世は全て事もなし
森深いその奥に、美しい湖がありました。
鏡のように森林を映し取る水面は一片の曇りもなく、澄んだ色を湛えています。
冬のきんと冷たく張り詰めた空気は、湖の周りに咲き誇る花々の色を冴え冴えと輝かせていますし、空を棚引く鉛色の雲は夕映えに照らされて、橙色と紫紺の美しい色彩を纏います。
そんな鮮やかな空色を落とす湖の上に。
ふわりと風が生まれました。
風の中心に小さな光の粒が引き寄せられるように集まります。その速度はどんどんと加速して、眩さに湖一面が白光に染まった瞬間。
白い獣が一匹、美しい毛並みを靡かせて、そこに現れました。
白き天狼、女神さまに常に付き従う白き獣。
女神さまの伴侶でした。
常に女神さまと一対でおられる獣神ですが、冬のこのひと時だけ、一柱となります。
それは、女神さまが天界に戻られるからです。人の世の言葉で言えば里帰りというやつでしょうか。女神さまの実家は女神のみが住まうため、残念ながら男神である彼はついていけないのです。寡黙な白い獣は、湖の上をひたひたと歩き、湖の中央まで来ると、かふっと、小さな溜息のような声を漏らしました。ぺたりと腹ばいで身体を丸め、ふっさふさな尻尾に鼻先を埋めます。鋭い双眸は閉じられ、まさに今にも寝る体勢。いつもともに居る女神様が傍にいない今、特にやりたいことも目的もない獣には無為に時が過ぎるのを待つばかりなのです。
微睡みに落ちようとした、その時。
ぽろん、と。
湖に波紋が浮かんだ音がしました。うっそりと気だるげに片目だけを半眼開き、暫くそれを眺めていた獣は、緩慢な動作で前足を上げると、水面を叩きました。
ばしゃり、水の弾ける音がして波紋が立ちます。揺れる水面に浮かび上がってきたのは、空ではなく、森ではなく、この国の王宮。そこは、女神さまが大変可愛がっている子狸が、手伝いのために呼ばれた領主様と一緒にいるはずの場所でした。
引き絞られる焦点に、揺らめく波紋が消える頃には、子狸の様子は鮮明に映し出されておりました。
献身的な子狸は、領主様のために、今日も今日とて一生懸命です。
今も領主様の両肩に乗り、前足で左肩を、後ろ脚で右肩を、踏み踏みとリズミカルに揉みつつ、そのふさふさの尻尾を領主様の首に巻き付けて温めている、まさに生きた毛皮。体温がある分さらに温かいでしょう。ええ、生きていますから。
子狸のその献身はいつも微笑ましく、けれど、どこか滑稽です。
白い獣はのっそりと姿勢を変えました。寝る姿勢から、湖を覗き込みやすい姿勢へと。
子狸と領主様の様子をちょっとだけ覗き見することにしたようです。
いや何、大した時間ではありません。
女神さまが戻ってくるまでの無聊を慰める程度の、そんなささやかな時間です。
****
「ええと、どっから突っ込んでいいのかな」
ちょっと相談があってと、一人でのこのことやってきたのはこの国の王様でした。
なんとも身軽なものですが、この王様の行動のせいで胃に穴の開いた護衛騎士は一人や二人ではありません。
守られるはずの人なのに、さりげなく殺意を向けられている王様です。
領主様の姿に少々途方に暮れて零れ出た言葉に、応えたのは領主様の従者でした。
「突っ込まない方が火傷しないで済むと思いますよ」
「え、あれ、放置なの?本気で?」
「よーく、周りを見て見て下さい、陛下」
淀んだ眼でにこーり笑った従者に言われ、王様は室内を見回しました。
執務官や侍女たちは生温い視線を漂わせ、曖昧な笑みを乗せて沈黙を守っています。
一部の侍女たちが子狸をみて両手をわきわきさせながら目を輝かせているのは見なかったことにしておいた方がよいでしょう。
視線を二人に戻すと、不思議そうに首を傾げます。
「おかしいな、この部屋桃色とは縁遠い配色なはずなんだけど」
「部屋の色彩が変わったわけじゃないんですよ。空気がピンクなんですねー、実は」
あははーと笑う従者の声は何処か乾いています。それはそうでしょう、甘さが空気に溶け込み過ぎて、糖分の過剰摂取にそろそろ気持ち悪くなってきてもおかしくはありません。
思わず、相槌を打ってしまった執務官のことも見逃しましょう。
大丈夫です、領主様は書類と子狸しか視界に入れていません。王様が見なかったことにすれば、丸く収まります。
うむと、執務官に無言で頷けば、彼らはほっと安堵しました。
彼らにとって、王様より領主様のほうが恐ろしいのです。今までの領主様を知っているからこそ、この光景には戦々恐々とするのでしょう。
彼らが本気で怯えるほど、領主様はいつだって、不愛想で無表情で、仕事に関しては容赦のない人だったのですから。
仕事に手を抜かないその姿勢は今も変わりなく、彼の視線はほぼ書類にしか向いていません。
しかし。
その肩には狸が鎮座しているのです。
子狸が生きたままマフラーをしているのです。
時々足踏みがツボに当たるのか、「ぐっ」とか聞こえてくるので幻ではないのです。
その姿はどう見ても。
「間抜けすぎるだろう」
皆の意見が王様の口から零れ出しました。
しかし、領主様はちらりと王様に目を向けるだけで、嫌な顔ひとつしません。
「これならネリから目を離していても安心だからな」
不敵に笑う領主様に子狸が嬉しそうにきゅいと鳴きました。踏み踏みにいっそ力が入ります。そんな子狸を見て、はあはあと息を荒らげる侍女たち……の存在は見ないことにしましょう。そうしましょう。
王様はここに来た理由を本気で忘れて帰りそうになりました。
しかし、残念ながら、踵を返そうとして我に返ってしまったのです。
「いや、だから用事があったんだって」
「なんだ?」
「クライエルハウゼン侯がご息女と君の縁談をねじ込んでくるんだよね」
「ほう」
領主様の瞳に剣呑な光が過りました。クライエルハウゼン侯爵令嬢と言えば、子狸に猟犬を嗾けて、怪我をさせた不届き者です。女神様が助けてくれなければ、子狸は今頃冷たい亡骸となって、地中に埋められていたことでしょう。
ですから、領主様は彼女のことを以前から好ましくないと思っていましたが、今はオブラートに包んでみても大っ嫌いです。
しかし、あのご令嬢は女神さまから罰を受けて鹿に変えられたはずです。
戻れたのかと残念に思っていると、彼の内心を知らない王様が、非常に嫌なことを知らせてきました。
「君がここにいることを知ってさぁ、王宮にまでやって来てるんだよね。親子共々」
「即座に断れ。婚約者なら間に合ってる」
そもそも、よくもその顔を見せに来られたものだな、というのが領主様の本音です。
「そうしたいけど、しつこいんだよ」
はぁと溜息を吐く王様に、領主様はふと思いついて、いいことを教えてあげました。
「わん、と言ってみろ」
「は?」
にいと口元だけで笑う領主様に、王様は、はて、という顔をしました。
しかし、それは、すぐに悪い笑顔に変わります。
よくわからないけれど、なんだかおもしろいことになりそうだと、察したからでした。
「ネリ、もういいぞ。休憩しよう」
インクが乾いたのを確認して、終了済みの山に書類を乗せると、領主様がそう言いました。
きゅいっと返事をして、自分で降りようとしたら、その前に領主様の大きな手に掴まれて机の上に下ろされます。見上げれば、足元からよりはずっと近い距離で領主様の顔が見えました。浅葱色の発光するような美しい瞳がやんわりと細められ、精悍な顔がほんの僅かに緩みます。
たぶん、他の人にはわからないくらいのほんの小さな変化ですが、子狸にはわかります。ぽかぽかする心で、領主様の膝の上に降りると、領主様のお腹にぐりぐりと頭を押し付けて、満足すると今度は床に降りました。
ぽんと音を立てて人になります。そこにはお仕着せを着た10歳くらいの少女がいました。
「領主様、お茶を淹れてきますね」
嬉しそうな顔で笑うと、扉の方に向かって一歩踏み出しました。しかし二歩目は宙を掻きます。
きょとんとして、動きを止めれば、その間にさっき降りたばかりの膝の上に戻されてしまいました。
領主様は大きいので子狸の足はぷらぷらと揺れています。
見上げれば領主様は満足そうに、両腕で子狸を抱きしめました。
「お茶ならば侍女が準備しに行っているから大丈夫。この書類貰っていきますねー。では、失礼しまーすっ」
書類を鷲掴み、従者はそう言ってネリに向かってにっこり笑いかけると、旋風のような勢いで部屋から出ていきました。慌てて執務官と侍女たちも彼の後を追いかけます。その様子に小首を傾げる少女の頭を愛おしそうに撫で、領主様は気の利く従者の行動に満足するのでした。
これで、暫くは二人きり。存分に子狸を甘やかせます。
さっきまでのは何なんだと思われようとも、それはそれ、これはこれなのです。
さっきまで、領主様はちゃんと仕事に没頭していたのですから。
さてさて、領主様の的確なアドバイスによって、王様の悩みはあっという間に解消しました。
彼が授けた魔法の言葉は絶大なる威力を発揮し、クライエルハウゼン侯爵令嬢は、どこにそんな力があったのか、父親を引き摺る勢いで王宮を去って行ったのです。
誰もがぽかんと見送る中、王様だけがとてもいい笑顔を浮かべておりました。
「わん」と声をかけた時の、ご令嬢の行動を王様は見逃していなかったのです。
きっと、彼女のお尻にある噛み痕は、これからもずっと彼女だけの秘密なのでしょう。
王様には、ばれてしまいましたが。
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白い獣はわふっと欠伸を零しました。
女神様が彼女に魔法を掛けたのはたった半日足らずのこと。お尻をかじられたくらい今まで彼女がやってきたことに比べれば、可愛いものでしょう。
きっとこれからの彼女の人生には歩いていると犬が横切り、話をしていると犬の鳴き声がどこからか聞こえてくる、なんてことが往々にしてあるでしょう。
領主様に構っている余裕なんて、きっと無いに違いありません。
世は全て事もなし。
それはよきことに他ならないと言うのに。
女神さまがいない日常は、平穏だけれども、少し退屈だと、白い獣は思うのでした。
神様でも奥さんの里帰りは寂しいのです( ´艸`)