁の肘掛け付きの寝椅子に横向きに寝ころび、「螺旋の尖塔の恋」という小説を手にしている。その本の表紙には満天の星の下、ハンサムな男魔法師と大きな目をした若い女魔法師が抱き合い、互いに見つめ合っている姿が描かれている。両者は切っても切れなくて、結ばれていなくても結ばれる運命にあるロマンスの雰囲気を作り出している。
本の物語は、魔法をかけるたびに爆発する無能な処女魔法師が、ある日ミスして有毒な煙を作り出し、研究室で気絶してしまった。その時、巻物開発会社のハンサムな社長が屋外にいて、彼女を救うために家に突入した。彼女はとても純粋で、命の恩人のためにすべてを捧げる。それで、彼らは寝た。それから、秘書とも主要な女性客とも(皆セクシーな美女で、肌の露出度が多い服を着ている。二人とも、「愛していない」と言っているが、独占欲が極めて強い)寝たことがあるこの社長は、彼の珍宝が女魔法師以外の誰に対しても反応しなくなった! 彼にとっては、女魔法師が必要不可欠な存在となった(不思議なことに、彼は自分が呪われているとは疑わなかった。両方とも魔法師なのに)。そこで、彼はあの無垢な女魔法師を追い求める。しかし彼女は、彼はプレイボーイだと知って、二度と会わないと心に決めた⋯⋯
ハナさんはカロリーゼロかつ満腹感があると言われる痩身クッキーを食べながら嘆息する、「なぜこの世界は、愛し合う人たちをいつも苦しめるんだろう?」
そのとき、ジコクは最後の区域──ハナの工房におり、ハナさんがやりたくない、法術と必ずしも関連しない事をすべてやっている。たとえば掃除のこと。
ハナさんの工房はジコクの魔法師の工房に対する想像を完全に覆した。以前、法術夜校で教科書を読んでいるとき、本の中の魔法師の工房には、いつも整然とした本棚と薬棚、滑らかな石製の四角い作業台、安全なコンロの上に重くて信頼性が高い大釜があった。
しかし、ハナさんの工房には、本棚がなく、魔法の関連情報が載っている紙が1枚もない。逆にジコクが床に少なからぬ人気商品のカタログを拾った。薬棚にはガラスの瓶が並べられているが、調べると、それらはただの普通のクッキーの瓶だった。法術材料の保存には国家認証がある貯蔵瓶を用いるべきだった! 中の材料の状態は悪く、湿った空気の中に何ヶ月も放置されたクッキーに似ており、とても使えない。
作業台の状態は特にひどい。おそらく素材に問題があるため、表面は長期間使用されて、傷だらけになっている。一部の溝の深さが1センチに達しており、溝に汚れがたくさん詰まっている。草の茎や血の塊や泥など、使用するたびにブラシで掃除せず、もう固まっている。そのような台の上で魔薬を作れば、材料が必ず汚染される。完成品がどうなるかは神のみぞ知る。
ジコクは赤煉瓦の壁に飛び散った不明なコーヒー色の汚れを見ながら、ハナさんの専門能力はこの工房と同じくらい問題が多いと疑い始める。
彼は壁際の大釜のそばに歩み寄った。少なくともこの物の外見は正常に見えた。この大釜の中には何かの物がある。もしその物が正常であれば、彼はハナさんが有能な魔法師であるのを認めることができる。
しかし、蓋を開けて、ジコクは大釜の中の物を二秒間見つめた後、すぐに釜を流し台に運んで、すべてを流してしまう。
鍋の中はもじゃもじゃしており、魔薬に赤・黄・緑の三色のカビが生えている! ハナさんは一体、いつから大釜を見なくなったのか?
大釜の処置を完了した後、ジコクは仕方なく手袋をはめて、まず作業台の掃除に取りかかる。彼はせめて汚染度を下げるようにしようと思い、太い針で傷跡の中の汚れをほじり出す。何度も何度も清掃して、およそ五番目の溝を清掃しているとき、一つの、約半センチの、灰色のわずかなアーチ型の薄片を拾った。その上に小さい黒い塊がある。
人類の完全な爪である、とジコクは一目でわかった。完全度が高すぎるため、爪を切っているときに誤って落としたものではないはずだ。
いろんな事を経験してきたため、ジコクは人体材料にこれ以上はないくらい精通している。彼は自分が間違える可能性があるとは思っていない。ジコクは、誰かがこの作業台を使用しているときに誤って爪を落としたからだと自分を慰めた。
彼は爪をゴミ箱に掃き込んで、作業台の掃除を続ける。
しばらく働いた後、ジコクはどしどしという足音が聞こえた。五秒後、ハナさんが扉をバタンと開けて、ジコクを睨みつける。ジコクは自分のやっていることを止めざるを得なかった。
「何をしてるのか?」
「掃除しています」ジコクは正直に答えた。これはハナさんの命令なのだった。
ハナさんはジコクのところに歩いてきて、ジコクがそばに置いた雑巾を拾い上げた。そして雑巾の汚水で顔をくしゃくしゃにし、雑巾を投げ捨て、「何か変な儀式をしてるじゃないか?」
「変な儀式とは何なのですか?」
「人身供犠、血で魔法を施すこと、邪悪なショニ語系魔法師であるお前たちがやる事だ!」ハナさんの様子は、まるで自分がジコクがそれらの事をしているところを捕まえなかったことに怒っているようにしか見えなかった。
相手が自分を雇った理由には、珍しい物を観賞したい成分が含まれていたのか、とジコクは疑い始める。
二年前まで、ジコクは全国を震撼させた邪教組織《黒夜教団》に所属していた。習った法術はすべて国家が禁止していたショニ語系の法術だった。でも、組織は滅ぼされて、ジコクは特赦された。今や彼は良民の身分だ。
「つまり、そんな事をこそこそとやってはいけない!」ハナさんはそう言って、扉をバタンと閉めた。
こそこそとやってはいけないけど、正々堂々とやってもいいのか、とジコクはそう思わざるを得ない。
ショニ語系の法術はもう解禁されており、今や禁断の法術ではない。しかし、邪教組織と関係があったため、ほとんどの人は今でもそれを悪の象徴と見なしている。
ジコクは腰周りにある薬材パックへ手を伸ばす。そのそばに大小2つの水筒袋がある。小さい方には水筒が入っている。彼は大きい方を開けて、タオルに包まれた長い棒状の物体を取り出した。開けて、中身は一本の短刀だ。その刀の鞘と柄は黒く、長さはジコクの指先から肘までとほぼ同じだ。外観は質素で、装飾が一切ない。
それはジコクの“祭刀”である。ショニ語系の法術の特徴の1つは、魔法をかけるための媒体として祭刀を使うこと、それに、“犧供”が主要な役割を果たすことだ。
ジコクは過去を思い出す。彼が昔居ていた場所でも、清潔な工房は入手困難で珍しい資源だった。手に入れるために、頻繁に血しぶきを飛び散らせるような争奪戦が起こった。そのためにジコクは廃墟などの場所を工房に改造することに慣れている。あるよく使った呪文が今役に立つ。
ジコクは役に立たない太い針とブラシを横に押しのけた。くず箱から一つの蛙の頭蓋骨と一握りの草の茎を探し出した。
詠唱の声が大きすぎてハナに聞かれてしまうことを心配して、彼は草の茎で基本的な法陣を構築し、音量不足によって失われた起動効果を補って、呪文を囁く、
「腐敗のアイフガイタツシ、再生の前兆、浄化の小道。頑固な石が泥に変わり、堅固な壁が崩れて塵に化す。散ってしまえ」
彼はショニ語で呪文を詠唱した。ショニ語とは、現代では既に使用されていない古代の言語である。この言語は難易度が高く、母音が多くて複雑だ。それに加えて様々なコロケーションの変化があり、リズムと口笛を含み、石が転がるように聞こえた。これは彼が《黒夜教団》で学んだ法術の言語であった。
呪文の詠唱をして、ジコクは蛙の頭蓋骨を草の茎の中央に置き、祭刀で上部を軽く突く。
それらの頑強な汚染源はゆっくりと黒くなった。そして、刀の先で触れると、黒い塊はすぐに粉々に砕けて消えてしまった。台の上には一片の塵も残っていない。
蛙の頭蓋骨も一緒に消えた。
今やこの作業台は汚れがなく、清潔で光沢がある。ただし傷が多いのでちょっと目障りだが、少なくとも今は汚染の問題はなくなった。まな板を置いたら使えるようになる。
アイフガイタツシの呪文は、もともと広い範囲の毒を取り除くためのものだが、このような小さな場所でも同様に有効だ。
魔法の施しが終わった。ジコクは祭刀を以前と同じように水筒袋にしまった。その後、法術で掃除した事実を隠すために、台の上に水を少し撒き、拭いたばかりのふりをした。
そして、棚の上のクッキーの瓶たちを整理し始める。ジコクは棚の埃を払いながら瓶のラベル面を外側に向ける。そのついでにハナさんが何の法術材料を持っているかを調べる。
チャヒ鳥の羽根──おかしいなぁ、チャヒ鳥の羽根はすべてロイヤルブルーじゃないか? なぜこの瓶の羽根は水色で、はるかに安いダウヒ鳥の羽根と似ているのか?
バイキ球茎──バイキ球茎の特徴は黒い斑点があることだが、なぜこの球茎は黒い筆で表面に斑点が描かれていて、バイキ球茎に偽装されている普通のニンニクみたいに見えるのか?
ズズ蛾鱗粉──これは絶対にズズ蛾鱗粉ではない。光を反射しないからだ。チョコレートドリンクの粉によく似ているから、ジコクは思わず瓶を開けて匂いを嗅ぐ。湿ったチョコレート粉の匂いが顔に漂った。
一つ一つ瓶の中身を調べると、多くの材料のラベルと内容が一致していないという問題があったが、少なくともちょっと微妙に似ている。少なくとも、ストロベリークリームウェハースなど、素人でさえこれは法術材料ではないと見てわかる物は、ジコクには見当たらなかった。
ジコクは一つのラベルのない瓶を取り上げて拭く。ガラス越しに見ると、瓶の中には茶色・赤・黒・金さまざまな色の長い髪の毛の束があった。その光沢と質感から判断すると、人類の髪の毛のはずだ。
棚を拭き終えてから、床を掃き始める。ジコクは丁寧に隙間に箒を伸ばす。予想通りに大量の埃が出てきて、小さい紙片も現れた。ジコクは大事な書類かと心配し、拾い上げて読むと、それは領収書だった。見覚えのある品目がたくさん載っている。
チャヒ鳥の羽根、一枚は金貨五枚──市価は銀貨一枚だろう?
バイキ球茎、300グラムは金貨十枚──いつも10キログラム入りは50銀貨くらいで売っているじゃないか?
ズズ蛾の鱗粉──1グラムあたり二金貨の価格は高すぎるけど、驚くべきことに、取り消し線を引いて四金貨に書き直した!
ハナは騙されたのか、それとも知りながらも材料業者にこの値段を払ったのか?
考える暇もなく、門の方から物音がした。ジコクは素早く紙片をポケットに詰め込んで、埃をゴミ箱に捨てた。
工房の扉が開いて、ハナさんが大きいプラスチックの箱を持ってきて、作業台の上に直接投げた。箱の中の泥水が飛び散り、掃除したばかりの隙間に染み込んだ。
「これらの蛙をすべて殺して、適切に処理しろ」ハナが言った。
ジコクは箱を見ると、広げた手のひらサイズの蛙が十五匹入っている。ジコクは素直に蛙を殺し、内臓と皮と肉を分類する。ハナのせいか、業者のせいかわからないが、十数匹の金糸の蛙を扱った後、意外にも箱の中に二匹の青糸の蛙を見つけた。金糸と青糸は魔法的使用の効果が大きく異なり、混ぜることができない。だけど、ハナさんの保存方法通りにしては、純の材料もすぐに同じように使えなくなるだろう。
家庭魔法師は様々な魔法師の職業の中で最も玉石混交な業種だ、とジコクはかつて聞いたことがある。一般の人は魔法師の能力を判断する方法を知らないので、家庭魔法師は常に口先だけで仕事をする。綺麗な学歴を持つ、あるいは法螺貝を綺麗に吹けるだけで、高い給料を得ることができる。
法術が効かない場合は、嘘をつき、簡単な法術を空に登るほど難しいと述べて、失敗を正当化する以外に、「別の家庭魔法師に妨げられているためだ」という万能口実も使える。
噂によると、ある家庭魔法師たちは毎日数時間幽体離脱するそうだ。天界や霊界などの、まばゆい名前を持つ場所で別の家庭魔法師と戦うと言っているが、実際にはただの居眠りだけだ。
ジコクの仕事の初日の観察から、ハナさんは恐らく最も質の低い家庭魔法師のグループに属している。
ジコクは2匹の青糸の蛙をポケットに詰め込んで、遅い時間に放生する予定だった。