俺と、お犬騒動の顛末
"わらび"がうちに来たのは、俺が中学3年生の時だった。
高校受験をひかえた大事な時期にも関わらず、子犬を迎える事になったのは、妹が「犬が欲しい!」と泣き喚いたからであった。
姫島家において頑固さと口うるささで妹の右に出る者はいない。結果、長期戦は妹に軍配が上がり、両親の方が折れる事となった。
ただ、トイプードルにショコラという名前をつけようとしていた妹の希望に反して、うちにやってきたのは黒い柴犬のわらびだった。
マカロンを食べに行ったのに、出てきたのはどら焼きだった。という所だろうか。
何故そうなったかは分からないが、とにかく妹は拗ねるに拗ねて、犬のお世話係をすっかり放棄したものだから
「お前が犬が欲しいと言ったんじゃないか」
「私が欲しかったのはトイプードルだもん!」
というケンカが父と妹の間で幾度となく行われ、姫島家の"お犬騒動"は、一緒になってはしゃぐわらびも含めて、それなりの出来事となった。
そんな子犬の影響もさほど受けず、高校受験もすんなりと終えた俺としては「まぁいいんじゃないか」という感想だったのだが。
高校に入って間もない頃、そのしわ寄せが突如としてやってくる事となる。
「大智、部活やってないんだから……時間あるでしょ、わらびの散歩、任せていい?」
リビングでくつろいでいた俺に、母が思いついたようにいった。
「なんで俺が」
「母さんは晩御飯の支度があるから、あ、大智が代わりに作ってくれても構わないけど」
「俺が晩飯を作るなんて……それこそ無理だと思うけど」
今まで通り、母さんが散歩も晩飯も両方やればいい。そう返しても良かったのだが。
時間を持て余しているのも事実で、その分晩飯の時間が早くなるなら、それも悪くはなかった。
「……わかった、けどそれなりで帰ってくるから」
「それなりって、せめて30分くらいは、散歩してきてよ」
「はいはい……」
あれから1年と8か月。もうすっかり寒くなった12月の下旬。
俺は今日も散歩部として、「さぁ行こう!」と飛び跳ねるわらびと共に家を出た。
住宅街をまっすぐ下り、右手に幼稚園が見えたところで左に曲がる。
車通りが少なく、なるべく街灯の多い道をぐるっと一周して家に戻る。およそ40分、それがわらびの散歩コースだ。
この子犬はまだ落ち着きがなく、右へいっては左に行き、左に行ってはぐいぐい前に進んでいく。
自転車とぶつかりそうになった事も何度もあり、たかだか40分とはいえ、体力と気力を摩耗する時間であった。
加えて、今のような陽の短い冬場は、わらびの黒色が辺りと同化してしまい、更に見えにくくなってしまう。冬場だけ白色の毛になる動物がいます。そんなドキュメンタリー番組をみて以来、「わらびも冬の間は白い毛になったらいいのに」と思うほどであった。
「今日は、一段と寒いな……」
リードを持つ手が凍えてきた。
寒さしのぎにポケットに手を突っ込むと、小さく折りたたまれた紙切れが入っている事に気付く。
それは今日、担任から渡された成績表の紙だった。
学校に置いて帰らないように、とポケットにねじ込んで帰宅したのを忘れていた。
(帰ったら、母さんに見せないとな)
どの教科も60点から80点の間に収まっており、平均すると70点。
可もなく不可もなく、といった面白味のない成績表を再びポケットに戻した。
(でもまぁ、さすがに、来年は俺も高校3年生になるわけだから、お前の散歩もお役御免かもしれないな)
電柱に引き寄せられていく、わらびの後ろ姿を見てぼんやりと思った。
(そうか、受験か)
大学進学に関してどこか他人事だった俺は、ふと我に返り心が重たくなった。
受験勉強に根を詰めるのは嫌だな、そう思う一方で、じゃあ働くか?と言われたら、それも嫌だった。
というよりは、多くの生徒は進学を選ぶから少数派に属するということに気が引けた。
リードが引っ張られる。電柱に飽きたわらびが、大智、いくよ!と歩を進め出したのでついていく。
ここからは折り返しの上り坂だ。
(やっぱり、指定校推薦が楽だよな……)
指定校推薦は秋ごろには大学が決まり、試験もなく面接だけという、一番楽な受験方法だ。
ここで通れば、残りの高校生活を楽に送れるし、冬まで頑張る必要がないのがいい。
別にクリスマスやお正月を楽しみたいというわけではないのだが、世間がイベント事に浮かれているのを尻目に、机にかじりつくのも悲しい。
(来年の推薦枠をみて、とりあえず挑戦してみるか)
普通に受験をすればDランク大学が通るか通らないか。そんな俺の学力ならばFランク大学の指定校推薦はねらい目かもしれない。
(どのみち、行きたい大学なんて、特にないしな)
はぁ、白い息が空気に溶けていく。
向こうから歩いてくるお姉さんに、わらびが向かっていくのを、リードをたぐり引き止める。
「こら……わらび」
犬が苦手な人だったら、嫌な顔をされるんだぞ。心の中でわらびを叱った。
これも何度か嫌な経験をした事があった。「ちゃんと躾けしろよ」と、大きな独り言を言われたり、舌打ちをされたり。
俺だけが苦い思いをして、当のわらびは全く気にしないものだからその鈍感さが羨ましい。
でも逆に、「かわいい、わんちゃんだねー」と褒められた時には、しっかり受け止めて尻尾を振っているからちゃっかり者め。とも思う。
(自由奔放に我が道をいく、お前と俺は、正反対だな……)
変化か、安定か。
そう置き換えたとして、どちらの生き方が良いかそこに答えはない。
多分両方に、メリットとデメリットがあって正解であり不正解なんだと思う。
ただ俺は、険しい道を登れるだけの屈強なトレッキングシューズたる精神力は、残念ながら持っていない。だから多くの人が歩んできた整備された道を、流されるように進む事しかできないのだ。
中学の頃、将来の夢に「サラリーマン」と書いた俺に達観しているな。と友達はそう言ったが、そんな大そうなものではない。
自分の能力は自分が一番わかっている、だから無理はしない。ただそれだけの事だった。
「でも、これはこれで、楽でいいんだぞ」
自宅に到着した。
さっさと門をくぐるなり、玄関の扉に張り付いたわらびを見て、お前もいつか分かる日が来るさ。と言ってみたりする。
「ただいま」
それがまさか、半年後。
思わぬ形で俺の安定が崩壊するなんて、知る由もなく。
(あ、この匂いは)
今、確実にわかる事はひとつ。廊下にまで漂ってくるスパイスの香りから今日の晩飯はカレーだという事だけだった。