一
頬を撫でる風は、未だに冷たい。だがその冬の残り香も、これほどまでに多く集った人間が放つ熱気には、尻尾を巻いて退散するしかなかったと見える。己の持ち得る最も豪華な服で着飾ったと覚しき人々が、四方八方から一箇所めがけて押しかけては、華やかさとやかましさを発散していた。
その中に一人、ぱっとしない身なりの少年がいた。どこかおどおどとした態度の彼は、緊張した面持ちで、周囲の目を疑っていた。どうやら彼は、己の華美を誇る他の人間とは違い、ただひたすらに自身の存在感を消そうと足掻いている様子である。
しかしその必死さが仇と成り、周囲の人間たちから一人、彼は浮いてしまったのであった。木を隠すならば森の中なのだ。この華やかな集団に溶け込むつもりならば、彼もまた同じ華やかさを身に纏うべきだったのに、どうやらこの少年には分からなかったと見える。
微かに彼を誰何する声が広がっていく。ある人が上げた小声の疑問に、隣の人物が応じる。ひそひそと彼の噂が口から口へと伝染していく。彼らの浮かべる表情は、いっそ見事に一様であった。嫌悪、だ。
今や噂の人物となりつつある当の少年が、周囲の囁きに気が付かないほどに愚鈍であれば、まだ救いはあった。だが世の常として、恒常的に悪意に晒されている人間は、僅かのそれにも鋭敏にならざるを得ない。
少年は、自分を取り巻く人々の感情の変化を、単なる気のせいだと片付けたかった。気が付きたくなどなかったのだ。けれども、もはやすっかり身についた敏感さが、その誤魔化しを許してはくれない。
もはや現状は明らかだ。現実からは逃げられない。そう悟った少年はただ俯いて、静かに息を吸い、そして吐いた。この居心地の悪さなんて、自分にとって特別なことではないじゃないか、と自身に言い聞かせる。
どれほど嫌悪されたところで、少年にはここから出て行く気などありはしないのだ。なにせ彼には、「見たい」ものがあるのだから。それだけは絶対に譲れない、それに、と彼は自分に言い訳をした、それくらいの自由は自分にだって認められて然るべきじゃないか?
譲れない強い決意を胸に、少年は強く己の拳を握った。昨日作ったばかりの掌の傷が、ひきつれた痛みを彼にもたらす。だがその痛みを勇気に変えて、彼は顔を上げた。
そしてようやく彼は気が付いた。彼の周囲にはいつからか、ぽっかりとした無人の空間が広がっていたのだ。
これほどの人混み、しかもまだ後から後から詰めかけてくると言うのに、その人間たちの増え続ける圧力にすら抗って、彼の周囲の人間は彼と距離をとったのだ。彼に触れる危険よりも、より息苦しく辛い人いきれの方が良いと選択したのだ。
その事実に気が付いた時の、彼の気持ちたるや。
知らず知らず、少年の頭が再度下を向く。一方の彼の攻撃者たちは、その手を緩めはしない。ひそやかだった囁きは、徐々に大きく威圧的なものへと姿を変えようとしていた。
少年が己の我が侭を心底後悔し始めた時に、けれども鐘は鳴った。
誰の声よりも高らかで傲慢なそれが、一同を沈黙させる。儀式の始まりだ。この国の、ひいてはそこに住まう一人一人のこれからの半年の運勢を占う、祭りが。
重々しく鳴り響く鐘の音を物質化したかのように、赤い絨毯が侍女たちの手で広げられていく。直後に開門された城から規則正しく二列で吐き出されたのは、紺色の僧服に身を包んだ、聖教会に一生を捧げた男達。続く連中も同じく僧服だが、こちらは黒く、更に一部の僧は赤いケープを身につけていた。
誰かの「異端審問だ」との囁き声が届き、少年は思わず身を竦めた。その声に含まれるのは僧に対する純粋なる尊敬なのか、それとも少年に対する害意なのか判然としない。あるいはその両方なのかもしれなかった。
豪華な赤い絨毯の両脇を、僧たちが立ち埋めていく。その中で一等高貴な赤いケープ付きの僧が、無駄に儀式張った身振りで、乾燥した薪を積み上げていた。見守る観客たちの中に、緊張が広がっていく。
鐘が再度鳴る。鼓膜を、いや頭蓋を直接振るわせるほどの壮麗さで。僧が薪を一本掲げてみせた。呼応するかのように、城から新たな人物が現れた。一目で分かるほどの、その身なりの良さ。王だ。
彼が掲げるのは、大きな鏡。冬の終わり、活気を取り戻しつつある太陽を眩く反射する、金属鏡。
どよめきが群集に走った。もはや少年のことなど、誰も気にしてはいない。今まで人混みから隔離されていた彼をも飲み込んで、見物人が前へ前へと押しかける。安全を確保する任務を負った兵士が上げる注意勧告は、もはや雑音に成り下がり、何の効力も有してはいなかった。
見物人たちにとっては、この国に一枚きりしか無い巨大な鏡、それが映し出す太陽の眩さは、鏡の希少さと相まって善神の素晴らしさそのものなのであった。
更には男の持つ中年独特の恰幅の良さと、彼の身を飾る長く豪奢な赤いマントから発散される王としての威厳とが加わり、その光景は見る物の視線を奪い去って返さない。
王が一歩二歩と歩を進めた。その度に王族のみが履くことを認められている特権の靴が、誇り高い音を立てる。
同時に鏡が反射する光が、あちらこちらと揺れる。群集はその光に当たらんものと、必死に身を捩るのだが、これだけの人混みの中では、そんな努力は虚しいだけだ。
長く引き摺られた王の豪奢なマントの端を持つのは、彼に続いて現れた二人の人物。彼らの靴もまた、高らかな音を立てた。恭しくそのマントに触れるのは、王の妻とその娘であった。
見物人たちの視線が一瞬、王妃のかつての美貌の痕跡を眺めた。それから強烈に王女に向けられる。王と鏡に向けられた先刻の好意的な眼差しが、途端に色を変える。
彼女は黙したまま、王のマントに引かれるままに歩いていた。微かに俯いたその頬は若々しく、痛ましいまでに短く切り揃えられた髪は、実りの重さに頭を垂れる小麦の如き輝かしい金色。伏しがちなその瞳は、新緑の緑。
彼ら三人が歩く度に、王族独特の足音が気高く鳴り響く。春の兆しを見せる太陽と、それを反射する磨かれた鏡、長く引き摺られるマントの赤。その全てが相まって、聖なる雰囲気を否応なく高めていく。
だが今や、一つの不穏が漂っていた。その全ては王女に発している。
どうして、と少年は酷く悲しい思いに沈んだ。彼の頭には先ほど誰かが発した「異端審問だ」との、誇らしげであると共に少年を見下すかの如き台詞が甦っていた。王女はその栄誉ある異端審問の責任者だと言うのに、何故こんなにも冷たい眼差しで見られなければならないのだろうか。孤児の自分とは違い、彼女は歴とした王女なのに。
少年の抱いた疑問への答えは、近くから届いた。「本来ならばヴァレンティン王子の仕事だったのに」、「あの王女のせいで王子は死んだ」、「兄を殺すだなんて恐ろしい」。
「でも事故だって言うじゃないか」、どこからか聞こえたその反論が、少年に安堵を与えたが、それも一瞬のこと、即座に「無理矢理に貸し付けた王女の馬が原因なんだぞ、同じことだ」との言葉に虚しく踏みにじられた。
当初は囁くような声音だった糾弾も、徐々にその音量を上げていく。
「あの王女が名誉ある異端審問の責任者だなんて」、「そもそもが、女人禁制の聖教会の仕事に、王女が就くこと自体が間違っているんだ」、「でももう王の子供はあの娘だけだ」(王女のことを「あの娘」呼ばわりするこの言葉が一番少年には堪えた)、「それが、王子が亡くなるより以前に王女は、隣国シュトゥーベンベルグの王太子と婚姻を結んでいるんだよ。つまり婿取りの線は絶望的ってことさ。一体誰が王位を告ぐんだろうね?」
口々に次々に冷たい言葉が飛び出すが、その全ては、誰かが溜め息交じりに発した「この国はどうなってしまうのだろう」との疑問と不安に終着するのだった。
鐘が再度鳴った。城からまた人間が吐き出される。それぞれが勝手気ままに着飾ったその姿は貴族そのもの、襟だの裾だのに飾り付けた真っ白なレースが目に眩しく、そちらを見やった少年の眼差しは自ずから厳しくなった。
日差しに白を誇る飾りレースは、このノイベルグでは生産出来ぬ品なのだ。そして高価なレースは貿易赤字に苦しむノイベルグでは、禁輸品に指定されていた。
つまりは、彼ら貴族の有するレースは、シュトゥーベンベルグからの密輸品に他ならない。こうして堂々と身に付けているからには、恐らくは何らかの「言い訳」が用意されているのだろうが。
少年の視線は、再び王女に転じられた。彼女にも、そしてその両親の衣装にもレースは一辺たりとも使われていない。さすがに配慮が行き届いている。
だが、貴族のレース好きを止められないならば、意味は無い。少年には太陽の下で誇らかにその白さを見せつけるレースたちが、悪神の化身に思えて仕方がなかった。シュトゥーベンベルグとの国境問題を抱えるこのノイベルグに、あのレースたちは華美をもたらし、代わりに相当な量の金を奪い去っているのだ。
鳴り続ける鐘の音に導かれるように、貴族たちが王の後ろに半円状に並ぶ。真っ白なレースに飾り立てられた彼らの方が、ノイベルグの色である赤に身を包む王よりも豪奢に見える気がして、少年は思わず歯噛みをする。白はシュトゥーベンベルグの色だと知っているから、尚更だ。
だが周囲の人間たちは、少年とは意見を異としているようだった。王女に対する冷たい物言いとは一転し、彼らが貴族たちに羨ましげな眼差しを投げていることに気が付いた少年は、落胆した。
悔しいことに、と少年は思う、確かにあのレースは美しい。目を奪うに値する。だからこそ、口惜しくてならない。その羨望の的となっている真っ白なレース、あれがシュトゥーベンベルグがこの国から富を奪う手段に他ならないのだ、と知っていてはなおさらだ。
鐘が鳴り終わった。真っ直ぐに敷かれた真っ赤な絨毯、その両脇に並び立つ二列の僧は城に近付くにつれて紺一色から黒と赤の二色に色を変え、その終端には派手派手しく飾り立てた貴族たちが半円状に並んでいる。
その只中には、薪を振りかざす老僧と、巨大な鏡を捧げ持つ王が立ち尽くしている。
老僧が手の薪を恭しく、薪の山へと戻した。それが合図となり、周囲を囲うが如く立ち並んでいた僧たちが膝を折った。今まで視界を邪魔していたものが取り払われたことに、見物人たちの興奮がいや増しに高まっていく。
王が聖なる鏡を高く掲げ直した。善神の化身たる太陽の光を集め、それをただ一点、薪の山へと向ける。即座に白い煙が上がり始めた。誰しもが息を止めんばかりに、その光景を見詰める。物見高い見物人たちも、そのおしゃべりな口を噤んだ。
これは儀式、彼らに善神の加護があるか否かを見極める、聖なる儀式なのだ。
誰も身動きすらしない、緊張の時が流れていく。変化はない。希望が、好奇心が、徐々に不安に取って変わられていく。
王の掲げ持つ巨大な鏡が震えた。それを待ち構えていたかのように、空に雲が現れた。太陽光が、善神の化身たる太陽が、覆い隠される。
静寂は今でも保たれていた。だがそれは重たく、落胆の色へと変わってしまってはいたが。
ついに王が鏡を下ろした。もはや空は厚い雲に制圧されつつあり、これ以上は無用だと判断したのだろう。追随して鐘が鳴る。
その音を合図に、儀式は終わった。静々と城へと撤退していく貴族、僧、そして王。王の纏う長い長いマントの裾を捧げ持つ王妃と王女が最後尾となった。
彼らの後ろ姿に触発されたのだろう、民衆たちの密やかな話し声が戻ってきた。彼らは口々に今回の火付けの儀式の失敗を嘆く。が、そんな話題はそう長続きしはしないのが世の習いだ。
ひとしきり悲しんでしまうと、その話題は当然の如く、失敗の原因へと滑り行く。ここでも槍玉に上げられるのは、件の王女であった。
「きっとあの王女のせいで善神に嫌われたんだ」、口火を切ったのはそんな根拠のない一言であった。
だが根拠がないからこそ、この手の話が盛り上がるのだ。「何せ王女のせいでこのノイベルクの王子は失われたのだから」と後に続く。「まだ彼が存命であったならば、儀式で王のマントと並んで、正統な王位継承者の証たる王太子のマントを身に纏った姿が見られただろうに」。「あの王女はヴァレンティン王子の代わりになろうと剣を習っているらしいが、そんなことよりも、もっとやるべきことはあるだろうに」、「王女は悪神の手下ヴォランドに憑かれているのだ」云々。
そのあまりに無慈悲な言葉に、少年は思わず声を上げようとしたが、それよりも先に守備兵が少年に気が付いた。押せや押せやの見物人からの圧力から解放され、安堵の色に治められていた兵士の顔に、一瞬で怒りが燃え立つ。
「ハインリヒ司書! お前、ここで何をしている!」
その大恫喝に少年、ハインリヒ、は縮み上がった。同時に彼の周囲の人物が怯えたように距離をとる。
驚きに立ち尽くすハインリヒの首根っこを、騎乗の兵が捕まえた。そのまま引き摺るように彼を人垣から連れ出した後に、さも汚物に触れたと言わんばかりに彼から手を離した。彼が尻餅をついていることなど、意識の外だ。
「お前は自分が何をしているのか分かっているのか」、兵士の恫喝は続く、「春の祭事は聖なるもの、そのような場にお前などが出られると思っているのか」。
あまりの言い分に、ハインリヒは悔しさに唇を噛んだ。だが彼には何一つ言い返すことは出来ない。どこの馬の骨とも知れぬ孤児である彼の身分は不安定だ。彼が今兵士に切り捨てられずに済んでいるのは、王女の庇護があるおかげなのだ。
だからハインリヒは素直に頭を下げた。己のプライドよりも何よりも、彼は自分を救ってくれた王女に迷惑を掛けたくなかったのだ。
だが彼の考えは、甘かったと言わざるを得ない。本当に王女のことを思うのならば、姿を見せてはならなかったのだ。彼は引き籠もっているべきであった。彼の思いがどうであれ。
国の行く末に不安を抱く国民たちは、無意識の内に、王女を犠牲者に選び出すことで慰めを得ようとしていた。不安が大きければ大きいほどに、またそれが強まることはあれど解消される見込みがないとなれば、彼らの攻撃は悪質にそして執拗なものになるばかりだ。
ハインリヒの行為は、彼らに王女を批難する理由を与えてしまった。遠くからでも聞こえる見物人たちの声の調子に、ハインリヒもまた自分の失態を悟ったが、もはや完全に手遅れであった。
まるで腐爛した死体を見るが如く顔を顰めていた兵士は、ハインリヒの素直な態度により彼への興味を失ったようであった。最後に大きく首を横に振ると、そのまま仲間の元へと駆け戻った。
だが好奇心旺盛な人間たちは、ハインリヒを解放する気はないようだった。遠くから彼の方を見ては、ひそひそと何かを囁き交わしている。祭事という見物すべき大きなイベントが終わった今、新たな獲物の登場に歓喜しているようだ。しかも今度の標的は、どこまで悪し様に言ったところで、反撃の恐れはないのだ。
己に対する好奇心の方向性を察したハインリヒは、逃げるようにその場から立ち去った。だが、ずっと脚の早い声からは逃げられはしないのだ。
「あれは森の中で育ったんですって。そこで怪しい老人から文字を読むことを習ったとか」、「既に失われて久しい文字を読めるだなんて、なんて気味の悪い」、「しかも今は、文字の詰まった怖ろしい書物を後生大事に保管する仕事をしているんでしょう?」、ここまではハインリヒには我慢出来た、が、「あんな悪しき存在を置いておくだなんて王女は、やはり」。
ハインリヒは駆け出した。何かを叫びたいと思ったが、叫ぶべき言葉は思いつかなかった。
この怒りを誰に向けたところで、どれほど悪意を剥き出しにしたところで、彼は誰にも傷を与えられはしない。彼は孤児で、森で育った野生児であり、しかも隠者と呼ばれるいかがわしい男(ハインリヒは育ての親の名前を知らなかった、それ以前に森で保護される前には「名前」という概念すらなかったのだ。彼は物心ついてからこの方、隠者と二人きりで暮らしていたがために、人間を区別する必要性もなかった。ただ自分と他人のたった二つの区分で十分だったのである)に教育までされた、普通ではない気味の悪い存在なのだから。
誰も彼を、彼の言葉を信じたりはしない。だから彼の発言は曲解され、歪曲され、「悪しきもの」にされてしまうのだ。それどころか、全ては何倍にもなって彼自身と、そして彼に庇護を与えた王女キュマニスの評判を傷つけるのだ。
そして、その攻撃者は自分の行為に欠片も疑問を抱くことすらない。全ては正義のために行われるのだから、その執行者に何の罪があろうや?という訳である。
ハインリヒはその全てを、痛いほど知っていた。知っていたにも関わらず、彼はどうしても今度の祭事を見たかったのだ。もしかしたらそれが、王女が参加する最後の神事になるかもしれなかったから。
だが結果はこのザマだ。ハインリヒには己の無力が、口惜しくてならなかった。
だが力を得ようにも、ハインリヒの未来は閉ざされていた。どこの馬の骨とも分からぬどころか、嫌悪される身の上ではどうしようもない。なにせ名前すら、分からないくらいなのだ。
ハインリヒ、彼のその名前はキュマニスがくれた仮のものに過ぎない。それは彼女の兄ヴァレンティン王子のミドルネームでもあった。
その時に彼は願ったのだ、国民の誰もが未だにその死を悼む王子のように、立派な人物になりたい、と。だがこの現状はどうだ?
息を切らしながら駆け込んだ先は、彼の住まう書庫。独立した建物のそれは、他の人々に言わせれば「恐ろしくて気味の悪い、もはや失われた文字」を満載した、悪徳の倉庫となるのだろう。
ハインリヒ胸元から取り出した鍵で扉を開けて、飛び込んだ。暗闇が支配する空間に、彼は安堵の息を吐きながら、壁にもたれ掛かった。その厚みが彼の心に安静をもたらした。
でも、とハインリヒは肩を大きく上下させながら嘆いた。この立派な壁を持つ書庫とても、完璧なる逃げ場所ではないのだ。彼らの悪意から無関係でいられる場所など、どこにもない。