三
ハインリヒはひたすらに夜を待った。その間中、やはり悪魔を呼び出すなんてと囁く心と、もしも悪魔と契約を結ぶことが出来れば今までの、そしてこれからの苦痛も報われるとの考えに責め苛まれた。
今ようやく善神の化身たる太陽が、地平線へと沈み去って行く。彼の残滓が赤く空に残る様は、まるでハインリヒに思い直せと促しているかのよう。だが結局は、ハインリヒの心を変えることは出来なかった。陽は沈み、夜が静かにその両腕を広げていく。
ハインリヒは闇に紛れるために、真っ黒なマントを引っ張りだした。いつか服屋に無理矢理に買わされた、売れ残りの流行遅れの品だ。こんな黒尽くめでは、闇夜に間違って馬車に轢かれかねないと思い、今の今まで仕舞い込んだままだったのだ。まさか役に立つ日が来るとは、人生とは分からないものである。
ハインリヒはそっと外を窺った。誰もいない。当然だ、太陽が善神の化身として仰がれるのと同じように、闇は悪神の化身として忌み嫌われるのだから。
彼は極力音を立てずに、書庫から飛び出した。人目を避けるべく、道の端の草むらの傍を行く。歩きにくいその場所は、けれども普段から人を避ける、正確には人から避けられる、ハインリヒにはむしろ馴染みですらあった。
彼はただひたすらに、国境に向かい足を早める。坂の下、暗闇の中でも一層闇に暗く沈む森、通称黒の森、はノイベルグの端であり、また同時にシュトゥーベンベルグの端でもあった。
ノイベルグは遠い昔、シュトゥーベンベルグの一地域に過ぎなかった。それがいつからか発達したこの黒の森により遮られ、その当時この地を任せられていたシュトゥーベンベルグ王家の傍流であるノイベルグ家が主家から買い取る形で一国として独立したのであった。
ノイベルグ地方で最も栄えていた街は、シュトゥーベンベルグに最も近い黒い森の近くであった。あまりに平和的に国としての出発を果たしたノイベルグは、国境沿いの街をそのまま首都とし、現在にまで至った。だが本当ならば、もっと以前に移転しておくべきであった。
最初は平和そのものであったノイベルグとシュトゥーベンベルグの両国は、今やこの黒い森の所有を巡り、軋轢の中にあった。
ノイベルグは祖先が買い取った土地に、黒い森の全てが含まれていたと主張している。一方のシュトゥーベンベルグは、森はかつてと現在ではその位置を移動しており、ノイベルグの主張は無効だと言い張っているのであった。
明らかにシュトゥーベンベルグの言い分には、無理があった。そこにはノイベルグをたかが分家と見下す気配すら、隠す気も無く漂っている。
問題は、現在の森の有用性にあった。かつてはただ邪魔な存在であった森は、人口増と工業化著しいシュトゥーベンベルグにとって、歴史的な要素など踏みにじってでも喉から手が出るほどに欲しいものと化していた。
大国であるシュトゥーベンベルグは、元より居丈高な国ではあった。そうなれば、ただ古くから自分のものだったと主張はするが、ただ漫然と放置するだけで有効に森を使う気配もないノイベルグよりも、切羽詰まっているこちらに寄越せとシュトゥーベンベルグが言い出すのも当然とも言えた。
だがノイベルグとて、明確に自国のものである森を、くれてやる謂われはないのだ。
森の所有権で引く気配を見せないノイベルグに対して、次にシュトゥーベンベルグが取った手は、密輸の斡旋であった。工業力で上回るシュトゥーベンベルグの商品を非合法にノイベルグに高値で売り、そこで稼いだ金で余所から燃料を買おうというわけだ。
しかもその密輸ルートとなったのは、またしてもこの黒の森であったから、ノイベルグの反発は大きかった。が、魅力的な品と言うのは、禁止されればされるほど魅力を増し、その上高値になるもの。いたちごっこにすらならず、現状ではノイベルグが一方的に敗者であった。
密輸によるノイベルグからの金の吸い出しを密やかに行う一方、シュトゥーベンベルグはさらに、ノイベルグの再度の分家化を狙っていた。
ノイベルグ王家の王妃として、シュトゥーベンベルグ王家の娘ザビーネを差し出したのだ。加えて、彼女の生んだノイベルグ王女キュマニスを、シュトゥーベンベルグの王太子妃として迎えるべく婚約を取り付けまでしたのだ。
シュトゥーベンベルグは本気であった。だがお人好しなノイベルグは、シュトゥーベンベルグの策略に気が付くこともなく、両国の関係改善のためと喜んで婚姻を結んだのであった。所詮ノイベルグは平和に寝ぼけた田舎国に過ぎず、一方のシュトゥーベンベルグは酸いも甘いも噛み分けた大国だと言わざるを得ない。
しかも今、ノイベルグは王太子を失っていた。基本的に女王を認めぬ現代において、ノイベルグは世襲問題に突き当たったのである。シュトゥーベンベルグのなりふり構わぬ攻勢は、収穫の時期を迎えようとしていた。だがこうして手に入るとなると、王太子妃の座をノイベルグ王女になどくれてやるのがシュトゥーベンベルグには惜しくもなっていた。
そんな二国の歴史と今が詰まる森に、ハインリヒが近付いていく。彼にとってこの森は、ただ単に慣れ親しんだものであった。
彼はこの森で育ったのだ。かつての名前すら持たなかった彼は、隠者に手を引かれながらこの黒き森で眠り、生活の糧を得、時間の空いた折りには古代語の読み書きを習ったのであった。
あの頃は幸せだったと、ハインリヒは振り返る。人は苦しい時には過去を美化するものだが、それはこの少年も例外ではないようだった。実際に当時が幸福であったかは、判断に困る。なにせ裸足で森を走っては傷だらけになり、得体の知れぬ虫に刺され蛇に怯え、更には常に空腹を抱える日々だったのだから。
――だが少なくとも、かつての彼は今の彼とは違い、他人からの迫害なるものを知りはしなかった。
普通の人間ならば立ち竦むであろう闇に覆われた森に、ハインリヒは平然と進む。ある地点で彼は足を止めて、振り返った。本来ならばこの場所から木々の隙間を通して、そびえ立つ崖と、その上に月を背負い威容を誇るノイベルグ城が、見えるはずであった。だが闇夜の今日は、木々と闇の区別すら曖昧だ。
ハインリヒは一つ溜息を吐いた。彼はここから城を見上げるのが好きだったのだ。あそこにキュマニスがいると思うと、少し心が安らいだからだ。
ハインリヒは尻のポケットを漁った。いつも肌身離さず持ち歩いている金属鏡、キュマニスから貰った聖なる鏡、を取り出すとそっとその裏面を撫でた。そこにはキュマニスの紋章である百合が配されているのだ。
その凹凸を撫でながら、ハインリヒは一人で笑った。今から悪魔を呼び出そうとしているというのに、聖なる鏡を後生大事に撫でさすっているだなんて。
でも、と彼は思い直した。必ずや自分の願いを叶えてみせる。欲するのは、この金属鏡よりも美しいガラス鏡。それはきっと、シュトゥーベンベルグに対する切り札になる。きっときっと、キュマニスの期待に応えて見せるのだ。
それが今や唯一ハインリヒの名を持つ彼の望みであった。全ては、彼の命を救ってくれた、キュマニスのため。
普通の人間ならば途方に暮れそうな暗闇の中を、ハインリヒは迷いなく歩き続ける。ハインリヒが辿るのは慣れた道、彼が森の中に秘密裏に作り上げたガラス窯へと辿り着く道であった。
ハインリヒはその窯の向こうに、少し開けた土地があることを知っていた。そこで悪魔メフィ某、名前すら知らぬ悪魔、を呼び出そうと言うのだ。
知らぬ内にハインリヒは金属鏡を強く握り締めていた。迷いが再度心を揺らすが、遂には彼の決意を折る強風には育たなかった。
彼は鏡をそっと胸に忍び込ませた。万が一何かがあっても、割れないようにとの配慮であった。周囲に目を凝らすと、手頃な木の枝を手探りで探り出す。
それから先ほどの台本にあった通りに「二つの円を描き、もう一方の円にその二つを入れ」ようとして、立ち竦んだ。二つの円は良い、だが「一方の円にその二つを入れ」るとはどういうことなのだろう。円は二つしかないのに。
木の枝を片手に、一人寂しく暗闇に佇むこと暫し。これでは埒があかぬと腹を決めたハインリヒは、やけくそ気味に地面を引っかき始めた。一つの円は大きく、一つは小さく、後者が前者の中に含まれるように描いた。
そのまま跪いて、彼は祈る。だが今や悪魔への恐れよりも、これで良いのかとの疑問の方が大きい。それでもここまで決意してやって来たのだ、何も試さずに引き返すことなど出来ない。
破れかぶれのまま、ハインリヒが悪魔に祈りを捧げたのも数分のこと。呆れるほどあっけなく、変化が現れた。
最初に浮かび出たのは、羽。白く、黒く、地味で派手なそれは、ハインリヒが書庫で見たものと同じものに思えた。だが昼間に目撃したものとは違い、数限りなく、あとからあとから浮かび出てくる。
優雅に舞い落ちるそれらは、揺れる度に色彩を変え明度を変え、ハインリヒを誘惑するかのように威嚇するかのように嘲笑うかのように揺れては、地面に落ちる。ゆっくりと、けれども着実に降り積もって行く。
ハインリヒが描いた簡単この上ない魔法陣が、羽の集団によって覆い隠された。いつまでも降り止まない羽に恐怖を感じたハインリヒが慌てて立ち上がった瞬間に、地面に静かに横たわっていたそれらが、一斉に舞い上がった。ハインリヒを覆い尽くす。息も出来ない。
思わず走り出したハインリヒだが、羽たちは纏わり付いて離れない。必死に腕を振り回す彼に、闇よりも黒く、光よりも白い一枚が立ちふさがった。そして、囁いた。
「我が契約者よ、お前の願いは何だ?」
願い、その言葉にハインリヒの心が引き付けられた。そうだ、そのために来たのだ。彼のその変化を嘲笑うかのように、どこからか密やかな微笑み声が聞こえた。
「ならば契約を、ファウスト。契約期間はいつぞやのファウストが定めた二十四年。その期間中は、我が輩はお前の下僕となろう。だがその代わり、契約終了時には魂をいただく」
魂! 予想もしなかった単語に、ハインリヒは恐怖に戦いた。そんなことは先の台本には、書かれていなかったはずだ。
そんな彼の訴えが聞こえたらしく、声の主は不機嫌そうに応じた。「この阿呆め。読み落としたな」。
そうだっただろうか、とハインリヒは狼狽えながら考える。もしかしたら、そうだったのかもしれない。だが深く考える時間は彼には与えられなかった。無数の羽たちがハインリヒに再度襲いかかったのだ。
ハインリヒは反射的に手で払いのけようとしたが、そんな動作は無力だった。耐えきれずに地面に倒れ込むが、羽の主は少しも意に介さない。
羽が一方的に耳から、鼻から、口から、ハインリヒの体内に侵入する。内側を猛烈な勢いで漁っていく。それは生理的な嫌悪感を惹起しはするが、決して痛くはない。それどころか、不思議な麻薬性すら有している。
地面に転がるハインリヒを舐り飽きたのか、全ての羽が彼を手放した。そして今度はそれぞれが寄り集まり、うねり、突如、確かな何かを形成し始めた。それは色こそ美しいが、光に集まる多数の羽虫を連想させて、気味が悪い。
怯えて後ずさる彼の首を、羽の一枚が撫でた。彼に瞬く間もあればこそ、一枚だった羽に何枚かが寄り集まり、細く形の良い手へと変わった。手首から腕が、腕から肩が、肩から上半身が、と連鎖的に全身が形作られていく。
ハインリヒがその手を振り払う僅かな間に、彼の目の前には裸身の女が一人完成していた。豊かな胸、くびれたウエスト、バランスの良い尻、長い腕と脚、腰まで流れる髪は小麦を思わせる濃い金、ハインリヒを見据える双眸は萌える緑。それは誰あろう、キュマニスそのものだ。
「今更逃げることなど許さんぞ」
ハインリヒを見下ろしてキュマニスに似た「それ」は言った。だがそう脅されたところで、その裸に目を奪われている彼には、これっぽっちも伝わらない。
さすがの悪魔も異変に気が付いたようだった。不思議そうに己の姿を見下ろした彼(あるいは彼女なのだろうか、悪魔に性別があるのかどうか、寡黙にして知らない)は、思わず悲鳴を上げた。そして派手に嘆く。曰く、こんなはずじゃなかった、と。
いつからか羽は殆ど姿を消していた。それと同時に、場を覆っていた不穏な空気も霧散していた。今ここにあるのは、悪魔を呼び出さんと願う罰当たりな少年と、それに呼び出された悪魔……のはずなのだが、どう見ても悪魔の方の反応がおかしい。
「貴様の」、今や哀れとしか形容出来ない声色で悪魔は言った、「脳内から情報を引きずり出し、最も恐ろしい姿に化けたはずなのに、これじゃあただの女じゃないか」。
ああ、もう力がないのに、最後のチャンスだったのに云々と呟きながら地面に座り込むその姿に、ハインリヒの良心が痛んだ。
もはや相手が悪魔であることなど忘れ去った彼は親切のつもりで、それと同時に彼の理性のために、裸の相手に自身の黒い長い上着を差し出した。幸いなことに彼女の全身を覆えそうだ。悪魔は迷わずひったくる。
その上で、悪魔はハインリヒの襟首を捕まえると、彼を己の方へと無理矢理に屈めさせた。キュマニスと同じ顔が近くにあるせいで、ハインリヒの鼓動が跳ねる。
そんな彼の心の内など知らぬ悪魔は、上目遣いでハインリヒを睨みつけると(涙目のそれでは全く怖くないのは当然だ)、詰問した。
「素直に言え、貴様、我が輩は怖ろしいだろう!?」
恐怖とは別の感情に支配されているハインリヒは、それでも答えを絞り出した。
「なかなかの美人だとは思うけど」
「最悪だ!」
ハインリヒの懐に鏡を発見した悪魔は、迷うことなくそれを奪い取ると覗き込んだ。善神を祀る鏡が、僅かに残る悪魔の羽の光りの下で、悪魔自身の姿を映し出していた。
「何と言う美女! 我が輩は破滅だ!!」
それだけ絶叫すると、悪魔は沈黙した。否、気絶したのだ。善神を象徴する鏡が、キュマニスの紋の入った鏡が、その手から転げ落ちる。
――闇夜の黒い森には、伸びた悪魔と、そして悪魔を呼び出した少年だけが取り残されていた。