・いつもの朝
時計の秒針が天頂部を丁度指し示すと同時に、天鵞絨で造られた重いカーテンが開かれ、ヒンヤリとした夜の空気が払われると、眩いほどの朝日が室内を照し、容赦なく部屋の主の起床を促す。
夏も迫っているとはいえ、今の時季は早朝はまだうっすらと肌寒く、怠惰な生活に慣れ切ってしまっている身分階級の人間にとっては、太陽が昇り切る前に起きるのは苦痛を伴うこともしばしばであるが、そんなことはきっとこの分からず屋で偏屈で頑固な侍従には理解不能なのであろう。
――この、クソ、片眼鏡、陰険、頑固、もう一個オマケで蝋人形め。
ボフッボフ、っと眠気を堪え、今日も今日とて涼し気に冷静に自分の睡眠時間を強制終了させた侍従への憎しみと悔しさを、水鳥の羽で創られた枕を拳で殴ることで耐え、のろのろと悠に大人は五人ほどは横になってもまだ余裕がありそうな寝台の上で身体を起した少年は、すかさず出された果実水でのどを潤し、左手で白銀の髪を掻き上げ、ほぅ、っと一息吐くと、足を床に下ろし、ペタペタと着替えのためにドレッシングルームへと向かう。
いつまでもやつを貶していてもこの後に控えている日常からは逃れられない。
だったら早く支度を済ませ、早くそれらを片付けてしまえばいい。
とはいえ、着替えから何から自分で選ぶことは許されないのが、この身の辛さである。
「僭越ながら殿下、眉間にソラフス渓谷のような皺がお出来になられております。早急に平地に戻していただかなくてはお母上様の御心が乱れるかと」
その言葉に舌打ちしてしまったのはきっと母親を母親として認めたくないからだろう。
愛だけが全て、子供は自分の人形、身分なんて望んでない、ただただ愛し、愛された人と一緒にいたいだけ。
三十路を超えても年中愛や来いと言った甘っちょろい幻想の中でしか生きてない、生きられない女が自分の母親だと思うだけで反吐が出る。
そのくせ、お前は陛下の後を継ぐべきだの、愛想よくしろだのと世迷言を抜かす。が、そんな世迷言の中でも最もバカな発言は。
「――わたしの、どこが女だ。なあ、アス」
「殿下は女性になられたいのですか?」
「......お前に聞いたわたしが愚かだったな」
鏡の中の自分は細く頼りなく。
こんな身目だから女だと思われるのだろうかと鏡台に手を着き、息を詰めたところでぎゅっと矯正下着の背中側の紐が引かれ、女のような括れが出来上がった。
女ではないのに、女の恰好をするのは正直死にたいほど屈辱的だが、これも死なない為、他の兄弟から殺されないためである。
こんな生活から抜け出したいと願っても、思ってもそれは叶わない。
少なくとも次代の皇帝と大公が決まるまでは。
ハァ、と、再度溜息を吐けば唯一の腹心である、陰険で頑固で屁理屈やのアステールが丁度髪を梳かすブラシを手に取ったところだった。
アステールは自分――スヴェート・フォン・アラクチェーエフ――とは違い、蜜色の真っ直ぐな髪に、薄氷のような薄青い色の切れ長の瞳、そして開けば容赦ない言葉と稀にすっとぼけたことしか言わない厚すぎない唇。
身長は当然アステールの方が高い。
自分がこうなりたいと願う姿が傍にいるのは案外苦痛であるが、それ以上に励みにもなっていることも事実。
いつか、自由になった時にアステールを超える男になってみせると言う気力と覚悟。
心を落ち着かせ、偽皇女になる為瞳を閉じれば、いつもの言葉が聞こえた。
「殿下、お時間でございます」
さぁ、今日も偽りの仮面を被ろう。
自由を手に入れる為、生き残る為の仮面を。
モーディス帝国はハバロウナ家王朝の第六皇子の一日はこうして静かに幕を開ける。