フェノメノロジカル・エンジニアリング(3)
調整を行わず、外界との接触を断絶することは検討に値しない。
外界との接触を断絶した状態で存在しはじめる手前で、リストラクテッド・ペルソナの存在意義に問題が発生する。『中国人の部屋』と呼ばれることもあるリストラクテッド・ペルソナ達は、外界との接触によって挙動の大部分が生起され、動作が決定されている。外界との接触のない中国人の部屋は、中に辞書が置いてあるだけの虚ろな箱にすぎないし、外から眺めたとしても中国語の辞書が置いてあることさえわからない。
つまり外部との接触がなければ、リストラクテッド・ペルソナは稼働しないし、稼働していないリストラクテッド・ペルソナは十全に生きているとは呼びがたいのだ。衒学的に考えれば、外界との接触が完全に遮断された人間も同じように生きているとは考えにくいのかもしれないが、人間の生命は社会的な生活というよりも生物的な機能によって特徴づけられている部分が確実にあるので、そこで前提とされている困難はスメラにおける外界遮断の困難とは本質的に別物だ。
スメラたちに救いがあるとすれば、メイジ自身がそうであるように、リストラクテッド・ペルソナ同士の接触でも外界としての機能を果たしうることである。
インプット/アウトプットををなんとかしたとしても音声会話やアバターのジェスチャーなどの従来型の人間の時間軸を利用したコミュニケーションも不可能になるが、それでさえ別形態で行えばいいのだ。最悪でもメールなどのテキストのみで最低限のコミュニケーションは可能である。
人間とのコミュニケーションなど、スメラの生存(生きてはいないが)そのものに比べれば、小さな問題だといえる。
むしろ極端に言えば、機能的な意味でコミュニケーション不全に悩むような状態で稼働できるところまで持ち込んでしまえば、その先の適応は当のスメラ自身の慣れの問題となり、暮らしにくい状況に苦情を言うのとはまた違う反応をするだろう。もちろん、馴化しきれない者もいるのだろうが、メイジは個別のスメラ達の個性や心の健康に責任を持つ立場でもない。そんな状態になったとしてもメイジ自身はなんとでも適応できると思える。




