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 轟々と音を立てて、森が燃えていた。赤い火が、踊る。シュトゥーベンベルグへと続く道は、もう一つしか残ってはいない。

「さて、どうなさいますか」

 笑みを湛えた悪魔が、アンブロシウスを真っ直ぐに見詰めていた。その瞳が語るのは、脅迫であった。彼女の決断一つで、彼らは帰り道を失うのだ。

 メフィストフェレスの横に、キュマニスが己の馬を寄せた。馬上の彼女もまた、アンブロシウスを見遣る。

「私はあなたを殺したくはない」

「万が一にもそんな事態になれば、面倒なことこの上ありませんしね。

 それに今ならば、あなた方に死者はまだいない。流石に火傷を負った者くらいはいるでしょうけれど、だがまだ取り返しのつかない事態にはなっていない」

 双子よりもよく似通った二人の娘の視線を受けたアンブロシウスは、馬の向きを変えた。撤退の合図だ。

 これで全てが終わる。そうキュマニスが胸を撫で下ろした瞬間、メフィストが突如横を向いた。そこから走り来たのは、他の兵士の馬を奪い取ったロザリオだ。

 はっ、と短く笑うのは悪魔。だが彼女の隣にはキュマニスがいるのだ。

 迷い無くメフィストに向かい馬を疾走させるロザリオからキュマニスを守るために、彼の悪魔は馬を捨てた。勝利を確信したロザリオが、メフィストを蹴殺さんとした刹那、彼の馬は不自然に姿勢を崩した。

 驚きに目を瞠ったロザリオだがしかし、その執念は消えてはいなかった。二度目の落馬の最中に、メフィストの頭を包む黒衣の端を掴み取った。

 二人は縺れ合いながら、側の谷間に接近していく。

「ロザリオ!」

 普段なら絶対であるアンブロシウスの声も、今のロザリオには聞こえない。彼の手が、メフィストフェレスの髪を掴んだのだ。対する悪魔は、なんとロザリオもろとも谷に身を投げた。

「メフィ!」

 急な坂を、いや壁と呼んだ方が相応しいような角度の岩場を二人は転落していく。もはやキュマニスの声すら遠い。兵士の姿とて、一人たりとも見えはしない。

 それでもロザリオは、決してメフィストフェレスの髪を手放さなかった。不自然な方向に捻れた腕に、それでも力を入れてメフィストを強制的に捕まえると、谷底への衝突の勢いそのままに、悪魔の首を捕らえた。

 押し倒す。形勢は明らかにロザリオに有利であった。上から強く首を締め付ける彼に、それでもメフィストフェレスは余裕の笑みを見せたのだった。黒衣の下から伸ばされた真っ白な腕が(そこにはこの転落による傷の一つも見えなかった)、ロザリオの頬を撫でた。

 「我が輩、一度貴様と二人っきりで話をしてみたいと思っていたのだ。貴様から誘ってくれるとは、渡りに船というヤツだな」。首を押さえられていると言うのに、その声は普段通りに余裕綽々である。「何を隠そう我が輩、貴様のような『本物』が好きなのだよ」。

「黙れ」

「言わせろよ、ケチめ。貴様のことは実に好みだぞ、ロザリオ。キュマニスもだが、我が輩、強気な『女』が好きなのでな」

 柔らかくロザリオの頬を撫でていたメフィストの両腕が、突如、ロザリオの衣服の胸元に襲いかかった。同時に、その指の爪は長く鋭く伸びる。切っ先が服を切り裂いた。その下から現れたのは、豊かな胸、であった。

 ロザリオが飛びすさった。その衝撃で白面が飛ぶ。黒い髪が零れ落ちた姿は、どこから見ても「女」そのものだ。

 服についた汚れをはたき落としながら悠々と、メフィストフェレスが立ち上がる。胸元を隠し立ち竦むロザリオに、彼の悪魔は近付いた。

「我が主人から聞いたぞ、おまえの白面は顔の火傷隠しなのだと。そうアンブロシウス王子から説明を受けたとな。だが一体どこに、そんなものがあるのだろうな?」

 ロザリオが顔を顰める。彼、否、彼女の顔には確かに傷一つありはしない。滑らかな頬に、漆黒の瞳を有する彼女は、十人中十人が美人と形容するであろう容姿の持ち主だった。だが今はその瞳に、憎悪が燃えている。

 ロザリオの反応に気を良くしたメフィストが一つ指を鳴らせば、彼女の服の破れは全てが復元された。ひらひらと振るその手にはいつ拾ったのやら、ロザリオの印象的な白い仮面が。長い爪ももはや見られず、ごく普通の見た目へと戻っていた。

「我が輩、別段女の裸に興味があるわけではないのでな。我が輩はなんと慈悲深いのだろう、時折自分自身が信じられなくなる」

 巫山戯たその台詞に、ロザリオが再度メフィストフェレスに掴みかかった。だがその衝撃をも軽く受け止めて、メフィストは彼女に顔を寄せた。息が触れ合う。数枚の羽根が舞った。

「ロザリオ。なんだこれも偽名か。偽っているのは性別だけじゃなかったのだな」

「貴様、何故分かる!」

「何故? それをお前が聞くのか? お前にも我が輩と同じ異能があるのだろうに。相手の心を読む能力は、悪魔の専売特許ではないのだぞ。だがそう解するのが現代なのか」

 楽しげに悪魔の目が細められた。

「だがお前自身はこの能力のせいで、他人から悪しき者と見做されたのだな。そして故郷から逃げ出して、別人に成りすました」

「成りすましてなどいない。わたしは別人になったのだ」

 ロザリオの瞳が、烈しく悪魔を刺した。

 「まぁいい。生物は生まれてくる条件を選べぬのだからな。だがその後の選択は、貴様のものだ。お前が今幸福ならば、それはそれで良いのだよ」。メフィストフェレスは手の白面を、そっとロザリオに被せてやった。「光の差す場所には必ず影があるのだ。光と闇は表裏一体だと言っただろう? 善だけ、あるいは悪だけなどと分離するのは不可能だ」。

 至近距離から見つめ合う、黒と白。白には敵意が、黒には笑顔が。

「貴様の一見輝かしく、善のみに見える心にも、誰にも言えぬ悪しきウソがある。それはお前自身が、一番良く知っているだろうがな」

 今やメフィストフェレスの口調には、明らかな脅しの色が見て取れた。あれほどまでに堂々と他者を批難していたロザリオは、今や批難される側に回ろうとしていた。

 けれど、と鏡の前でファウストは思う。誰かが笑うためには、誰かが泣かなければならないのだ。全員が平等に幸せになることなんて、出来はしない。

 そしてファウストには幸福を諦める気など、なかった。だから泣かなければならないのは、彼の敵対者なのである。

「なにが、望みだ」

 ロザリオの声は、微かに震えていた。悪魔に取引を持ちかけるなど、彼女には屈辱以外の何者でもない。メフィストが高らかに笑った。

 苛立ちに駆られたロザリオが、彼女を突き飛ばす。だがそれしきのことで、この悪魔にダメージを与えることなど出来はしない。

「なにも? 言っただろう、我が輩は貴様のような『本物』が好きだと。だから出来ればこの事実を暴露したくはないな。なにせ貴様の大好きなアンブロシウス王子は、何も知らないのだろう? 良いじゃないか、知らないままで。

 だからもう二度と、このような争いが起こらないことを望むよ。また貴様の顔を見た日には、喜びのあまりにうっかり全てを白状したくなるやも知れぬからな」

「私を脅迫するつもりか」

 「まさか」。メフィストフェレスの笑みは、どこまでも楽しげだ。反比例するかのように、ロザリオの表情には嫌悪感が深まっていく。「我が輩はただ、思ったままのことを言っているだけだ」。

 異端審問僧と悪魔の眼差しが交差した。どちらも逸らそうとはしない。「ロザリオ!」膠着状態を破ったのは、アンブロシウス王子の声であった。

 何度も何度も逡巡を重ねた上でだろう。ロザリオがゆっくりとメフィストフェレスに背を向けた。

 だが「これで私を打ち負かしたなどと思うなよ。私はいざとなれば、全てを捨てる覚悟がある」との捨て台詞は忘れなかった。そんな彼女をメフィストフェレスは、静かな笑みを湛えて見送っていた。

 彼女たち二人を鏡の向こうから見詰めていたファウストは、思う。自分はきっとロザリオを、いやそれ以外の人たちをも不幸にするために、この悪魔と契約したのだ、と。

 だがそれでも、他人を蹴落としてでも、キュマニスを、フープマイヤーを、シャッペラーを、周囲の人間たちを幸福にしてやりたいのだ。他人から幸福を奪い取り、彼らに分配してやりたいのだ。

 ――そのためならば何を犠牲にしても、きっと後悔などしない。そう彼は信じた。

 彼が見上げた天からは、涙の如き雨が降り注ぎ始めていた。

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