拝啓 皆様へ
これを観ているということは私はもうこの世には居ない、ということだろう。沢山の家族や友人達に囲まれて。いい人生だったんじゃないだろうか。しんどいことも楽しかったことも数え切れないほど沢山あった。だからいいのだ。コーヒーの中に角砂糖を少しいれるくらいの人生の方がいい。本当は甘いオレンジジュースを飲む方がいいのだけれど。でもどっちも美味しいし、私は好き。ただ1つ本当に1つこの世に心残りがあるとすれば私が残したお話を誰かが読んでくれたかを確認出来ないこと。本当にそれくらい。なので、ここにその在処を書き記しておこうと思う。もしこの手紙を誰か見つけたら是非見つけて読んで欲しいな。そして良ければ感想を聞かせて。
それでは愛する貴方、家族、友人達一足先に旅立ちます。また会いましょう。しばしの別れです。どうか悲しまないで。 ーーーーーーーーーーーーーーそれは遺言書だった。長々とは書いてなく端的と言えばそうでも無い観ている人の涙を誘うと言えば誘うような、そんな文章で書かれたもの。何となく気軽に開けたのが間違いのような気もする。けれどもあるべくしてそこにあり、なるべくして読んだ、気もする。不幸中の幸い、ではなく、不幸中の不幸なことに名前だけがペンのインクのせいで文字が潰れており書いた主が誰か分からくなっていた。
地上にいる生物を全て焼肉にしてしまいそうな炎天下での作業は体に応える。現に今、我が家で労働出来る全員が外が暑すぎるという理由で室内に避難していた。照り返すような太陽と日本特有のジメジメした湿度が織り成すデュエットは年々急速に進化していっており、長い年月をかけて少しずつ進歩をとげている人類にはどうも荷が重すぎるようだ。しかし、クーラー全開の畳部屋の中で食べるアイスクリームというのは格別に美味い。これだけは今日みたいな暑い日でよかったと思える唯一の瞬間と言っても過言ではない。行儀が悪いとは思いつつも食べ終わってすぐ、ゴロンと寝転がり畳に体を預ける。けれど、預けた途端に我に返る。あーあ。何やってんだろう。私。自分が時折情けなく感じる。高校生活。それは、人生という1つの物語において1つの大きな章の区切り。皆が大人になるためにそれぞれの道を決断する時、だと言うのに私ときたら進路も決められず、それどころか勉強のやる気も起きないし、学校にも行けてない。ダレル私を背にミーン、ミーンと蝉が早く決めろ。と催促してくるようで鬱陶しい。わかっている。何かしなきゃいけないことくらい。けれど、どうしたら、何から手をつければ良いか分からない。そんなことを考える度に頭の中がごちゃごちゃになって、胃の奥がキリキリと痛む。「本当は甘いオレンジジュースの方がいいのだけれど」さっきの手紙の文面が脳裏にチラつく。私だって、甘いものだらけの人生の方がいいよ。
父方のおばあちゃんは私が産まれる少し前に亡くなった。だから私は会ったことがない。それだけ。ただ、父や母からはよく亡くなったおばあちゃんの事を聞かされていた。おじいちゃんが早くに無くなって女手一つで父を育てたんだ、父のお嫁さんである母にも本当のお母さんのように優しくしてくれたという話しを耳にタコができるくらい聞いた。おばあちゃんが居ない分、人一倍おばあちゃんに関する話を親から聞いたと思う。色んな話を聞いたけど、一言で言うとおばあちゃんには人格者という言葉が当てはまる。だから、おばあちゃんみたいな優しくて誰にでも頼られるような、そんな人になりなさい。なんて、小さい時はよく言われていた。撫子、という私の名前もおばあちゃんが名付けてくれたみたい。無邪気に純粋に育って欲しい、と願って。そんな話を聞く度に心の中でごめんなさい。おばあちゃん。と謝る。私は貴方が望んでいるような無邪気に外で友達と仲良く遊ぶような子にはなれなかった。私は、輪の外で誰からも避けられて1人で黙々と部屋で過ごすような、そんな子供です、と。あの手紙も、おそらくおばあちゃんのものだろう。仰向けになり天井の木線を目で追いながら思う。
おばあちゃんの家の取り壊しが決まったのはつい先日の事だった。管理が難しい、らしい。そりゃあ何十年も誰も住んでいないのにたまに来て掃除をしたりするのは時間の浪費のような気もする。私も過去に何回か親に連れられて掃除に来たことがあるが、あれは大変だ。放っておけば勝手に巣を作ったシロアリが床からでてくるし、庭の雑草は延々と延びてくる。もちろん業者に頼めばいいが費用がバカにならないくらいする。らしい。親戚一同が前々から口を揃えてあそこは管理が大変だし売った方が将来の為だ。と言っていたのを父が、思い出の場所だから。自分達家族が管理するから。とずっとそういってきたのだが、遂にそれも難しくなり、先日手放すことになった。そりゃ、そうだ。何十年も家族と過ごしてきた愛しの我が家を壊されるのは想像しただけで心が痛い。数回しかきたことがない私ですらそうなのだから父は尚更なのだろう。 だから今日は最後のお別れに家族総出で掃除をしにいこうと遠路遥々やってきた。けれども私と言えば普段引きこもっている分開始数分で夏の暑さにやられノックアウト。こうして今はせっせと部屋で食べ終わったアイスを尻目に仰向けになって天井の木線を追っている。何やってんだ。おめェ。とどこからか声が飛んできそうだ。「もう少し庭掃除してくるよ。撫子は中の掃除でもしてて。」少し前に暑い暑い、と飛び込んできた父がよいしょと腰を上げて言う。わたしゃ、お荷物で悪かったね。と悪態をつきたくなる。それにつられて母も父について行く、と言いそのまま2人で庭へ向かって行った。そういえば聞きそびれたな。あの手紙の事。
ふと手紙を思い出しポケットから取り出す。遺言書と何かの在処が示された地図の2枚が封筒に入っている。さっき、おばあちゃんの部屋の棚をせっかくだから何か使える物はないかなと探っていた時に見つけた。その時はザッと目を通しただけだったので遺産か何かお宝が隠された地図の在処では無いか?と思ったが今手紙を広げて文章をよく読んでみるとお話を誰かが読んでくれと書かれてある。しかし、死後に残るお話、と言うと土地の所有権とかそんな感じのこととも取れそうだ。もしかすると、私に所有権をくれるとか?幸い、今は誰にも見つけたことを言っていない。でも、私にそういった権利がある場合親に管理されてしまうかもしれない。幼い頃、これは管理しとくね。と言われたお年玉が今何処で過ごしているのか。私は知らない。これは一攫千金のチャンスでは??馬鹿げた考えが頭をよぎる。まぁ、掃除のついでだしな。悪いことは、してない。たまたま掃除をして見つけただけ。私が仮にそのお宝を発見するのを誰かに見られたとしてもそう答えればいい。よし。よし。遂に恵まれない私に天運が降りてきた。辛い思いしたもんな。これは当然の報い。自分に言い聞かせ、手紙を封筒に入れポケットにしまい、地図を広げなるべく誰にも見られないよう、歌舞伎役者くらいそろり、そろりと歩いた。
おばあちゃんの部屋がスタートになっており、まずは部屋をでて左の廊下をへ。突き当たりの階段を上り、2階ヘと行く。上るたびに途中、ぎし、ぎし、ぎし、と木でできた階段から音がなる。1段1段が抜け落ちそうで怖い。階段を上がった先の正面の部屋の襖を明け、右手にあるクローゼットの中に例のブツが入っている。と記されてある。何だか、特にこれといった仕掛けも無さそうだし。本当にこんな隠し方でいいのか?おばあちゃんよ。心配になる。ぐっと力を込め襖を明け、クローゼットへ向かう。いよいよだ。心臓がバクバクなる。ギィィとクローゼットがなる。いざ、ご対面。のはずだった。しかし、クローゼットを開けた中に会ったのは遺産相続の話でも土地の所有関係の話でもない。日記帳チックなノートが1冊おいてあるだけだった。
それはそうだ。だっておばあちゃんが亡くなってから十数年が経っているのだ。もう、土地の所有権や遺産相続なんて話とっくの昔に終わってる。第一おばあちゃんの引き出しから発見されたのだから既に誰か観てる筈だ。人生まぁこんなもんでしょ。少し残念ではあるが仕方ない。しかし、何が書いてあるのだろう。気になる。少しだけならいいか。ただ、勝手に見るのは心が引けるのでおばあちゃん、読ませていただきます。そう、心で祈って、ページをめくることにした。
輪廻転生。巡り巡って色んな人生を旅するっていうあれ。主人公の女の子が不思議な少女に力を授けられ、死んでも記憶が引き継がれたまままた新たな人生を送る、ということを何度も繰り返すという主旨のお話だった。何でもない、ただのよくあるお話だ。最初の30ページほどペラペラとめくって成程、小説を書いていたんだな、と思い捲るのを辞めた。この手のお話はよくある。結局最後は自分の夢オチかラスボスを倒してかなんかで元の世界に戻してもらうとかそんな感じなのだろうな。けれど、おばあちゃんの時代におばあちゃんがこれを書いたなら斬新なお話として売れていたんじゃないかな、とも思った。まぁ、余計な詮索は良くない。元に戻しておこう。本をクローゼットにしまおうとしたその時だった。『ただ1つ本当に1つこの世に心残りがあるとすれば私が残したお話を誰かが読んでくれたかを確認出来ないこと』思い出してしまった。今までこの本をみた人達が皆もしかしたら、私みたいに、少し読んでこんなものか、で終えてしまっていたら?この物語はもう誰にも読んでもらえないんじゃないか?ふと頭によぎる。
気がつくと私は、開けていたクローゼットを閉め日記帳を手にしていた。誰かの頑張りを誰もみていないなんて、私は嫌だ。これは私の意地かもしれない。