ママ
おはようございます
今日も朝が来ましたね
これで10円、20円、30円…、これがいくらの価値になろうか。1人の女が流した涙は1円にもならない。そんな世界でも女は生きていく。
とある街で、芳佳は生きていた。まだ産まれて20年と少し、今年で22になろうかという歳の話である。芳佳はずっとこの街で産まれてから今まで、恋をしたことが無かった。恋という感情が芽生えないのは、周りにまともな大人や同級生がいなかったからだと言い訳してきたが、それもあながち否定出来ないような所であった。いわゆる歓楽街の端っこのホテル街に小さなスナックがあった。そこが芳佳の実家だった。現在も"ママ"と住んでいるので実家というのも少し斜に構えている感じがする。そのママというのも、本当の母親では無い。芳佳の母は元々はここで働いていた、今の芳佳と同い年くらいの娘であった。その娘は夜中にスナックの控室に忍び込み、自力で芳佳を産み、そして失踪した。ママはその娘の行方を捜したりはしなかったらしい。それはその娘に怒りを覚えていたからではなく、産まれた芳佳があまりにも小さな泣き虫だったからである。それから何年もずっと泣き止ますことに必死で、産んだ母親のことなど気にしている隙がなかったのだ。そして22年経った今もまた、ママの前で芳佳は泣いていた。漠然とした将来への不安が芳佳はずっと拭えなかった。ママの前で静かに泣くことだけが、唯一の心を穏やかに戻す方法だった。いつも、そうやって泣きたい時にはカウンターに客として座り今日のおすすめを注文する。未成年の頃は毎回カルピスを出してもらっていた。飲み物を頼むのは、ママと芳佳の間に1つの壁を作る意味があった。あくまで客がカウンターで泣いている。それを見守る"ママ"という図式を意識して作っていた。そうでないと、芳佳自身もママに気を遣ってしまって弱みを見せられなかったのである。非常にめんどくさい性格の芳佳であるが、そこにはいつも人を思いやる気持ちが存在していた。
「また泣いとんのかい、芳佳は。泣き虫やねー。まぁ女は泣いて強くなるんやろうなぁ。」
こうして常連のおじさん達にいつも揶揄われるが、芳佳はそれが嫌では無かった。なぜなら情けない人間をアホだと言う人が、もしこの店に居なければママの心が保たないと思うからである。ママ自身は、どんなに愚痴を溢そうが涙を流そうが静かに受け入れる。そんなだから、おじさんはママが心の中で本当は言いたいことを代弁してくれているように感じるのである。ママがこうして黙って話を聞くようになったのは、証拠は無いが芳佳の母がここで出産した事がきっかけなのではないかと芳佳は考えていた。ママに以前、芳佳は言ったことがある。
「なんであの客、毎週末に来ては大声で愚痴ばっかり言って店の空気を悪くするのに注意しないの?」
そういう客がスナックには珍しくなかった。しかし明らかに程度が過ぎていたので、芳佳は我慢できなくなってママに言及したのであった。するとママは、
「あんまり言うとね、あの人、潰れてしまうかもしれない。」
そう言ったのだった。芳佳はこれを聞いて、なんとなくママの過去にそういう経験があったのだろうと察することが出来た。しかし、今まで一緒に暮らして、育ててもらって成人しても尚、そういった話の片鱗すら耳にしない。強いて言うなら、芳佳の母のことだけだった。ママ自身は、芳佳の母は失踪したとしか聞いていないが、もしかしたら自殺していた可能性もある。そしてそれをママだけが持つ事実なのかもしれない。全ては仮説であるが、芳佳にはなんとなく当たっている気がしてならなかった。
芳佳の母は、葵という名で働いていた。本名は伊藤佳子といった。葵は19の時にこの店に最初、客として入ってきた。当時ママは35歳で実母から継いだ店を1人で切り盛りしていた。日々の生活で精一杯で、スタッフはバイトの女子大生が2人おり、それが限界の状態だった。そんな折に葵は、働かせて貰えませんかとママに申し出た。店は既にギリギリの状態であったが、ママには葵もギリギリなのだと察した。無論この街にはスナックなんて他にもいくらでもあるし、もっと稼ぎのいい店だってある。覚悟を決めれば、身体を売ることだって選択肢にない訳ではなかった。ただ、ママは葵が一言
「働かせてもらえませんか。」
と、開口一番に涙を堪えてそう言ったのに対し
「おいで」
そう返したのだった。
つづく