夫の定年退職
※しいなここみ様主催『麺類短編料理企画』参加の一品です。
※昔のエッセイ『カレー好きだからこそ』(N8582HP)の小説アレンジになります。
夫の正一が定年退職して1か月。
春枝のストレスは、早くも限界近くまで膨れ上がっていた。
別に夫婦仲が悪かったわけではない。慣れないながらも、家事を手伝おうとしてくれるのもありがたいとは思う。それでも、夫が毎日ずっと家の中にいるというのは、こんなにも息が詰まるものなのか。
せめて、何か趣味でも見つけて外出するようにしてくれたら、その間は気が休まるのだけど。
でも、ずっと無趣味だった正一は、毎日テレビを見たり本をぱらぱらとめくったりして、手持無沙汰そうに日がなごろごろしているのだった。
『お祖父ちゃん、長い間お疲れ様でした!』
息子たちふたりの休日が合ったので、その家族たちが集まって正一の定年祝いの席を設けてくれた。
料理はふたりの嫁が持ち寄ってくれたので、特に用意をしなくて済む。息子たちには過ぎたいい嫁たちだ。たまに来てもひとりでゲームばかりしている孫たちも、さすがに今日はちゃんと食卓について話に参加してくれている。
「母さん、どう? 父さんがずっと家にいるようになって、うっとうしいんじゃない?」
お調子者の長男がからかうように訊いてくるけど、本音なんて言えるわけがない。
「あら、そんなことないわよ。よく家事も手伝ってくれるし」
「へえ、あの仕事人間の父さんがねー」
そう言った長男は、何やら切り出そうとしているようにも見える。
「でもさ、これからは父さんも何か趣味を持った方がいいと思うんだよ。そこで考えたんだけど──」
そう言って、長男が後ろに隠していたダンボール箱を取りだした。
そこに書いてある文字を見たとたん、春枝は顔から血の気が引くのをはっきりと感じた。よりにもよって、何ていうものを持って来てくれたのか──!?
そこに書いてあったのは『誰でもカンタン! 蕎麦打ち入門セット』の文字。
「これ、定年祝い。やっぱり男が定年後に始める趣味と言えば、蕎麦打ちだよね。ふたりとも蕎麦好きだから、ちょうどいいかと思ってさ──」
得意げな長男のセリフが、なんだかはるか彼方から聞こえるような気がする。
──確かに、蕎麦打ちにハマる中高年男性が多いのは知っている。正一が何か趣味を持つのはいいことだと思う。
だけど、それにつき合わされるこちらの身にもなってほしい!
「おお、蕎麦打ちか。そうだな、ひとつ挑戦してみるか」
マズい、正一までその気になり始めている。今止めなかったらもう手遅れだ、鬼になるのは今この瞬間しかないっ!
「ちょっと待って。私は試食にはつき合わないわよ。絶対にお断り」
意を決した春枝の強い言葉に、皆が唖然とする。
「え? 母さん、蕎麦は好きだったよね?」
「蕎麦好きだからこそ、よ。素人が作った美味しくもない蕎麦をしょっちゅう食べさせられるなんて、まるで拷問だわ。
それにきっと、食べて批判なんてしたらお父さん絶対不機嫌になるもの。だから、今のうちに言っておくの。
試食も当分は自分だけでやってちょうだい。私を満足させるようなものが出来たと思えたら、その時は食べてあげるわ」
「うーん、そうか……」
正一がしょげ返ったのを見て、長男が抗議の声をあげる。
「母さん、それはあんまりだよ。ちょっとはつき合ってあげたっていいじゃないか」
「なら、あなたたちが来る時に、必ずお父さんのお蕎麦をふるまうようにしようかしら?」
春枝がそう言うと、長男は口ごもってしまった。
「いい? 『やるな』とは言わないわよ。
──そうね、蕎麦打ちの教室に通うんなら、その分くらいは家計から出してもいいし、大いにやってちょうだい。
でも、自分の趣味に周りを巻き込むのはダメよ。それなりの腕になるまで、周りに試食を頼まないこと。いいわね?」
さあ、これで皆にもわかってもらえただろうか。
春枝がぐるっと一同を見回すと、次男が何やら気まずそうな顔をしているのに気付いた。
もともと寡黙な子だけど、そう言えば先ほどからひとことも発していない。
春枝が何か言いたいのかと目線で尋ねると、次男はおずおずと口を開いた。
「あー、いや、僕も定年祝いを持ってきたんだけどさ、これもやっぱりマズいよね……」
そう言って取りだした箱に書かれていた文字は──『オリジナル・カレーを作ろう! 調合用スパイス基本セット』。
──性格は真逆なのに、こういうところだけはなぜかよく似た兄弟であった。