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城から広場に向かって、赤い絨毯が厳かに敷かれた。鐘が荘厳に、傲慢に、鳴り響いている。
周囲には紺衣の僧と、黒と赤の異端審問僧、加えてそれぞれが異なる色味で飾り立てた貴族たちがぐるりと立ち並んだ。やや離れて、一般の見物人たち、彼らもまた出来うる限りの盛装だ、が犇めき合っている。
誰もが息を潜めて待つ中、再度鐘が鳴った。静かな興奮の中、響くのは高らかな足音。王家独特の靴音だ。
絨毯を踏みしめる先頭の人物は、長く豪華なマントに身を包んでいた。ノイベルグ王だ。それに続く者も、豪奢なマントを着ている。それは先日、正式にノイベルグの王太女に認められたキュマニス。
二人が恭しく掲げる大きな丸いものが、太陽光を反射させて眩く輝いた。見物人たちから、感嘆の声が上がる。王と王女の手にあるのは、善神の化身たる太陽を模した、聖なる金属鏡なのであった。
今日は夏の終わりを告げる、秋の火付けの祭事の日なのだ。未だ灼熱の余波を残す太陽は、集まった人々を容赦なく照らしている。
だが今や聖なる金属鏡に匹敵するほど注目を集めるものがあった。それは、ファウスト博士、である。
今や彼が先日披露した「技術」を知らぬ者はいない。黒の森の一部を派手に燃やしたシュラクサイの鏡装置はすっかり有名となり、その使い手とされた彼も、驚嘆と尊敬の対象なのであった。
好奇の眼差しに晒されるファウスト本人は、とても落ち着かない気分であった。なにせ彼は今の今まで嫌悪や憎悪の対象にはなれども、大衆から一度たりとも正、少なくとも負ではない、目で見られたことなどなかったのだから。
彼としては、キュマニスが初めて王位継承者のマントを羽織る晴れの舞台をじっくりと鑑賞したい気持ちではあったのだが、ここまで視線を集めては平静でいられるわけもない。疑問が湧き出すのを止められない。
自分がなしたとされるシュラクサイの鏡の一件、あれをメフィストフェレスは魔法ではなく技術だと言ったが、本当にそうだったのだろうか? 事実、あの装置の焦点合わせは悪魔の力で行ったのに。
「シュラクサイの鏡は伝説だと言ったではないか」。笑い含みに囁いたのは、ファウストの隣に侍るメフィスト。キュマニスと同一の顔が、皮肉げに歪められる。だが口調はどこまでも楽しげだ。「あれはデコイに過ぎんよ。実際に森を燃やしたのは、火薬だ」。
「火薬?」
唐突にファウストは思い出した。直前に触った黒猫の硫黄の臭いは、なるほど、火薬だったのだ。
「その通り。ベゲモートに頼んで、あちこちに仕込んでも貰ったのだ。長い導火線を付けてな。我が輩やおまえが何もしなくとも、実は、時間になれば勝手にあれらは燃えたのだ」
猫の手で設置するのはさぞや骨が折れたことだろう、お前、ちゃんとベゲモートに礼をしろよと囁くメフィストフェレスに、ファウストは思わず溜め息を零した。
シュラクサイの鏡を見物に来た人たちにすら、鏡を持って参加して貰ったと言うのに、実は全く意味がなかったとは。ファウストはかなり落胆した。彼らが事実を知る日が来ないことを、祈らずにはいられない。なにせとても、喜んでいたのだから。
「別に構わんだろう」。さらりと言ってのけるのは、流石は悪魔と言うべきか。「働きの対価として鏡を一枚ずつくれてやったことだし、恐らく皆、満足しているよ」。
きっとこれに良心はないのだ、とファウストは思う。メフィストはそんな彼を見上げて、微かに笑った。
「これでおまえの名前は有名になったぞ、ファウスト博士。
今や黒の森は恐怖の対象だ。あんな事件があった上に、今ではファウスト博士の領地になったのだからな。おかげでシュトゥーベンベルグからの密輸も壊滅した。
対してノイベルグは、恐るべきファウスト博士が味方だと、有頂天だ。黒の森を通じての鏡の密輸も上首尾だしな。一方的な勝利だぞ」
確かにその通りであった。あの一件以来、ノイベルグ国内におけるシュトゥーベンベルグのイメージは地に落ちた。おかげであれほど繁栄を極めたレースの流行は終息し、代わりに誰も彼もがガラス鏡を欲しがる有様だ。現にファウストが周囲を見渡しても、貴族の誰一人すらレースを身に付けている者はいない。
「でも」、とファウストが口を挟んだ。「シュトゥーベンベルグがこのまま諦めるとも思えないよ。ロザリオは自分の秘密を守るために、暫くはアンブロシウス王子を押さえてくれるだろうけれど、それもいつまで続くことか」。
「心配などいらないさ」。メフィストフェレスの双眸が輝いた。かつては闇に沈んだことのあった右目も、今日は左と同じく新緑の緑だ。「なにせおまえはノイベルグを、いや、キュマニスを見捨てる気などないのだろう?」
その言葉に、ファウストは自分の右腕を見下ろした。悪魔との契約に署名する際に、HFの二文字が浮かび上がった箇所を、撫でる。「ひとよにげろ」。それは隠者からの、そして善神からの忠告だったのだ。
だがファウストは彼らを振りきって、このメフィストフェレスと契約を結んだ。もう戻れはしないし、それに彼には戻る気もなかった。
ファウストは視線を儀式に戻した。メフィストも彼に倣う。
悪魔とその契約者が見守る中、王と王太女が掲げた金属鏡が、今回は無事に火を生み出した。周囲に安堵の声が広がる。鐘が誇らかに鳴り響く中、音を立てて聖火が薪を喰らっていく。
だがファウストは、気が付かずにはいられなかった。自分がもう、かつてと同じようには聖なる火に神秘性を感じられないことに。それでも彼は、儀式の最難関箇所を無事に終え、ほっと息を吐くキュマニスの姿に、微笑みを浮かべずにはいられないのだった。
ずっとずっと彼女には幸福でいて欲しいと、彼は願っていた。そのために、とファウストの視線は彼の隣のメフィストフェレスへと移動する、この悪魔と契約までしたのだから。
聖なる火が薪を燃やし尽くした。祭りの終わりだ。
残った灰を王と王太女が、貴族に振りかけていく。その中に自身が含まれることに、ファウストは驚きと困惑と、そしてそれ以上の喜びをもって迎えた。
半年前の春の儀式において、警備兵に追い払われたことがとても遠い出来事に思えた。ファウストは瞳を閉じた。キュマニスの手から、灰が振りかけられる。自分の立場は今や、すっかり変わったのだ。
既に賽は投げられた。最後の、そして最も威力の高いカードを切ったのだ。契約が終了する二十四年後、果たして自分はどんな「終わり」を迎えることになるのだろうか。
何にせよ、と彼は傍らの悪魔を見た。ひらりと羽が落ちる。漆黒だ。だが今の彼は知っていた。黒がただの闇ではないことを、黒がただ他の色を塗り潰すだけではないことを。
黒は全てを内包する色なのだ。そこからどんな色を引き出すかは、ファウストの選択次第だ。悪魔は言った、自分に悪を成させるも、善を犯させるも、ファウスト次第なのだ、と。
長いマントを誇らしげに引き摺りながら歩くキュマニスの後ろ姿を見つめながら、ファウストは誓った。どんな結末が訪れようとも、後悔しないようにただ必死に生きよう、と。




