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「あの男、妙な顔をしていたな」

 のんびりとした口調でメフィが言った。その言葉の持つ間抜けな響きに、ハインリヒは思わず床に座り込んでしまった。

「そりゃそうだよ。なにせいきなり王女のそっくりさんが現れたんだからさ」

「王女?」

 心底不思議そうなその口振りに、ああ高をくくっていたのではなくて本当に何も知らないのだと、ハインリヒは天を仰ぎ見た。相当な面倒事を背負い込んでしまった。やはり、悪いことはするものではない。

「王女か、どうして我が輩はそんな人物に化けたのやら。それにお前、王女と面識があるのか? どこの馬の骨とも分からず、さらには『文字を読める』なんて異端の能力(ここでメフィは何がおかしいのか笑った)のせいで、忌み嫌われているんだろう?」

 ハインリヒはぎろりとメフィを見上げる。確かに寸分狂わずにキュマニスそっくりだ。けれどその動作、その表情、その話しぶりの全てが、彼女がキュマニスとは全く違う個であることを、雄弁に物語っている。

 だが、とハインリヒは彼の目線まで垂れるメフィの長い髪に魅入った、これだけはメフィの方が素晴らしい。王女も髪を伸ばせば良いのに。きっとこの悪魔よりもずっと似合うだろうに。どうしてだろう、ハインリヒの知る王女は、常に痛々しいまでに短く髪を切り落としている。

 「貴様」、その言葉と共にハインリヒの頭の上にメフィの肘が落ちた、「我が輩の質問を無視するとは良い度胸だ」。

 更に攻撃を加える気配を見せるメフィに怯えて、ハインリヒが早口で応えた。

「王女キュマニスは俺の命の恩人なんだ。森でシュトゥーベンベルグの密輸者を取り締まった時に俺のことを見つけてくれて、そして名前をくれて、仕事までくれたんだ。その仕事の関係で半年に一度くらい会うよ、蔵書の報告をするから」

 「なんだ、つまらん」。実に退屈そうにメフィが応じた。いつの間にかその手には、隠者の望遠鏡が握られていた。「我が輩てっきり、この望遠鏡で覗き見するのが貴様の趣味なのかと思ったのに」。

 口調には存分に巫山戯た気配が漂っているのに、望遠鏡を撫でる彼女の手つきは優しかった。更にはそのふてぶてしい表情に陰りまでが生じ、ハインリヒを驚かせた。

 メフィの声はまるで歌うよう。けれどもそこにはどこか、悲しみが滲んでいた。

「ああ、こんな望遠鏡ならばかつては阿呆ほどあったのにな、それも今やもう碌に残ってはいないのだろう。これだって満身創痍だ」

 メフィが一歩踏み出した。太陽光が、善神の化身たるその光が、悪魔を照らすが、それはただ黒々とした影を生むだけで、悪魔になんの衝撃も与えはしない。

「嘆かわしい、何もかが過ぎ去ってしまった。だが我が輩は、それを非難出来る立場にはないのだ。全ては人間どもが自分自身で選択した結果だからな。奴らの被造物である我が輩は、ただ従うのみ」

 被造物。その単語がハインリヒの耳朶を激しく打った。あれは悪魔だ。それが被造物? それも人間の作った物だなんて。

「そうだよ、ハインリヒ」

 まるで彼の心を読んだかのように、悪魔がハインリヒの方に向き直った。

「我が輩はかつての貴様たちが排泄した感情から生まれ、育まれたのだ。それらは恐怖とも願望とも絶望とも呼ばれていた。そして今現在も我が輩がこうして生きているということは、つまり現在の貴様等も先達と同じ感情を抱いているということの証左なのだ。

 どれほど平和と善とを叫んでも、結局のところ貴様らは争いと悪から逃れられないと見える」

 振り返った悪魔の顔は、光の加減のせいで黒く塗りつぶされている。ハインリヒにはその表情が見えない。分からない。それはとても、恐ろしいことだ。

「我が輩を呼び出したお前には、何かしらの強い願いがあるのだろう? その手の強烈な感情こそが、我が輩の食い扶持なのだよ」

 黙りこくるハインリヒを放置して、悪魔は天に向かって腕を広げ、大きく伸びをした。再度光を受けたその顔は、どこまでも晴れやかだ。ハインリヒが先ほど抱いた恐怖が、跡形も無く払拭されていく。

「そうだ、我が輩は生きている! かつてはほぼ全知全能を誇った我が輩が、こんな若輩者の心の内一つ読み切れぬほどに、脳から情報を取り切れぬほどに落ちぶれたが、それでも、生きてはいるのだ」

 高らかに悪魔が笑う。嗤う。

 ああ、とハインリヒは嘆息した。生を素直に謳歌するこの悪魔が、彼には羨ましくて仕方が無い。彼はこんなにも生きていることが辛いのに、目の前のこの存在にとっては違うのだ。

「この世は未だに地獄だ。悪魔のいる場所は、即ち地獄と相場が決まっているからな」

 地獄、この場所が。そうかもしれない、とハインリヒは思った。彼にはどうしようもない理由で、彼は「普通」とは区別されている。いくら足掻こうとも、彼は後ろ指をさされ続ける。

 そうだ、だから彼は決めたのだ。何もしなくても否定されるのならば、いっそ悪いことをしてやろうと思ったのだ。彼のその決意は今、目の前の悪魔として結実していた。


 だがそんなハインリヒの意志も、紺色の制服に身を包んだ教会僧を見た途端に、粉微塵となった。僧は明らかにハインリヒの方に向かって、真っ直ぐに歩を進めていた。まだまだ距離は遠いが、確実に近づいている。

 ハインリヒは思わず悪魔の方を見た。彼女にも思うところがあるのか、僧を真っ直ぐに見つめたまま、どこか不遜な笑みを湛えていた。

「一つ教えておいてやるよ、ハインリヒ。名字のないただのハインリヒよ。我が輩の真の名前はメフィストフェレス。先にも言ったように発音に多少の揺れはあるが、通常はメフィストフェレス」

「そんなことが今、どんな関係があるって言うんだ!」

 迫り来る恐怖に怯えるハインリヒは、思わず叫んでいた。だがその声をもメフィ、否、メフィストフェレスを面白がらせるだけであった。

「我が輩が貴様のメフィ・ストラトスになってやるぞ、貴様が我が輩のファウストになってくれるのならば」

 我が輩のファウスト。ハインリヒはその言葉を心の中で繰り返した。

 「そうだ」。笑む悪魔の発する言葉は、その一つ一つまでもが弾んでいる。「力の大部分を失ったとは言え、今でも多少ならば人間の心の内を読めるし、それに昨晩は羽を介して貴様の脳から必要最低限の知識は得たぞ。我が輩、腐っても悪魔なのでな。かつての全知全能に近かった我が輩から比べれば、目を覆うばかりの零落だが。しかしそれでも、僅かな力くらいは使うことが出来る」。

 メフィストフェレスの指が、こちらに急ぎ来る僧を指さした。不思議なことに、先ほどと比べてほとんど距離が詰まっていない。

「あれは教会僧だが、異端審問のではないのだろう? 異端審問は黒に赤だからな」

 言われてみればその通りであった。ハインリヒは、あれほど狼狽した自分を情けなく思う。

「まぁ気をつけるに越したことはないさ。何せ貴様は古代語が少しとは言えども読める(ここでもまたメフィストフェレスは失笑する)異能なのだからな」

「さっきもその箇所で笑ったな。一体何なんだ?」

 苛立ちも露わなハインリヒに、メフィストフェレスは鷹揚に手を振った。

「悪い悪い。かつては、つまり貴様等が古代語と一括りに呼ぶ言語たちが現役真っ直中だった頃にはな、文字を読めるなんてのは必要最低限の技能だったんだよ。それが今や差別の原因になるだなんて、隔世の感があるなと思ってな。いや実際に隔たっているのか」

 最後の言葉には、どこか寂しげな気配があった。だが悪魔はさっさと気を取り直し、ハインリヒに向かい合っていた。

「さてそれで、他人から指をさされる生活に飽き飽きしたハインリヒ氏は、我が輩のファウストになってくれるのかね? ほら僧は随分と近づいてきたぞ、とっとと答えを出して貰おうか。

 我が輩、今はこれほど零落してはいるが、しかし一旦主が決まれば、直ぐにでも力を取り戻せるぞ。ほらほら、さっさと我が輩のファウストとして覚悟を決めろ」

「そんな急に! それに『我が輩のファウスト』ってことはつまり、魂を賭けた契約ってことか?」

「賭けた? 我が輩そんな不確実な条件は、一度しか呑んだことがないぞ。しかももう二度と呑むつもりもない」

「でもファウスト博士は、最後に救われるんだろう?」

 「貴様らが何をもって『救われた』とするのかなど知らぬ」。さらりと悪魔は嘘を吐いた。「契約は簡単明瞭だ。期間は二十四年、その間我が輩は貴様のために粉骨砕身して働く。そして契約が満期を迎えた日には、褒美として貴様の魂を頂くのだ」。

「メフィストフェ……メフィス…………、ああもう覚えられない! とりあえずメフィでいいや、そのメフィに捕らえられた魂はどうなるんだ?」

「メフィストフェレスだ! 貴様、人の名前を何だと思っているんだ。魂の行く末など遠い話は置いておけ、問題は今、だ。貴様には我が輩が必要だろう? さぁ決断しろ」

 畳みかけてくる悪魔の口上には、魅力が溢れていた。何をしても影口を叩かれるハインリヒにとって、現状を根本的に変えてくれるであろうこのメフィの存在は、これ以上にないほどに渡りに船なのだ。

 しかも相手はあのキュマニスそっくりと来ている。もしも契約が成れば、このそっくりさんは丸二十四年間、ずっと側にいてくれるのだろう。

 だけど……とハインリヒは首を振る、ただこの悪魔は似ているだけだ。本物ではない。

 ハインリヒのその決意を悟った悪魔が、憤慨して叫ぶ。

「久方ぶりに呼び出したくせに契約を渋るとは、貴様は鬼か! そこらの悪鬼よりも意地が悪いぞ!! 我が輩が死んだら貴様のせいだからな」

 盛大に嘆くメフィの姿に、ハインリヒは多少の良心の呵責を覚えた。だが、と同時に疑問も湧く、悪魔が死ぬとどうなるのだろう?

 「知らぬ」、そっぽを向いたままのメフィが勝手に答えた。こんなささやかな疑問にまで律儀に返答するあたり、この悪魔、根はなかなかに気が良いと見える、「我が輩が死んだら、貴様が報告書でも認めて本でも出せば良いんだ。きっと売れるぞ。なにせ悪魔の死に様なぞ今まで見た者はいないからな! だがその時は絶対に貴様の枕元に現れて、恨み節を朝まで演説してやるぞ。二度と安眠は得られぬと思え」。

「そりゃどうも……」

 魂がどうのこうのなんて物騒な話をしていたはずなのに、すっかり平和な内容になってしまったとハインリヒが思ったのも束の間、「ハインリヒ!」、短いが鋭い一声がその場の空気を変えた。

 視線を上げた二人が見たのは教会僧。ようやっとここまで辿り着いたのだ。額に汗が滲んでいる。異様に時間がかかったのは当然ながら、この悪魔の仕業である。

 僧の震える指がメフィに向けられる。

「この者は誰だ」

「わたくしはメフィ、メフィ・ストラトスと申します。ハインリヒの姉でございます」

 慇懃に答えるメフィを「私はハインリヒに聞いているのだ」と僧は不愛想に切り捨てた。

 「申し訳ございません」。この手のややこしい扱いにすっかり慣れてしまったハインリヒは、特に腹も立てずに頭を下げた。「この者はメフィ・ストラトス。私と共に黒の森にて隠者に育てられておりました。彼女は先に養女として貰われましたが」。

 相手に無下にされることには慣れていても、嘘を付くことには慣れていないハインリヒは、己の言葉が相手に信じられているのか不安でならない。ちらりと視線を走らせて僧の表情を見たが、疑われているのかどうか分からない。ただ相手の顔には、彼が見慣れた己への侮蔑と見下しは見て取れた。

「ならばハインリヒ、お前とこうも似ていないのはどうした訳だ」

 「それは」。既にいっぱいいっぱいなハインリヒは、堪らず口ごもった。だがここで沈黙する訳にはいかない。なんとか嘘をひねり出す。彼はなんだか自分が、どんどん悪い人間になっていく気がした。

「おそらくは血が繋がっておりませんので……、ええ、きっと、隠者が私同様どこからか拾ってきた子だと思われます!」

「ふぅん? まぁ信じてやろう。だがこの娘の養い親とやらはどこにいるのだ?」

 「失礼ながら」、狼狽えるハインリヒにメフィが割って入った。彼女の緑の双眸がハインリヒを見る。その視線が語るのは「嘘のつきかたを教えてやる」。ハインリヒの表情が固まった。

 だが悪魔は彼の気持ちになど頓着しない。宣言した通りに、悠悠と虚構を組み立ててみせる。

「それは弟には答えられない問いかと存じます」

「発言を許した覚えはない。だが良いだろう、それはどういった訳かね?」

 僧の眼差しがメフィを舐める。その表情は、明らかにキュマニスにあまりにそっくりな彼女に、驚愕している様子だ。

 ここに来てハインリヒは僧の訪問の理由が分かった。先ほどのバヴォリンスキーが、キュマニス王女に似た娘がいると報告を上げたのだ。その確認のために遣わされたのがこの僧なのだ。

 ならば彼は王女を良く知る彼女の側近であり、今この瞬間での失態はそのままキュマニスに伝わるとみていい。

 ハインリヒの背中に緊張感が走る。思わず見たメフィはと言えば、平然そのもの。肝が据わっているのか、単に事態を把握出来ていないだけなのか、ハインリヒには判断が付かない。

「不躾な発言、お詫び申し上げます。寛大な心で許して頂けたこと、わたくし忘れません」

 そう大げさに感謝を述べた後に、メフィは続けた。

「何せわたくし、弟が寝ている間に養女にやられましたから。分かっていただけると思うのですが、森での生活は苦しいもの。子供を二人も育てようなどというのは、実際のところ不可能でございます。

 ある日たまたま出会った夫婦が女の子を欲しがっておりまして、隠者はわたくしを養女にやると決めました。けれども弟が寂しがらぬように、彼が寝静まった夜にわたしくを養女に出したのです」

 すらすらと述べられたこの言葉、全て口から出任せである。堂々と述べるその態度、いかにも真実だと言わんばかりの口調、全てがあまりにも見事で、あやうくハインリヒすらも信じそうになった。

「ではその養い親はどこに? どうして今頃になって現れたのかね」

「養い親ならば……死にました。両親の親類はわたくしを養育することを拒みました。それどころか両親の残してくれた遺産すら、わたくしには与えたくないと申します。けれど」

 天涯孤独の身となった娘は、一度ここで発言を切ると、袖口でそっと目頭を押さえた。

「けれど、それもまた当然だと思います。わたくしはやはり他人に過ぎないのですから。

だからわたくしは、森に戻ったのでございます。他に行くところなど、知りませんもの。

 養い親には当然感謝しております。彼らはわたくしに初めて人間らしい暮らしを与えてくださいましたもの。けれどもやはり実の子ではないからでしょうか、それともわたくしの心がねじ曲がっているからでしょうか、その暮らしはわたくしには辛く厳しいものでした。だから最後に森に戻り、かつての幸福だった隠者と弟との三人暮らしの思い出に浸って死にたいと思ったのです。

 ですがああ、やはり善神は素晴らしき存在、わたくしなどのことも見捨てませんでした。こうして弟と再会出来たのですから!」

 最後の仕上げと言わんばかりに、よよよとハインリヒにもたれ掛かる。それはいかにもな姉弟の感動の再会シーンであった。

 この迫真の演技に、いつもは顰め面の僧までもが、うっかり貰い泣きである。

 恐ろしい、とハインリヒは素直に怯えた。この悪魔、善神の象徴である金属鏡に触れても平気などころか、さらには善神そのものとも言える太陽光すら物ともしない。あまつさえ、善神の二文字を口にして憚らないのだ。

 相手は名の知られたヴォランドなどとは違い、弱り果てた今にも死にそうな無名の悪魔である。それですらこうして善神に虚偽の感謝を申し立てて罰せられず、その上、繰り出した虚言で聖なる僧をいとも簡単に騙し遂せた。

 恐怖に竦む彼に、悪魔は愛嬌たっぷりに片目を瞑って見せた。「これが嘘のつきかただ」と言う訳だ。

「そうかそうか、苦労したのだな」

 すっかり骨抜きにされた僧が涙を隠しながら、メフィの肩を叩く。メフィもメフィで「いいえ、わたくしなど生きているだけで充分幸福ですわ」などと、臭い嘘を堂々と重ねて見せた。そんな彼女の言葉が、またしても老僧の心を揺さぶったようであった。

「この老いぼれでよければ力になろうぞ。ささ、まずは仕事じゃ。働かざる者食うべからずと言うからな」

 そうして僧と悪魔は仲良く肩を並べて城の方向へと歩み去って行った。ただ一人残されたのは、ハインリヒ。この世の不条理の全てを見た気分であった。

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