表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/34

メフィストフェレス はははは! ひとをだますがこちらの商売。ご存じありませんでしたかね。お気づきになっている以上にだまされてんですよ。   (「人形芝居 ヨハネス・ファウスト博士」(『ファウスト博士 付人形芝居ファウスト』)、松浦純訳)



悪魔を信じる者はもう悪魔のものだよ

(トーマス・マン、『ファウスト博士』、関泰祐・関楠生訳)



 今日もまた陽は昇る。ハインリヒの恵まれない人生も、変わらず営まれていると思われた、彼以外の人間には。

「おーい、ハインリヒ!」

「名無し!」

 ハインリヒはガンガン痛む頭を抱えながらも、その普段と全く変わらぬ囃子文句に、知らず知らず微笑んでいた。いつもなら彼にとって腹正しいそれらが、今日に限っては平和の証拠に思えてならないのだ。いっそ嬉しいと形容してやってもいいくらいだとまで、彼は感じる。

 いつもと同じ調子で書庫の居住用スペースのドアを殴り続ける二人組を止めるために、いつもと変わらぬ表情を取り繕ったハインリヒが、ドアを開けてやった。そこには爽やかな朝の空気の下、いつもと同じく五月蝿いフープマイヤーとシャッペラーの二人組が突っ立っていた。日々繰り返される朝の出来事だ。

「おい、昨晩こそは透明なガラスが完成したのかよ? 一体いつになったら、まともにガラスが作れるようになるんだ」

「俺たち商品課の偉大さが骨身に凍みたか? 商品課になら透明は無理でも、少なくとも好きな大きさのガラスが作れるんだぞ」

 昨日とも一昨日とも変わらぬその物言いに、安堵したハインリヒの頬が勝手に緩む。罵られているにも関わらず笑むハインリヒに、フープマイヤーとシャッペラーは豆をくらった鳩のように目を丸くした。仲良しの二人組は、良く似た動作で思わず顔を見合わせた。

 フープマイヤーたちの反応にしまったとハインリヒが気が付くよりも早く、彼らはハインリヒに飛びついた。

「何だよお前、もしかして透明なガラスが完成したのか!? ならとっとと見せろよ、いや、俺たちに差し出せ。すぐに量産してシュトゥーベンベルグの連中に一泡吹かせてやるからさ!」

「そうだそうだ、今度はノイベルグからの密輸品で奴らを苦しめてやる」

 息巻く二人組が部屋の中へ侵入しようとするが、ハインリヒも必死だ。「透明なガラスなんて成功していない」とあるがままを叫ぶ如く答えても、すっかり勘違いした二人の意志を削ぐことは出来なかった。

 背の高いフープマイヤーにハインリヒが押さえ込まれた隙に、小柄なシャッペラーがハインリヒの防御を突破した。

 為す術もなくシャッペラーの背中を見送るハインリヒの心中は、大荒れだ。なにせ部屋には黒い上着だけを着た女、それも王女キュマニスそっくりの、がいるのだから。

 彼は言い訳の余地がないかと必死に探したが、そんなものはないとの答えが即座に立ち上がった。つまりは、この世の終わりだ。身の破滅だ。ハインリヒが崩れ落ちる。これ幸いとシャッペラーまでもが、部屋の奥に走り込んでいく。

 直後に聞こえたのは、二人の短い悲鳴。ああ、見つかってしまったようだ、とハインリヒが嘆いたのも僅かな時間のこと。破れかぶれの彼は、腹を括った。

 気力を振り絞って立ち上がる。せめてあの娘の、まぁあれは悪魔なのだが、の保護を求めてやらなくては。昨日の様子では随分と弱っていたようだから。そう必死になるハインリヒは、つまるところどこまでも善人なのである。

 だが彼の真心は不要であった。弱り果てているとは言えども悪魔は悪魔であり、人間の犠牲者を必要とはしても、人間の保護は不必要なのである。

 折れそうな心を必死に立て直して部屋までたどり着いたハインリヒが見たのは、フープマイヤーとシャッペラーの二人に優雅に微笑む悪魔の姿であった。さきほどまで黒い上着で体を隠していただけのはずなのに、今やいかにも村娘と言わんばかりの質素ながらも可愛らしいワンピースを着ている。

「二人ともハインリヒのお友達ですか?」

 長い髪を撫でる姿は、見るものの言葉を奪い去るほどに愛らしい。ハインリヒはキュマニスの美しさを再認識した。彼女も目の前のこの悪魔のように、愛想良く笑えば良いのに。

 「おい、名無し」。シャッペラーに脇腹に肘を入れられて、ようやくハインリヒは我に返った。「あの人、本当にお前の姉さんなのか?」

 果たしてハインリヒに答える術があっただろうか。目の前でにこやかに佇む悪魔に目をやれば、無言ながらも「失言したら、ねぇ?」との殺意が返ってきた。それになにより、ここで否定した場合、どうやってこの現状を説明するんだ?

「あ、ああ、ううん」

 是とも否とも取りかねる曖昧な返事に、フープマイヤーとシャッペラーの眉間に縦線が入る。

「まぁまぁハインリヒったら、久しぶりに会ったからって冷たいんだわ。それとも一旦は普通の家の養女になったわたくしのことを、今でも恨んでいるのかしら」

 「わたくし」? 昨晩とは打って変わり、雅な言葉使いになった悪魔に、ハインリヒの顔が露骨に引き攣る。だが幸運なことに、あるいは残念なことに、乱入者二人は野郎の表情よりも美しい娘を眺めることを優先していた。

「おい、許してやれよ。謝っているじゃないか」

 許すもなにも、姉だの養女だのが一体何の話なのかハインリヒには理解出来ない。その沈黙をハインリヒと姉の問題の深さだと誤解した二人は、大きく息を吐いた。

 「なぁ」、今度はフープマイヤーに脇腹を叩かれた、「お前の姉さん、なんて名前なんだ?」

 その質問に二人、いやそれどころか何故か悪魔も参加して三人だ、がハインリヒの答えを待ち望む。悪意を含まぬ純粋な好奇心を向けられた経験のないハインリヒは、混乱のただ中に陥った。

 それでも根が純粋な彼は、彼らの興味に応えるべく、必死に記憶を漁る。この悪魔の名は、悪名高きヴォランドではなく、ええっと、確かその、「メフィ」。

 「メフィ?」 綺麗にフープマイヤーとシャッペラーの声が重なった。悪魔の唇の片方が跳ね上がる。

 「そうメフィ、メフィ……」。ハインリヒは必死だ。だが必死になればなるほどに、思い出せない。

 「メフィ?」 またしても二人の二重の声がハインリヒを追う。

「メフィ……、メフィ、すとふ……すとら? メフィ、……そう、メフィストラトス」

 「メフィ・ストラトス!」 ハインリヒの言葉を繰り返したのは二人、だが続いて「でもどうしてお前は名無しなのに、姉さんにはちゃんと名前があるんだ?」との疑問を呈したのはシャッペラー一人であった。

 その問いに、ハインリヒは固まった。確かにそうだ。

「わたくしも名無しでしたよ。ハインリヒが王女から名前を頂いたように、わたくしも養い親から名前を貰ったのです。ハインリヒが覚えていたのは意外でした」

 にっこりと微笑む悪魔、メフィ、がハインリヒの窮地を鮮やかに救った。

「試すようなことをしてごめんなさいね」

 追い打ちのように優しくこう続けられては、もはやハインリヒに言い返す余地はない。この悪魔は今この瞬間から、彼の生き別れた姉になった。

 だがどうして、とハインリヒは一人内心で首を捻る、ここまで自分のことを知っているのだろう。これもまた悪魔の能力なのだろうか、でも簡単に失神するような悪魔なのに?

「良かったじゃないか」

 ハインリヒが顔を上げると、フープマイヤーとシャッペラーの二人が今までにない善人顔で微笑んでいた。

「今までずっとたった一人で、寂しさと戦ってきたんだもんな。でもこれからはお姉さんがいるよ」

「本当だよ。心配してたんだぜ」

 ああ、とハインリヒは理解した。この二人は美しいメフィとお近づきになりたいのだ。そのために自分をダシにしようとしている。

 一体全体どんな反応を取ったものかとハインリヒが思案している最中に、もう一人の訪問者が玄関前に辿り着いていた。だが彼は「おじゃまします」ではなく、大声で叫んだのだった。

「フープマイヤー、シャッペラー! お前ら大遅刻だぞ!!」

 その大音量に、名指しされた二人が飛び上がる。慌てて戸口から駆け出した。

 外で仁王立ちしていたのは、彼らの上司であるバヴォリンスキーだった。日頃、商品製造のために室内に籠もっているがために、その立派な体格に比して肌の色は白い。

「お前ら、やっぱりここにいたな。なにが楽しくて毎朝毎朝、ハインリヒのところになんて寄るんだか。その上でこんな遅刻までしていては世話ないぞ」

「申し訳ありません」

 素直に謝る二人の姿を、珍しいものとしてハインリヒは見た。自分の前ではいつも尊大な二人だが、仕事中はこんな風に従順なのかもしれないと思う。

 そっと外を伺うハインリヒの隣に、メフィが音も立てずに現れた。下からハインリヒを見上げて唇を歪めたかと思うと、唐突に人差し指をハインリヒに突きつける。びっくりした彼はのけぞり、壁で頭を強打した。

「貴様、誰が『メフィ・ストラトス』だ。我が輩、今までそれなりに表記揺れには遭遇してきたがな、『ストラトス』は原型を保っていないにも程があるだろうが!」

 「ご、ごめん」。メフィの、いや正式な名前は何だ?、叱責の強さに押されたハインリヒは、素直に謝ってしまった。

「ごめんで済んだら警察は要らない……とは言え、今のこの世界には警察はあるんだったかな」

「今のこの世界?」

「おい、ハインリヒ、お前もお前だ」

 突如ドアが乱暴に開けられた。たたらを踏むハインリヒに遠慮など見せず、バヴォリンスキーが彼の腕を引っ張った。

 だがバランスを崩して無様に倒れたハインリヒのことは、一瞬にしてバヴォリンスキーの意識から消えてしまった。彼の視線はメフィに固定されて、動かない。その不躾な眼差しに対して、美しい悪魔は優雅に一礼して見せた。だが彼の凝視は、収まらない。

 「おい」、再度口を開いたバヴォリンスキーは、ようやくハインリヒの方に顔を向けた、その顎がメフィを示している。「これは、誰だ」。

 面倒なことになった、とハインリヒは頭を抱えたい気持ちになった。

 この悪魔は王女キュマニスにそっくりなのだ。王女の顔を知るものはそう多くはない。事実、フープマイヤーとシャッペラーは知らなかった。だがこのバヴォリンスキーは違う。商品課の幹部候補である彼はおそらく王女に会ったことがあるのだろう、この反応はそうとしか考えられない。

 事態を理解しているのかいないのか、動かないハインリヒの代わりにメフィは、バヴォリンスキーに向かって堂々と己の身分を詐称する。曰く、ハインリヒの姉だ、と。

 バヴォリンスキーは白すぎるその顔を顰めたが、結局は何も言わずに部下のフープマイヤーとシャッペラーを引き摺るようにして去っていった。

 ハインリヒに残ったのは底知れぬ不安感と、それから彼の想い人そっくりの悪魔であった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ