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汚濁聖人

作者: 平山 芙蓉 
掲載日:2018/09/22

これは誰の物語なのでしょうか。

「それじゃあ、海斗、また今度、三人で飯にでも行こう」

 近所の踏切で出会った彼は、全く無邪気な顔と声音で言った。

僕はそれに対しての拒否の言葉をついに喉から出すことができず、重力によって自由落下させた。胃液の中にぽちゃんと音を立てて落ちて、湯に入れたラムネのように簡単に溶けていった。人間の進化は遂に言葉を溶かすほどにまで至ったのだ。

 愛想笑いは仮面を変えるよりも簡単に、彼に背を向けたときには崩れていた。いや、崩れたという表現はおかしい。崩れたというよりかは、引き攣っていた顔中の筋肉が、ばねみたいに元通りに戻ったというだけだ。力が入らないだけで元通り。筋トレでもしているみたい。ウェイトは人間関係。これだけでいつでも鍛えることができるし、しかもほとんどが抜き打ちなので、常に身構えておかなければならない。一度だけ、いつも通りの無表情で歩いていた時に声を掛けられて、どぎまぎしたことがある。見られたのではないかと。


 知らないのだ、彼らは。僕がどれほど醜い人間なのかを。彼らは僕のことを友達と思っているだろうけど(少なくともそう思っていなければ、食事に行こうなどとは言わないだろう)、僕は彼らのことを友達だなんて思っていない。いいや、決して嫌いなわけではない。僕が嫌いなものは人間の中に潜んでいる猜疑だったり、皮の下で隆々と蠢いている下心だ。ただそんなものがない人間はいない。血が通っていて、シナプスの発火による脳からの伝達がある限り、人間にはそのどす黒く汚れた思考がある。それは僕にだってある。ない人間は人間ではなく、人間の振りをした人間もどきだ。

 それを僕は嫌いというだけで否定することができない。人間のそれを、その黒いものを言葉とともに遠慮もなく湑ませるものを、否定し、拒否することができない。僕は聖人みたいに崇められたから。聖人、だ。僕に何もかもを話す。話して、話して、吐いて、吐いて、僕に仄暗く汚い、汚物をぶちまけたような色を塗りたくり、聖人だと崇める。崇めている。おかしくなんてない。僕はそういう風に生まれてきただけだからだ。そういう巡り合わせだったのだ。

 聖人は理想を崩してはならない。理想の姿を崩すということは、その存在の降格を意味している。それは、嫌だ。つまり僕は、聖人として生きることも、それから外されることも嫌な、我儘な人間なのだ。我儘で、どちらか一方を殺すことを渋っているだけの虫のいい人間なのだ。


 彼らとの出会いは、中学の時だった。地域でやっている祭りに参加したときに知り合うことになった。当時は仲もよかったが、高校に入ってから、他に夢中になることを見つけてしまい、それがきっかけになって祭り自体に参加しなくなった。それだけで終わっていたのなら、自然に僕が消えていたことになっていたのなら、よかった。むしろそうであることを望んでいた。

 彼らは一年後に今年は来るのかとわざわざバイト先にまで訪ねてきた。去年は連絡もなしに不参加だったからだろう。そこで僕は、胸中を余すことなく言い表していたのなら、彼らも多少は憤慨するだろうが、納得するはずだった。だが僕は、怖かった。恐怖をしていた。彼らに見捨てられることが怖かった。見捨てられて、僕の目の届かないところで、悪口雑言を並べられることが怖くて怖くて仕方がなかった。だから僕は、来年は行くよなんて、言ってしまった。あくまでも聖人でありたかった。全てを受け入れる聖人で。しかし、それに反発するように僕の中で何かが蠢いているのが分かる。わかっている。もう面倒だからやめてしまいという気持ちが湧いているのが、わかっている。はっきりとした形が、肚の中から押されて浮彫になっていて、それなのにそれを隠した。完全に自縄自縛してしまったのだ。

 それからいくらかそんなことがあり、繰り返して中身の濁ったことを言っているうちに、僕は遂に逃げ出した。逃げた。連絡先も切った。無視した。聖人であることからも、悪口を浴びることからも、逃げ出した。逃避。でもそれが清々しい気持ちだったことは間違いない。楽な終わり方だった。無駄な毛を全部、剃毛してしまったときのような爽快感。朗らかな日差しが包んでいるようで、日々に彩りが戻った。でもそれは少しの間だけだった。彼らは不躾で察しが悪いことに、それを憂わしい気持ちで見ていたのだ。

 また、バイト先に彼らが押し掛けてきた。どうして連絡先を切ったのかと。僕は少しだけ言い澱みそうになった。真実を告白しようと、できるだけ酷薄に告白しようとした。

 無論、できなかった。できない。僕にはそれすらできない。また嘘を吐いた。罪を重ねた。聖人であろうとする為に自分を偽った。胸が早鐘を打っていたのを今でも憶えている。思い出す度に簡単に再生される。あの張り裂けんばかりの厭な高鳴りを。携帯の機種変更をしたなんて、見え透いた嘘を言った。それでも彼らは信じた。僕が聖人だからだ。僕が聖人だから、彼らは信じた。汚れ切って、痰壺のように扱われてきた聖人だから、彼らは信じた。僕が嘘を吐いていることなんて何も知らない。僕が嘘を吐いていて、苦しんでいることなんて、何も知らない。嘘を吐くことが苦しいことだなんて、捨てられたくないからという虚栄によってできるものだなんて、何も彼らは知らないし、知ったこともないのだ。嘘を吐く人間にしかわからない。わからないのだ。嘘を吐くことは悪い事ですとか、最低なことですなんて言う嘘を日常的に吐かない人間は、その苦しみが分からないから責めるのだ。自分には責められるところがないと信じ切っているから、そうやって嘘を吐くことを責めるのだ。その裏の苦しみも知らないで、ずかずかと踏み込んでくるのだ。勝手に土足で上がって壊していくのだ。生きていればお前にも責められることはあるだろうと、僕は声を大にして言いたい。そして、このときほど僕なんて生まれてくるべきではなかったと思う瞬間はない。簡単に息をするように嘘を吐く瞬間、また、相当長い間言い訳を考えて、上手く騙せそうなものをいくつか見繕って、何度もシミュレーションしている時間。その二つが、僕の心の中で募ってきた、後悔となっている。ああ、つまらない。僕は手を染めまいと決めていたところに、手を突っ込んで、染めてしまった。これでどうにもできない。苦しいのだ。もう何も言いたくない。厭離の感情が無尽蔵に湧いてくる。お前らにわかるわけがないし、僕もお前らが分からない。優しさなんて言葉は、驕慢な人間が自分の感性を妖麗なものに見せるためのメッキのようなものでしかない。そこには藍色の感情があるのだ。


 ああ、いっそのこと、何もかも終わらせてしまおうか。彼と別れたあとの踏切に響いた警鐘が耳に届く。終わらせよう。この警鐘は、審判の音だ。僕が死んだらどちらに行くのかを決める審判の音だ。矢印が左なら大阪、右なら神戸だ。僕はここで死のう。全ての人間関係の重みを取り払って、ありのままの顔をしたまま、死のう。来世こそは、僕はそちら側に回るんだ。聖人に全てを押し付けてやる。僕の皮の下で蠢いている動物そのものの、凶悪な心を、聖人として生まれてきた人間に押し付けてやる。そして、そいつは、今の僕と同じような気持ちを腹の底いっぱいに抱えて、死ぬのだ。縊死か、溺死か、焼死か、薬物死か、どうなってしまうのか、わからないが、どれでもいいからそれで死ねばいい。死んで逝け。淘汰されろ。

 いつか聖人がこの世からいなくなることを心から願う。

 彼らとの約束は果たさない。

 これからの全てを、この警鐘に授ける。

 後のことなど知らない。

 警鐘————

 警鐘————

 ————継承

 少しだけ、聖人の視線があった。

これは誰の物語だったのでしょうか。

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