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無い道に一歩踏み出した、ある愚かな少女の末路

もう一つのIF、今度は蒼華サイドの「もう一歩」です。

 その背中を押したのは、黒く陰鬱な衝動だった。

 

 なにか、狙いがあったわけではない。


 そこに論理的な思考はなく、そこに納得できる理由はなく、そこに感情と呼べるほどまっすぐな欲求は一切ない。

 ただどうしても、自分の生きる価値、自分の存在の値段を、知りたくて知りたくて仕方がなかった。

 

 身勝手だと、思わなかったわけではない。

 自分は異常だと知っている。自覚なき異常性を、理解したくもなかったのに周りに勝手に思い知らされて、いつしか、開き直るようになった。


ーー私は異常だから、何をしても不思議じゃない。


 その歪みきった解釈は、彼女の人生の基軸となる思考形態を、ヘドロよりも澱んだ汚濁で作り上げた。

 「おかしい」を「おかしくない」と考える、その矛盾を抱えた生き方は、罪と言えるのかもしれない。


 それを償うつもりはない。それを悔やむ理由はない。


 その自信が、その自覚が、彼女の足を、もう一歩だけ先に進ませた。


 羽よりも軽く、この先に広がっている、彼女自身では観測できない「可能性」への期待に胸を躍らせ、何かを解放するように、地獄に続く彼岸へと歩みを進めた。


 その胸中は清々しい気持ちでいっぱいになり、最期のこの瞬間だけ、世界を素晴らしいと思えた。


 「私」はこの一歩を踏み出したことをーー
















 どうしようもなく、後悔している。





 まず最初に感じたのは、背中を押される感触だ。

 蒼華はそのままバランスを崩し、前へと倒れ込む。

 何が起こったか理解する間もなく、彼女はアスファルトの上へと投げ出され、両腕を擦って傷をつける。


 ーーぐしゃりと、不快な音が鳴ったのはその直後のことだ。


「……え」


 両腕がズキズキと痛むのを感じながら、彼女は振り返る。

 そこでは、奇妙な光景が広がっていた。


 前方が僅かに凹んだ車の中から、おそらく夫婦であろう二人の男女が出てきて、ひどく狼狽した様子で騒いでいる。

 周りにわらわらと人々が集まってきて、スマホを取り出して撮影したり、どこかに電話をかけたり、多様な行動を見せている。

 まるで蒼華など存在していないかのように、彼らは勝手に動いていく。


 その喧騒の中に、彼の姿はなかった。


 喧騒がどんどん大きくなり、サイレンの音が近づく中、彼女はその場から動かず、状況を理解できないままーー


「ーー」


 道路に転がる、一つの赤黒い肉の塊から、視線を離せないでいた。





 ようやく状況を飲み込めたのは、彼の葬式中のことだった。

 真っ白な四角い直方体の箱の中で、ツギハギだらけの彼が、寝かされていた。


 穏やかな表情になるようにされていたが、彼女は知っている。「その」瞬間の彼の顔を。

 目は見開かれ、まるで涙のように血を流す、彼の姿をーー


「ーーっ」


 左腕を抱いて、震えを止めようと努める。しかし、両腕が一緒に震えてしまっては意味がない。

 彼女は自身の過ちを理解して、震える全身、その渇ききった口を開いた。


「違う」


 そこには無理解があった。そこには思考の放棄があった。

 過ちから逃げようとして、それでも逃げきれなくて、嫌でも「過去」が追いかけてきて、そうして「今」に追いついて。


「違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う」


 否定したかった。逃避したかった。

 これは夢だと笑って、目を覚ますとベッドの上で、やっぱり夢だったと安心して、学校に行けばいつも通り、彼がため息をついて迎えてくれてーー


 「嫌だぁっ……」


 そんな幻想を、目の前で眠るただのタンパク質の集合体が、真っ向から否定した。





 いろんな人に責められた。


「あいつのせいで人を撥ねることになった」

「あいつのせいで息子が死んだ」

「あいつのせいで友達が死んだ」

「あいつのせいで生徒が死んだ」


 自分がどんな対応をしたかは、あまり覚えていない。

 ただ、何か取り返しのつかないことをしたということだけは、理解できた。

 蒼華自身も大きなダメージを、否、大きすぎるダメージを負った。

 それは『爪痕』なんて生易しいものではなく、彼女の心に風穴を開け、その機能を殆ど停止させた。


 葬式から一ヶ月、味覚が完全になくなった。


 何を食べても味がせず、自分がやっていることは無意味なのではないかと思うようになった。

 元々なかった楽しみがマイナスに突入し、いつしか食事が嫌いになった。


 ーー食べても味がしないなら、いっそこのまま餓死してしまいたいーー


 そう考えたこともあった。


 葬式から二ヶ月、嗅覚が完全になくなった。


 もはや彼女にとって、薔薇の香りも、腐りきった卵の臭いも、どちらも変わりはない。

 食事の時に辛うじて感じられていた嗅覚すら消失し、本格的に食事の意味を見失った。


 ーーこれなら、うっかり致死性の毒ガスを吸っても、気づかないなーー


 そう考えたこともあった。


 葬式から三ヶ月、彼女から気力というものが消えた。


 彼がいない毎日、味方のいない毎日、安らぎのない毎日。心がどんどん削り取られて、残ったものはきっと親指の先に乗せられてしまうほど小さい。

 

 ーーうごきたくない。めんどくさい。しょくじもかいわも、こきゅうすらもめんどくさいーー


 そう考え続けている。





 そうしてついに、彼女は自由を得た。

 

 彼女は穏やかな表情をしていた。


 糊で貼り付けた微笑みに、ベタ塗りされた瞳。足取りは真っ直ぐすぎて、電柱にぶつかってしまう程だ。


 帰宅した彼女には、居場所はなかった。

 両親が見せるのは上辺だけの心配と、上辺だけの愛情。

 どこか疎遠になり、会話なんてしないのが当たり前になった。


 彼女は今、あるマンションに住んでいる。


 七階にある一室、1LDKの部屋で細々と暮らしている。


 ある日、彼女は一人になった。両親は仕事でおらず、一人で過ごせる、自由な時間を得た。


 彼女は窓に手をかけ、ベランダに出る。

 下を見下ろせば、ミニチュアの世界を見ているかのような気分になる。

 

ーーここからなら、死ねるだろうか。


 かつてのあの日と同じように、甘美な囁きが心中に響く。

 もはや、自分が死んで悲しむ人間は残っていない。むしろ、いい気味だと嘲笑するのではないだろうか。


 柵を乗り越え、風をその全身に受ける。気持ちがいい。


 後ろを向いて、両腕を広げる。


 ーーどうか、あの世で彼と会えますようにーー


 そんな図々しい願いを抱いて、直後に浮遊感が彼女を包み込む。柵がどんどん遠のいていき、自分が浮かんでいるかのような錯覚を覚える。


 衝撃が、彼女の体を貫いた。





 あの時と同じ喧騒が、彼女の周りを囲んでいた。

 慌てふためいてスマホを取り出し、写真か動画か、わからないがとにかく記録に残そうと躍起になっている。


 あの時と同じように、彼らは十人十色の反応を見せる。


 結局、変わらないのだ。


 人はみんな身勝手で、誰しもが誰かの「異常」で、多数派かそうじゃないか、ただそれだけで弱者が淘汰される。


 ある一人の命を以て、それは証明された。


 しかし、一つだけ、あの時と違うのは……







「ーー痛、いよぉぉぉっ……」


神は、少女を赦してなどいなかった。

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