指先への祈りと誓い
ヨハンは神殿を頻繁に訪れるにも拘わらず、この場所があまり好きではなかった。もちろん、多くの人々がそうしているように信仰の印を肌身離さず、朝晩の祈りの言葉を欠かした事もない。子供の頃は屋敷の近くにあった礼拝堂へ足繫く通い、司祭の言葉に耳を傾けていた。
大人になった今、足を向ける先は王都郊外にある、古い尖塔をいくつも有する特別な場所だ。各地に点在する、人々の交流や憩いの場を兼ねている一般的な神殿とは趣が異なる。
高位の祭司達や、そして三年ほど前に選出された今代の聖女、ヨハンと親しい間柄のイリットが身を置く、特別な神殿であった。
ヨハンは国内屈指の勢力を誇る公爵家の者として王宮に仕え、現在は宰相付き補佐官という、上級官吏の端くれに名を連ねている。その肩書ともう一つ、彼女の退屈を紛らわせる存在として、定期的に中へ入る事を例外的に許されていた。
内部は整然とした場所である事は確かだ。職務、もしくは何らかの式典の会場として通されれば、毅然と背筋を伸ばして応じたに違いない。
しかし、やはりヨハンはこの場所があまり好きではなかった。一歩足を踏み入れただけでひしひしと伝わってくる、外界との隔絶や、神殿に所属する者に特有の、俗世で暮らす人々への、冷笑的な眼差しが向けられるのを感じてしまう。
今日は庭園の東屋らしき場所に通され、ここで待機するように告げられた。神殿の建物と同じ古い石造りで、座る場所にはひんやりとした空気が漂っている。
定刻に、聖女の身の回りの世話をする女性達が先に姿を現した。全員が女性である。彼女達も浮世離れした雰囲気であり、こちらに冷ややかな眼差しを向けながら、ヨハンに対し形式的な歓迎の意を示した。
その後でようやくイリットが、その中の一人に手を導かれるようにして現れた。普段見慣れている、貴族女性達のような美しく着飾るためのドレスではなく、身体の線をあえて隠すような白と濃紺の祭司服と、生花で作られた冠が許されている。
世話付きの女性達はイリットが席についたのを確認し、お茶とお菓子の準備と説明を始めた。そっと彼女がカップを手に取ったところで、しずしずと去っていた。
「……あのように愛想のない者達に世話を焼かれても、気まずいのでは?」
「それはあなたの目があるからですよ。誰もいないときは結構、みんなお喋りです。あなたの噂話は人気ですし、普通の年頃の娘さん達と変わりませんよ」
へえ、とヨハンは気のない相槌を打っておく。一方、軽く湯気の立つカップを冷ますのに集中しながら、相好を崩したイリットは苦笑を浮かべた。
「家柄よし、人柄も評判なのに浮いた話は一つもないとなれば、仕方がないのでは?」
こちらをからかうような、窘めるような口調は笑い方は昔と変わっていなかったので、少しだけ安堵したような気分になった。
ヨハンにとってのイリットは神殿に身を置く聖女ではなく、十二の歳まで領地の同じ屋敷で暮らしていた、姉のような妹のような存在である。血縁はないが、公爵家は彼女に対し、本家の四人の子供と同等の庇護を与えていた。
「こちらの話はどうでもいい。どうせまた退屈しているだろうと思って」
「ああ、すごく助かる。ヨハンが持ってきてくれる本」
忘れないうちに、とヨハンは見繕ってきた本を数冊、東屋のテーブルの上に持ち出した。近況を尋ねれば変わりなく、と会話を広げる気遣いの薄い返事である。どんな本を持って来たのかとそればかりしつこいので、題名と簡単なあらすじを教えた。彼女が昔から好き好んで目を通していた、大衆向け、子供向けの娯楽小説が大半である。ヨハンが軽く読み込んで、結末が優しいものを選んであった。
ヨハンは物語と現実で明確に線を引き、内容が気に入らなければ早い段階で見切りをつけるのに対し、イリットは結末が気に入らないと腹を立てたり、落ち込んだりする類の人間である。
「……以前のようには本が読めませんからね。同じ本を繰り返し読んで欲しいとは頼みにくいですし。まあ退屈ですけれど、これは内緒にしてくださいね」
「あんなにたくさん世話役がついているのだから、交代制にできないのか」
「私、わがままなので本の内容によっては途中で撤退するのですけれど、さすがに八割超えてから離脱したいとは言えませんからね」
この間読んでもらった本が、とイリットは珍しく饒舌に話を切り出した。ヨハンではなく、神殿の祭司の一人が読書好きのイリットに気遣い、差し入れてくれた本だったらしい。
小さなお話がいくつも連なった形式で、意地悪で怠惰な、いつか音楽家として大成するのだと口ばかり達者な魚が主人公。そして彼の大言壮語を真に受けて、将来の偉大な音楽家と信じ込んでいる、健気なヒトデの女の子のお話だったそうだ。話を聞く限りでは子供向けかと思いきや、人間社会を皮肉ったような内容だとイリットは説明した。
「そこまで読んだのなら、自分で読み進めた場合だとしても、時間と労苦がもったいないだろうに」
「残りの三割を切ったところでね、主人公の意地悪な魚をかばって、お友達のお人好しのヒトデがサメに食べられたんです。彼女が一番好きだったから、悲しくてね」
ヨハンに先に読んでもらっておくべきだった、と彼女は残念そうに呟く。ヨハンは一緒に暮らしていた頃のイリットが、一番初めに頁の後ろの方を確認してから内容を読み始めるくせがあったのを思い出した。
今のイリットは、そんな些細だった楽しみにも難儀しているのである。聖女として選ばれ、儀式を経てその力をふるう代償として、視力を失ってしまっていた。
まだ子供だった頃のイリットに、ある日迎えがやって来た。立派な四頭立ての馬車には、領主様の旗が誇らしげに翻っている。中から杖を手にした紳士が下りてきて、ぽかんと立ち尽くしているこちらに、優しく手を差し伸べた。
今まで辛かったね、もう叔父さん達にびくびくする必要も、慣れない畑仕事に追われる必要もない。これからはお姫様のように暮らせばいいのだと、連れて行かれた先は街にある領主様のお屋敷の一つだった。
到着したらしく動きを止めた馬車の窓をそっと覗いてみると、同い年くらいの子供や使用人らしき人々の姿が見えた。領主でもある公爵曰く、四人いる子供のうち、末っ子のヨハンだそうだ。彼は王都にある寄宿学校に通える年齢になるまでの間、ここで暮らしているらしい。
「この子は何ですか、父上?」
ヨハン少年は剣術か何かの授業の途中だったのか、練習用の木剣を手にこちらへ走り寄って来た。
彼は軽い足取りでこちらへやって来て、馬車から降ろされておろおろしているイリットをじっと見つめた。誰、ではなく何、である。黒髪の、利発さと活発さを兼ね備えた少年はまさしく、大きなお屋敷で、使用人達に傅かれるのに相応しい、王子様であった。
「ヨハン! 失礼のないように。まさかまた、先生を困らせているのか?」
父親である公爵の叱責に、ヨハン少年は肩をすくめた。はあい、と間延びした声と表情は即座に消えうせた。代わりにいかにも上流階級の子供らしく、礼儀正しく一礼して微笑んで見せる。
「ヨハンです、はじめまして。早速、あなたのお名前をお聞かせ頂けますか」
対するイリットは朝早くからの畑仕事でまだ大汗をかいたまま、腕も靴も泥だらけ。髪だって紐で結んだだけで、話し方も礼儀作法も一つもわからない。イリットです、と辛うじて名前だけ口にした後は差し出された手をどうしていいかもわからず、ただうつむく事しかできなかった。
「……今日はイリットも疲れているのだ。しばらくゆっくりして、ここでの暮らしに慣れたら遊んでもらいなさい」
はあい、とまた間延びした返事に戻ったヨハンは、イリットにまたねと声を掛けて、指南役の元に戻っていった。
イリットは思い知った。いくらお屋敷できれいな衣装に身を包んだからと言って、急にお姫様になれるわけではない。イリットは次の日から、家庭教師の先生につきっきりで面倒を見てもらった。そうでなければ、公爵やヨハンのような人達と一緒に過ごせるような気がしない。食事も何かと理由をつけて部屋に運んでもらい、一人で食べた。
ひと月以上経ってから、イリットはいつもは優しい家庭教師の先生に背中を押されて、ようやくヨハンと再会した。
「どうして会ってくれなかったの? 同じ屋敷にいたのに」
「……ねえ、私、何かおかしくない?」
「え? 特には」
「……そう」
屋敷に来て以来、しばらくぶりに顔を合わせたヨハンは案の定、怪訝そうな顔つきだった。特におかしいところはないと言ってもらえたイリットが、心底安堵している様子を前に、いつまでも首をひねっていた。
屋敷へ引き取られて数年が過ぎた頃になって、イリットは公爵に執務室へと呼ばれた。家庭教師の先生が一緒に来てくれた。
実は、と公爵は声を潜めた。イリットを屋敷に引き取ったのは、神殿の託宣があったのだと言う。国境の東に、人間を決して近づけない深く特殊な森林が広がっている。《魔の森》と呼ばれる場所と接している国々はいずれも、土地や水源を汚染する有毒な瘴気と、溢れ出る魔物達への対応を余儀なくされている。
この国では神殿が浄化の魔法を扱う事のできる女性を神殿に迎え、国土と人々の安寧を保っていた。他所では魔法の素養の高い人間を血眼になってかき集め、人柱のように送り込んでいるような国もある。また別の場所では貴族のような特権と階級を与え、競わせるように前線に送り込んでいるような国もある。
それに比較すれば随分と軽い負担で済んでいる、と公爵は強調した。
魔法の詳細は公にされていないが、行使するためには特別な女性が必ず選定される。イリットもそのくらいは知っていた。今回は国内で十人弱が候補として集められ、その中で最も優秀とされた一人が、次の聖女として選ばれる。役目を果たしている間も引退した後でも、これまで通りの生活水準が必ず保障される。
もう少ししたらイリットは王都の神殿へ送られて、他の選ばれた少女達と過ごす事になる。中の規律は厳しいけれど、家族との連絡や面談は希望すれば承認される。候補として神殿に選ばれる事は大変な名誉であり、貴族階級の者であれば社交界へ出た後も周囲から一目置かれ、格上の家との縁談に繋がるのだとか。
「ヨハンは……」
「もちろん、これまで通り」
話は以上だと公爵は切り上げた。ヨハンは知っているのかを尋ねようとして、上手にはぐらかされたような気がした。
やっと、イリットは腑に落ちた。血縁もない農夫の子供が公爵閣下のお屋敷で、お姫様みたいに暮らせる道理があるわけがない。その理由がやっとはっきりしたのである。ヨハンが何一つ気にした様子もなく接してくれるので、意識の隅に追いやられていただけだった。
「父上は何だって?」
「……まあ、色々」
書斎で待っていたヨハンのところへ戻ったイリットは、彼の視線を適当に流した。ここで二人して何をしているのかと言えば、コインの投げ上げとカードを使った二者択一の確率を延々と試行していた。イリットは彼に頼まれて、羊皮紙に結果を書きつけるのを手伝っていたところだった。
ヨハンは気楽な四男だと自ら言いふらしているが、実際はかなりの負けず嫌いだった。イリットの誕生日がひと月ほど先なだけで面白くないらしく、また背比べでも数年がかりの争いが続いている。彼が乱暴な気質であればもう少し揉めたに違いないが、幸いにも彼は基本的には気のいい少年だった。
二人の友情のような親愛のような関係は、彼の気の良さで奇跡的に成り立っていた。
今日のヨハンはイリットにトランプゲームでさっぱり勝てない事を不審に思い、簡単な確率の試行を繰り返しているというわけだ。
「……ほら、コインは裏と表で回数はちょうど半分でしょ。つまり、負けたのを強く覚えているだけなの」
じゃあ勝負、とヨハンが机上のコインを手に取って表、と宣言してから投げると裏だった。イリットが手渡された硬貨を裏、と投げ上げてみると、その通りの結果だった。彼は渋い顔をしている。
「『勝負強い』『今日はついてる』って言葉があるのだから、神様に好かれているとか、反対に嫌われているって事なのでしょう」
「神様が逐一、くじ引きやコイン投げの結果に干渉してるって事? イリット」
そういう事じゃなくて、と揚げ足を取ったヨハンを窘めた。
「そんな捻くれた言い方をするから、神様はヨハンの味方をしてくれないのよ」
「貴重なお休みの日の午前中を、わざわざ神殿に行って過ごしているのに? そりゃないよ」
「賭け事には絶対に近づかない事ね。きっと破産してしまうでしょう。大体、お話が終わった後に他の子達と遊ぶのが楽しみなくせに」
「あれ、なんだ知っていたのか。父上には内緒でよろしく」
イリットが領地の屋敷から王都の神殿へ旅立つ日取りから半年程度遅れて、ヨハンも来年の秋から王都の寄宿舎学校へ入る事が決まっていた。彼はてっきりイリットを置いて領地を離れる事になるだろうと思っていたらしい。
イリットはヨハンが、屋敷の家令に文句をつけているところに出くわして、とっさに廊下の影に隠れた。
「夏まで待って、一緒に行けばいいのに。手間じゃないか。使用人のみんなだって、仕事が一回分増えるのではないの?」
「イリット様もヨハン様も、もう子供ではないのですから。それは、ご自身が一番よくおわかりでは?」
聞こえたのは家令が、不満そうな彼を諭そうと試みている声だけだった。ヨハンが結局、何と応じたのかはわからずじまいだった。
その後、イリットは生まれ故郷を離れて正式に、神殿へ身を置いた。事前に聞いていた通り規律は厳しく、同時期に神殿へ集められた少女達はいずれも良家の子女揃いだと耳にしたので不安は募った。けれど幸いにも、付け焼刃でも公爵の屋敷で学んだ成果はあったようで、表立って嘲笑されるような事はなかった。
遅れて王都へ到着し、寄宿学校へ入ったヨハンも、月に一度程度は顔を見せに来てくれたので、素直に嬉しかった。こっちには面白そうな新しい本がたくさん、と彼は顔を合わせる度に気を遣ってくれた。
異変が起きたのは数年が経過し、そろそろ集められた中から、最終的な判断が下されるのではないかと噂が流れ始めた頃だった。
その日、やって来たヨハンは様子がおかしかった。どうしたのかと尋ねると、彼は重い口を開いた。
「もし最終的に聖女に選ばれた場合、何が起きるのか、どこまで知っている?」
他の国々があの恐ろしい浸食を食い止めるのに多大な犠牲を払っているのと同じように、この国の神殿が選定する聖女にも代償がある。それは生命を削るようなもので、過去の記録では四肢の感覚や五感や内臓機能がその地位にある間、失われるような結果になった者が多いらしい。機能は数年で回復した例もあれば、役目を退いた後になっても長い時間がかかる場合もある。
そして最初から、特に問題がなければイリットが選ばれる事になっていた。大勢候補が集められているのは形式に則っているだけなのだと、ヨハンが蒼白な顔で真実を打ち明けた。
公爵の話や、神殿で学んだ範囲では、そこまで重い負担があるような言い方は決してされなかった。しかしヨハンの顔を見れば、誰の話が一番真実に近いのかは、火を見るよりも明らかだった。
それでも、自分の発した声は思ったよりも冷静だった。
「……私の方がヨハンより先に生まれたのですから。泣きわめいたりはしません」
いつかもこんな風に、ヨハンと喧嘩になった事もあったと懐かしく思い出された。
「普通の、畑を耕しているような農夫の子供が、どうして領主様の屋敷へ招かれて、お姫様のような暮らしが許されたと思うのですか。取引きがあったに決まっているでしょうに」
理屈は半ば、自分に言い聞かせるようだった。ヨハンのような気のいい友人であり、兄とも弟のようにも慕い、穏やかに過ごせた時間を思えば、彼の目の前で醜態を晒すような話ではないのだと。
「お願いですから、そんな泣きそうな顔をなさらないで。こっちまで泣きたくなります。あなたの前なので絶対に泣きませんけどね。それに仮に身体に差し障りが出たとしても、神殿と、公爵家の名が私の事は守ってくれるでしょうから、何も心配要りませんよ。なんとかなります」
黙ったままのヨハンの顔を見ようとして、かつては同じくらいの目線だったのに、随分と見上げるような格好になってしまった事に気が付いてしまった。彼は随分と立派な青年になってしまって、対する自分も恥ずかしくないようにと、できるだけ落ち着いた声を意識した。今から相手に打ち明ける言葉には一切の嘘偽りも、強がりもなかった。故郷を離れてから既に自覚していた感情だった。
「ねえヨハン、きっとこの先には公爵家の者として、まだまだ仕事があるのですから。そのために、大好きなあなたの人生を守るためなら、私は命を投げ出したって、少しも惜しくはないの」
「父上は仲良くしなさいって言ったのに、ちっとも会ってくれないや。嫌われるような事をしたかな、僕」
子供だった頃のヨハンは指南役に尋ねた。ちょうどイリットの世話をしているメイドが通りかかったので、彼女がどうしているかという話題から、自分の事を何か言っていなかったかどうかを尋ねてみた。すると、まだ若いメイドは周囲を見回してから声を潜めた。
「……内緒にして下さいね。ヨハン様があんまりにも恰好良くて王子様みたいだったから、恥ずかしくてとてもお喋りなんて、とおっしゃっているそうですよ」
可愛らしいですよね、と口の軽いメイドはヨハンに意味ありげな目配せをして、仕事に戻って行った。
「へええ、やりますねヨハン様。少しも真面目に授業を受けないのに」
「……え? 今の話、本当なの? 絶対に嘘でしょう」
「嫌だなヨハン様。男なら狼狽えず、どんと構えないと」
兄の紹介でヨハンの相手を仕事にしている気安い指南役に散々からかわれたので、ヨハンはその日の終わりまで一人でむくれていた。
ちなみに屋敷でイリットと普通にやり取りができるようになった後も、この時の話には一切言及されなかったので、ヨハンはイリットの証言は常に疑う事にしている。
でも、一応とりあえず彼女には優しくしておこう、とそれだけは心に決めておいた。
ヨハンは四男なので気が楽、というのを最初に言い出したのは一番上の兄だった。兄なりに長子として父から厳しくされていて、まだ言葉の意味もよくわかっていない末の弟への八つ当たりだったのかもしれない。
後になって世の中の、一番上の子供だけが家の財産や爵位を継ぎ、次男以下はどこの家でも早めに身の置き方を考えなければならない。その仕組みを、ヨハンは良くも悪くも重要視されない子供である事を理解した後も、なんとなく残ってしまった口癖を、わざわざ咎めるのはイリットだけだった。
「あなただけの成すべき使命が、世の中には必ずあるのです」
イリットは真剣に、少々恥ずかしくなるような台詞を熱く語った。神殿で覚えたのか、それとも時間があれば読み漁っている本の受け売りなのか、イリットはヨハンに繰り返し言い聞かせた。ここで茶々を入れると本気で怒るので、ヨハンはいつも悪かったもう言わない、と先んじて謝罪しておいた。
大人になったヨハンが神殿を尋ねると、何故かいつもとは違う対応だった。案内されたのは東屋や応接間ではなく、神殿の奥だった。医務室です、とそっけない案内役の女性に通された先、窓際の寝台のふちに、イリットが腰かけていた。
彼女の目元に分厚く、包帯が巻かれているのを見て、ヨハンは寿命が縮むような心地がした。
「ヨハン、違うんです。ちゃんと説明しますから、大人しく話を聞いて」
目が見えていなくても、凍り付いたヨハンの気配を感じ取ったらしく、イリットが慌てて話を始めた。彼女は今朝、いつもの習慣として外に出て風と陽の光に当たりながら、朝食を待っていたらしい。
「その時にどうやら、何の気なしに太陽を、その方向を見てしまったんです。それで目がちかちかして。先生が処方してくれた目薬がちょっと沁みた程度です」
「それは、つまり……?」
「少しだけ戻ったようです。見るための能力が」
「……本当に、心臓に悪い」
ごめんね、とイリットは珍しく素直に謝った。すっかり毒気の抜かれたヨハンは寝台横に置かれていた、背もたれもない丸い椅子にふらふらと頼った。本気で寿命が縮む思いだった旨をこんこんと諭すと、彼女は珍しくしおらしい態度で聞いていた。
「イリット、私は神様に嫌われているから思いつき次第、片端から手を付けて行っても、まだ指の間から逃げられるような気がする。悪い予感はいつも当たるし、勝ちたい時には絶対勝てない」
父から神殿へ入ったイリットの、本当の話を聞きだした時。ヨハンは引き留める事も、彼女を連れて逃げ出す事も、腕に抱く事もできなかった。
また、子供の頃に山ほど試したコイン投げやカード引きではずれを引き続けた、指の間を幸運がすり抜けていくようなひやりとする感触。あのどうする事もできない無力感を、ヨハンは彼女と顔を合わせる度に思い出してしまう。
「私は別に、指の間から逃げたりはしませんよ」
「さてどうだったかな」
「神殿に所属しているのですから、励ましの祝福くらいはできます」
イリットは都合が悪いのか急に話題をそらし、咳ばらいをして後で静かな声と共に、ヨハンの指を一つ一つ順番に労わるように触れながら、神殿で司祭が用いる祈りの言葉を紡ぐ。健やかであるように、幸福であるように、未来が明るいようにという耳に馴染んだ言葉の羅列を、ただ黙って聞いた。
それがひと段落した後で、ヨハンもここへ来た用事をようやく思い出した。
「イリットが読んだ本、最後まで読んでみた。友達のヒトデは最終的には死んでなかったというか、よみがえったというか、とにかく読後感はよかった。意地悪でどうしようもない魚だと思っていたが、見せ場はその後だった。なんなら、最後の場面だけでもここで朗読してもいい。サメに食べられた後にまだまだ山場があって、主人公の面倒くさがりの魚が、自ら海の底にある死の国にヒトデが恋しくて乗り込んだりもする」
「それを伝えに来てくれたのですか」
「そう、今回はそれだけだ」
ヨハンが本を読み終えた時、仕事が片付いた後だったのもあって早くイリットに伝えなければ、などと意気込んでやって来た。しかし冷静になってみると、何とも下らない用事で押しかけたものである。それが急に恥ずかしくなったのでヨハンはまた来るから、と立ち上がろうとしたが、彼女に引き留められた。
「あのですね、最近は以前とは比べ物にならない程、生活に障害を持つ人達への支援が手厚いそうで。中でも、特別な訓練を受けた犬ちゃんというのが、生活の全般をお手伝いして下さるなんて、ちょっと想像がつきませんけれど」
「ああ、その話か。もし、見学に行きたいなら都合はつけるが」
「なんでも、ある若い方が大層熱心に必要性を説いて、あちこち駆けずり回っている方がいるとか、いないとか。他国まで巻き込んでいるという話もあって、今度ぜひ神殿にお招きしてお礼を伝えなければと思っていたところです」
ヨハンは公爵家の名前のおかげなのか、寄宿学校時代から、色々な人達との繋がりを意識する機会が増えた。それは先輩後輩同級生を問わず、単発で身内の誰かの家庭教師を務めてお金を貯めていたのが始まりだったように思う。イリットに本を差し入れるのに、父親にお金を出してもらうのは格好悪いと思って始めた割のいい仕事だった。
けれどどうやら、公爵家の血筋で親切な気のいい好青年としてあちこちに出入りしていた甲斐が多少はあったようだ。兄が三人もいれば、その名前を持ち出して声を掛けられる事も少なくはない。
そして現在、宰相付きの補佐官、の肩書を手に入れて真っ先に手をつけたのは、《魔の森》と接している他の国々への問い合わせだった。ここでは神殿が聖女を擁してその浸食を食い止めているけれど、そちらではどのような対処をしているのか、魔術を行使する事の代償はあるのかと書き連ねてみると、返事があった。最近になって、前線に立つ者達を支援する技術が確立されつつあるから、もし興味があればと手紙にはあった。
しかし内容を上に報告してみると案の定、神殿の機嫌を損ねるのではないか、また他国に貸しを作る事への危険性、未知の魔術を実践で使えるようになるまでに、どれほどの歳月がかかる事かと延々と懸念を示されたが、ヨハンも譲らなかった。
自分には神殿との強力な関わりがあり、未知の魔術の指南書だろうといくらでも目を通し、それに異国とのやり取りを重ねて、友好な関係を築く事は長期的な視点で考えれば必ず利益になる。
ヨハンは言いたい事を述べてすっきりしたので、休みが終わればまた一から根回しと準備に追われる日々に戻る予定だ。
イリットがヨハンを守ろうとして多大な犠牲を受け入れたのなら、イリットの心もその未来も、ヨハンが自身の手で守らなくては意味がない。そのために、自分の全てを捧げる事になっても、少しも惜しいとは思わない。
あの時は理解し難かった彼女の気持ちが、今のヨハンには少しわかるようになった。
「随分大層な言い方をするが、私は知らない、把握していない。それにそいつはまだまだ力不足だから、呼んでも現れないと思う。どこの誰だか知らないが。……今のは笑うところではない」
「嬉しいとこういう顔になるんです。それはあなたならよく知っているのでは?」
ねえ、と彼女のいつものように、姉を気取ったような言い方が面白くなかった。ヨハンはそろそろと外されようとした彼女の手のひらを捕まえて、子供の頃から幾度も耳にして覚えた祈りと祝福の言葉を返した。
子供の頃のようにただ復唱するのではなく、もう手を離さないでいられるように、と目の前の相手に届くように本気で誓った。そうして、まだ子供の時はなんとなく遠慮して止めておいたのを、決意を改めるように、その指先に口づける。
イリットは少し驚いた様子だったけれど、何も言わずに手をそうっと握り返してくれた。ヨハンは恥ずかしそうにうつむいた彼女の精いっぱいの前向きな意思表示として、受け取っておく事にした。