七百十三話 輪切り手形完成
迷宮都市でソニアさんにテントの注文を出し、トルクさんの宿に行くとマーサさんが痩せていた。まだ太いと言っていい体形だが、急激に痩せるのは体に悪いとトルクさんに確認すると、トルクさんの愛と努力のたまものであることが分かった。そこからダイエットの輪が広がり、ジーナのお母さん、ダニエラさんもダイエットを始めることになりそうだ。
ジーナの家族、ダイエット計画が決定した翌日。俺達は予定通りメルの工房に向かう。
ベル達はメラルとメリルセリオに会いに行くということでテンション高く飛び回っており、キッカもメルと会えるということで、少し跳ね気味に歩いている。
スキップではなく少しだけ跳ね気味というところが、控えめな性格なキッカらしいと思う。
お、メルの工房が見えてきた。近くの詰め所には兵士が立っているし、ちゃんと安全は確保できているようだな。
周囲の確認をしていると待ちきれなかったのかマルコとキッカが工房に走って行ってしまった。それに追随して工房に飛び込んでいくベル達。元気いっぱいで良いことだ。
中に入ると予想通りマルコとキッカがメルと戯れており、ベル達はメラルとメリルセリオと戯れている。
「メル、久しぶり。あれ? ドルゲムさん達は?」
メルの工房には現在王宮鍛冶師長と三人の雑用が居るはずなのだが、今はメル一人しかいない。
「お久しぶりですお師匠様。ドルゲム様は王宮に呼ばれて急遽王都に帰られました。ゴルデンさん達は鍛冶ギルドに行っています」
ゴルデンさん達はギルドか。なんの用か分からないが、しっかり働いているのであれば構わない。
「へー。意地でも劣化ダマスカスを学び終えるまでここから離れないと思っていたのだけど帰ったんだ」
王様の命令すら蹴飛ばして暴走したドルゲムさんを思うと、ちょっと違和感がある。
「よく分からないのですが王都で色々と問題が起こって、鍛冶師長であるドルゲム様も王都で待機するように勅命が下ったそうです。騎士や兵士の方達がいらっしゃって、ドルゲム様を引っ張って帰りました」
無理矢理連れ帰られたのか。王様もドルゲムさんの性格をしっかり理解しているってことなんだろうな。
それにしても王都の問題って、十中八九俺がらみだよね。
まあ、それは構わないのだが、貴族や商会の粛清に鍛冶師長が必要なのか疑問だ。
いや、潰れた貴族の家宝やらなんやらで貴重な武具が表に出てくる可能性があるな。そういう物の鑑定や手入れなら鍛冶師長の力が必要になる可能性もある。
「えーっと、それは残念だった……ね?」
俺としては暑苦しいおっさんが居ようが居なかろうがどうでもいいのだが、メルは鍛冶師長の技術が間近で見られることを喜んでいたから、たぶん、おそらく、残念なのだと思う。
「あはは、大丈夫です。ドルゲム様は去り際に、必ず戻ってくるとおっしゃっていましたから、確実に戻られると思います」
苦笑いしながらも戻ってくることを確信している様子のメル。たぶん離れ際にドルゲムさんがよっぽど騒いだんだろうな。
「あ、うん、それなら良かったね」
「はい」
「それはともかく、他に人が居なくて丁度良かったよ。メルとメラルとメリルセリオに手形を押してほしいんだ」
メルの前に輪切り手形を出す。
「……お師匠様、初めて見る物ですが、これが素敵で思い出になる物だというのは理解できます。ですが……この木、マホガニーでは? しかもかなりの古木……」
さすがメルだ。畑違いの鍛冶師でも職人としても目が、一瞬で木の素材を見抜いたな。
そうです、ぶっちゃけるとたぶん、最高級の中の更に最高級な家具に使われる部類の木材だと思います。
なにより、思い出になることを直ぐに見抜いてくれたのが嬉しい。
「言いたいことは分かるけど、その木は迷宮産だし、大量に乱獲してきて余りまくっているから気にしなくていいよ」
「な、なるほど、迷宮産ならお師匠様であれば沢山手に入りますよね。納得しました。でも、私達も押させていただいていいんですか?」
メルがマジかよって顔をしながらも納得してくれた。最高級木材を乱獲してきたって聞いたらそんな反応になるよね。
俺だって、日本で松茸乱獲してきたから余りまくっているんだよね、って言われたらそんな顔をすると思う。
「もちろんだよ。メルもメラルもメリルセリオも楽園を知る大切な仲間だからね」
「ありがとうございます!」
当然のことを言ったつもりなのだが、メル達がやけに感動している様子だ。もしかしたら離れて生活していることに少し引け目のようなものがあるのかもしれない。
ファイアードラゴンの短剣だけでは不安だったかな? まあ、今回のことでその不安が少しでも払拭できたなら俺も嬉しい。
「じゃあこの塗料を手に付けて、空いているスペースにペタッとお願い。メラルとメリルセリオの近くに押したいならその分のスペースを考えてね」
メラルとメリルセリオは楽園と違って魔力を込めて手を実体化させないといけないから少し大変だけど、手形を押すくらいなら浮遊精霊のメリルセリオでも大丈夫だろう。
「分かりました」
輪切り手形と自分の手を見比べながら考え込むメルに、マルコとキッカが経験者として楽しそうにアドバイスをしている。
まあ、アドバイスというよりも、これがおれの、これがキッカのという報告やペタッとする感触が楽しいとか、アドバイスというよりも感想だけどね。
メラルとメリルセリオにはベル達が一生懸命説明しているからこちらも大丈夫だろう。たぶん。
メル、メラル、メリルセリオが相談して場所が決定する。
この場でメルはメラルとメリルセリオの気配しか分からないのだが、その状態で一緒に生活している強みか、スムーズに、そして確実に意思疎通に成功している。
まあ、三人並んで手形を押すことが決定してから、真ん中を譲り合って時間がかかったけど、それもまあ、メル達らしいと思う。
「では、押します」
メルが慎重に手形を押すと、小柄なメルらしい小さめの手形が残る。続いてメラルとメリルセリオが左右に手形を残すのだが、メラルはともかくメリルセリオが少し心配だ。興奮してサクラのように手を振り回している。
それを見たメラルがメリルセリオを抱きかかえ、慎重に手形を押させる。こうしてみると、属性は違うが兄弟みたいだな。
無事にメリルセリオの小さな手形が押され、続いてメラルが手形を押す。
ふむ……なかなか素晴らしいアート作品だ。まあ、そう思うのは俺と仲間達だけで、他の人はなんとも思わないだろうけどね。マホガニーに気が付いた人は怒るまである。
でも、これで完成、いや、透明の塗料で仕上げを……あ、透明の塗料を買うのを忘れた。
テントのオーダーメイドに満足してしまい、他の買い物がおざなりになってしまっていたな。ハンモックや囲炉裏の注文も忘れていた。
まあ、あとで雑貨屋に顔を出せばいいか。いや……。
「メル、木材を保護する透明の塗料とか持ってない?」
メルは鍛冶師だけど、工房もやっているし雑貨を作っていたこともあるから、ワンチャン持っている可能性がある。
「ありますよ。ああ、この手形を保護するんですね。持ってきます」
やっぱりあった。
メルが結構大きめの樽を担いで戻ってきた。メルは小柄だけどレベルも高いし意外と力がある。そして、それだけ塗料があれば、しっかり輪切り手形を保護することができるだろう。塗料代を後で支払うのも忘れないようにしないとな。
メル達の手形はまだ乾いていないので、それ以外の部分から塗料を塗り始める。
お、この塗料、木材に艶がでて手形が映えるな。さすがメル、良い塗料を使っている。
輪切り手形をしっかり保護をするために何度か塗り重ねたいし、あとでメルに塗料の追加購入をお願いしよう。
「そういえばお師匠様、ソニアさんに聞いたのですが、フィオリーナさんに建築の注文を出しているんですよね?」
一度塗料を塗り終わり、休憩でお茶を飲んでいるとメルが話しかけてきた。ソニアさんは忙しい中でもしっかりメルのところに顔を出しているらしい。
「うん、そうだよ。ん? メルもフィオリーナさんを知っているの?」
「はい、職種は違いますが、女性の職人の世界は狭いですから何度か話したことがあります」
へー。世間は狭いというけれど、更に狭い職人の世界なら交流があっても不思議ではないか。
「あの人も精霊術師の才能があるんだよね」
できれば精霊術を学んでほしい。
「え? そうなのですか? そういえば私が精霊との契約を願っていることを話した時、微妙な顔をしていた気がします」
そうだね、一般的な精霊術師の評判を知っている人はそんな反応になるよね。それも迷宮都市では変わってきているのだが、それを広めるのが難しい。
実際にその光景を見ないと信じないって人が多いのがネックになっている。
ただ、迷宮都市で活躍し始めた精霊術師が散らばって行けば、その評判も変わってくると信じている。時間はかかるけどね。
そう考えると精霊術師講習はいい機会なんだよな。忘れちゃうし、見知らぬ人に教えるという行為がプレッシャーで嫌なんだけど……。
「あ、知り合いならちょうどよかった。実はフィオリーナさんに物凄く警戒されちゃって、どうしようかと思っていたんだよね。メルから俺は安全だって話してみてくれない?」
メルも俺の身内みたいなものなので説得力が薄いかもしれないが、知り合いの言葉であればそれなりに考慮してもらえるかもしれない。
「ああ……どうなのでしょう? フィオリーナさんは色々と怖い目にあったことがあるそうで、元々男性が苦手なんです」
「え? 建築業界やハンマー商会に嫌がらせをされていたのは聞いていたけど、そんなに酷かったの?」
「その、私の口から言うのはどうかと思いますので言葉を濁しますが、仕事が欲しければ……というやつで、それをフィオリーナさんはキッパリ断わったそうなのです。そうすると嫌がらせが増え、時間が経つとまた、仕事が欲しければ……その繰り返しだったそうで、しつこい男性にうんざりしてしまって……」
いわゆる枕営業を求められていたのか。思っていた以上にフィオリーナさんの男嫌いは根が深い問題なのかもしれない。
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