二
ハインリヒは二人に別れを告げて、歩き出した。開いたままの傷口からは血が流れ続けていたが無視した。彼の目的地はメフィが普段暮らす、城裏に立つ針子たちの長屋だ。
最初は堂々とした足取りであったハインリヒであったが、城に近づくほどに普段との違いに気が付かずにはいられず、知らず知らず、俯いてしまったのだった。
いつもは針子を口説かんとたむろしている色男たちの姿が、全く見えないのだ。貴族に連なる者たちは金の力で国境を越え、そうでない者たちはフープマイヤーが提案したように西へと向かってしまったのだろう。
それは針子たちにも言えるようだった。普段は若い娘たちの笑い声や話し声で賑やかな長屋は、今や人っ子一人いはしない。
「メフィ」、不安から思わず発した呼び声は、けれどもただ空しく大気に溶けて消えた。「メフィ、メフィ!」
いつもは呼んでもないのに勝手に現れては、俺の心を掻き乱して立ち去るくせに、とハインリヒは悪態を吐いた。それでもメフィ、メフィ、と叫び続ける自分は、まるで迷子になった幼子のようだ、と自嘲する。
その手の子供は探している対象たる母親の名前を知らず(子供にとっては自分の母親は「母親」という存在であり、名前なる個人を特定する記号は不要なのである)、結果、その子を手助けしようとした周囲の人間は困惑するものだ。まさに自分もそうだ、とハインリヒは思う。メフィ、メフィ・ストラトス、それは彼の悪魔の本当の名ではない。
「メフィ、メフィ! メフィ、メフィス……」、必死に頭を捻る。あの悪魔の名は、「メフィス、メフィスト……そうだ、メフィストフェレス!」
だがそれでも応えはない。周囲を見渡しても、音一つない。
今更ながらに、疲労感がハインリヒを捕まえた。碌に寝ていない上に、慣れない喧嘩をしたばかりなのだ。手の傷口から流れ出る血は、まだ止まらない。
彼は地面に倒れるように座り込んだ。悪魔だけが唯一の希望だったのだ。なのに、もしかしたら、既に見限られてしまったのだろうか?
打ちひしがれるハインリヒの鼓膜が、微かに揺れた。音ではない、証拠に空気は揺れていない。誰もいない空間で、ハインリヒにしか聞こえない音が、する。
かつかつと大理石の床を踏みしめるかのような甲高いそれは、一般人には許されない靴音。ノイベルグでそれを有するのは、たったの三人。
彼の目の前に、赤が翻った。豪華な刺繍を施されたそれは、王位継承者のみが着られるマントだ。
ハインリヒは嘆息する。今、目の前にいるのは、彼が心から愛する人、守りたい人、生きる意味を与えてくれた人、だ。
キュマニスの存在自体が、自分の全てだったのだとハインリヒは今心から理解した。彼女からの否定が最も恐ろしく、それが故に、悪魔を呼び出しても契約までには至らせなかったのだ。
いつの間にか、高らかな王族の足音は消え失せていた。立派なマントもまた。全ては単なる幻覚だったのである。
ハインリヒの前に立つのは、全身を黒い衣で覆った娘。その髪は実りの重さに頭を下げる小麦の如き金色であり、その瞳は萌え出でる新芽の如き新緑。
確かにこの悪魔は、ハインリヒが何よりも恐れるものに化けたのであった。
だが彼は今、キュマニスのためではなく、自分自身のためにここにいるのだった。だからもう、その姿に恐怖を抱いたりはしない。
黒衣の娘がハインリヒをまっすぐに見た。その表情はキュマニスではなく、メフィ、否、メフィストフェレス独特のもの。悪魔の唇が優雅な弧を描く。全てを見透かすかのような、その強い眼差しにも、ハインリヒは動揺などしない。
「なんだ何度も呼んで。我が輩は我が輩を求める者の前には、いつだって参上仕るぞ。いつかの貴様の杜撰な儀式でも、ちゃんと現れ出てやっただろう?」
茶目っけたっぷりに片目を瞑る姿に、ハインリヒは思わず笑みを漏らしてしまう。本当に、この悪魔は傍若無人だ。
「我が輩は、神と呼ばれる『最も尊い』と貴様ら自身が定めたものをも踏みにじり、それでも己の欲望を叶えんとする、身の程知らずの輩の前には必ず現れるのだ。自身のためならば何者をも足蹴にして省みない剛毅な者だけが、我が輩の主たる資格を有する。
――我が輩は、メフィストフェレス。貴様らの遠い遠い先達が生んだ、かつては最も有力だった悪魔。我が輩は人間の影、人間の鏡像、そして何よりも、人間そのもの」
ハインリヒを覗き込む鮮やかな双眸の片方が、徐々に色を潜めていく。
「契約者の望むものならば、何事でも叶えてやる。全ては無限だ、ただ一つ、契約期限だけを除いてはな。期間は二十四年、これはいつぞやのファウストが自主的に決めたのだから、きっと貴様にも気に入ることだろう」
「メフィ、いいや、メフィストフェレス」
その呼びかけに、悪魔が膝を折った。ハインリヒと目線を合わせる。右目が漆黒に色を落としていた。それは何もかもを飲み込むような、それでいて全てに満たされているかのような、そしてどこまでも空虚な、黒、であった。
だがそれでもハインリヒは、対峙する悪魔に恐怖を感じはしなかった。彼を恐れるには、あまりにも長い時間を共に過ごしてしまったのだろう。
「また派手に喧嘩をしたものだな」。メフィストフェレスが、微かに瞳を細めた。「だが奴らの言い分は正しいよ。あのガラス鏡には何の瑕疵もありはない。ただただ、シュトゥーベンベルグが気に食わないだけだ」。
「しかしな」、と悪魔は続けて微笑む。「正義とは常に強者のものなのだよ、ハインリヒ。善とは自然に『ある』ものではない、『する』ものなのだ。そして貴様は弱く、貴様が愛する姫様も弱い。貴様らでは、正義を勝ち得ない」。
その静かな口調の下で、悪魔が心躍らせているのがハインリヒには手に取るように分かった。それはまるで、獲物を見つけた飢えた虎のようだ。
けれどそれでも良いと、彼は思った。自分はただ奪われるだけの犠牲者ではない。自ら己を差し出すのだ。その代わりに猛獣から、望みのものを引き出してみせる。
だから静かに彼は指を差し出した。血が伝って落ちる。
「最後のカードを切るつもりだ。この液体でメフィストフェレスとの契約を買いたい。代わりに俺の望む全てを、与えてくれるのだろう?」
「信じて良いぞ、ハインリヒ。我が輩が嘘を吐いたことがあったか? 今後は何事もお前の思う通りだよ。約束してやる」
メフィが虚無から取り出したのは、一枚の羊皮紙。真っ白なそれに、じわりじわりと漆黒の文字が広がっていく。契約書が出来上がっていく。欠けているのは、契約者の署名だけ、だ。
導かれるままに名を記そうとして、ハインリヒはふと悩んだ。ハインリヒ、それはキュマニスがくれた名前であった。彼女の偉大なる兄の、ミドルネーム。果たして自分に、彼と同一の名を使う資格があるのだろうか、との疑問がわき起こる。
キュマニスはかつて言った、重荷ならば捨ててもいいと。その彼女はたった一人で、この国を背負おうとしている。きっと彼女は今、一番力添えを必要としていることだろう。失ってしまった兄ヴァレンティン王子のような、力強い支えを。
だから、とハインリヒは名前を綴った、亡き王子に代わり自分がキュマニスの支えになりたい。
だがハインリヒの手は再度止まった、姓を書く欄があったのだ。名字、自分の名前は? しかし迷ったのも一瞬のこと。悪魔との契約者に相応しい名を思い出したのだ。
けれど心を決めたハインリヒが、再度契約書に指を走らせようとしたその刹那、耳元に暖かい何かが触れた。途端に血が止まる。文字が、書けない。腕に浮かび上がるのは、HFの二文字。「ひとよにげよ」、その囁き声は、彼にとっては昔懐かしい育ての親、隠者のものだ。
ぴたりと動きを止めたハインリヒを、メフィストフェレスは舐めるように見つめていた。その眼差しに浮かぶのは、懸念よりも面白がる気配。
悪魔の見守る前で、ハインリヒは強く首を振った。血が止まってしまった傷口に歯を立てる。迸り出た血で、彼は一気に署名を書き上げた。記された文字は、ハインリヒ・ファウスト。
彼の耳元に蟠っていた暖かな何かは立ち去った。同時に腕の二文字も消え失せた。
白地に黒と赤で書された契約書をメフィストフェレスが持ち上げた。毒々しい血の文字を確認すると、満足そうに頷く。その表情にハインリヒが安堵したのも束の間、悪魔は契約書を虚空に投げたのであった。
まるで重力など存在しないかのように不可思議に浮かび上がった紙は、一瞬で分解され、数枚の羽根に化けた。最初は白に、それから黒に、更には赤に青に黄に、色を変え明るさを変えながら、ふわりふわりと舞い、悪魔の背へと収まっていく。
ハインリヒはその光景に言葉を失した。この悪魔の印象的な羽、その全てが数多のファウストたちとの契約書から成っているのだと理解したのだ。
視線に気がついたのだろう、メフィストフェレスは黙って羽を大きく広げた。数え切れないほどの羽根が、羽根が、周囲に踊る。鮮やかで辛辣な色味が、ハインリヒを襲った。
「これでおまえもファウストの仲間入りだよ。先輩たちに挨拶をするが良い。奴らは我が輩に様々なことをさせた。我が輩は悪魔だが、しかし、それに悪を成させるのも善を犯させるのも、おまえの心次第だよ」
ハインリヒには言葉もない。今まで果たしてどれだけの「ファウスト」がいたのだろうか? あの羽の数をみれば、それは数えるのも馬鹿らしいほどの多数だと思えた。彼らは一体どのような望みを抱き、この悪魔と契約したのだろうか。己の全てを賭けるのだ、それはきっと激しく、強烈な願いだったに違いない。自分のように。
でも、と一つハインリヒの胸に疑問がわいた。数多のファウストの願いを叶え続けてきたこの悪魔にも、何かしらの願望があるのではないだろうか。このメフィストフェレスが、ただ誰かに仕えるだけの、受動的な存在だとは思えない。
「ご明察」
その声でハインリヒは我に返った。すぐ傍から、悪魔が彼を覗き込んでいた。
笑む悪魔の左目は手で隠されている。露わになった右の眼差しは、漆黒が踊る一面の闇。それは相手を居殺さんばかりに強烈だが、同時に何者をも包み込もうとするかのように優しい。
「我が輩の望みは、たった一つ。我が輩は、かつては神の顔を見た者。だからまた我が輩に、神を見せてくれ。それが悪神だろうが善神だろうが、構わぬ。
我が輩を生み出したのは、お前たちの遠い遠い先達どもだ。我が輩をこうして生きながらえさせているのは、お前たちだ。かつての神と今の神、それらがどう違うのか、我が輩が見極めてやろう。
――さて、我が輩の話はしたぞ。それでお前は、一体何を願うのだ。ファウストよ?」
ふわりと一枚、ハインリヒの前に羽が舞い降りた。漆黒のそれは一瞬鏡の如く太陽光を反射したかと思うと、直ぐに切り替わった。黒の森が映し出される。
俯瞰のそれには白衣の僧、ロザリオだ、を筆頭とする集団が見えた。城の方向から森へと入っていく。映像は徐々に高度を落としながら、彼らを追う。
明らかに森に慣れぬ馬を宥めながら、ロザリオ一行が向かった先には、燦めく甲冑の集団が待っていた。その先頭の青年にはハインリヒも見覚えがある、シュトゥーベンベルグの王太子、アンブロシウスだ。
ハインリヒは知らず知らずに、映像を映し出す「それ」を握りしめていた。それがもはや羽ではなく、彼が作り出したガラス鏡と化していることには、気が付かない。
黒の森はノイベルグの領地である。国境侵犯はいつものことと化してはいるが、武装した一団によるのは初めてのことであった。その上、どうやらノイベルグ側からの亡命者の案内までしているようだ。昼なお暗い黒の森は、迷いやすい。
「手配が早いな」。指摘したのは、メフィストフェレス。「キュマニスがおまえの引き渡しを断ったのが昨日の夜、それから一晩あのロザリオは城に泊まり、それから今出てきたところのはずだ。通信機器に乏しい現在で、キュマニスの返事が応か否かを、シュトゥーベンベルグに伝える手段があったとは思えぬ」。
自身の存在が問題のきっかけだと聞かされるのは、やはり、ハインリヒには辛い。だが悪魔は、そんな彼の気持ちなど知ったことかと、楽しげに続ける。
「それなのにこうして、亡命の手配までしてやれるほどに準備万端とはな。我が輩、シュトゥーベンベルグはノイベルグなど言いなりに出来ると、高をくくっているとばかり思っていたが……いやはやこれは、おそらくは最初から仲違いが狙いだぞ、ロザリオの要望は断られることを前提とした難癖だ。そう考えると、あやつはなかなかの演者だな」
メフィストフェレスの手が、ハインリヒの背中を叩く。
「我がファウストよ。どうだ、気が楽になったか?」
「それは」、確かにその通りではあったが、ハインリヒに肯定など出来るはずはない、「関係ないよ。どちらにせよ、事態は一緒だ」。
「それもそうだ。だが原因は何だ? 今更になって、王太子の妃の座をノイベルグなどという小国にやるのが惜しくなったわけでもあるまい。それにそれならば、もっと穏便な手があったはずだ。どうせノイベルグは逆らわないだろうしな」
悪魔は首を傾げながら、ハインリヒの手にある鏡を覗き込んだ。丁度アンブロシウス王子が、マントを身に纏うところであった。それは赤と白。シュトゥーベンベルグの異端審問を象徴する色。
「ならばつまり――ガラス鏡か。そうまでしてガラス鏡を滅したいのか。実に執拗に善神に拘る馬鹿者どもだな。この己を正義と信じて疑わぬ、阿呆どもめ」
メフィストフェレスの嘲笑に合わせるかのように、映像の中のロザリオが顔を上げた。彼は驚くべきことに、真っ直ぐにメフィストを睨んだのだ。鏡越しに異端審問僧と悪魔が見詰め合う。
動揺するハインリヒとは対照的に、当の悪魔は大喜びだ。子供のようにはしゃいで笑う。
「見たか、ハインリヒ! こいつは『本物』だぞ」
「本物?」
「そうだ、世の人間の中にはな、時折妙なのが生まれるのだ。そいつらは、人間が生んだ被造物を感知する能力に秀でている。つまりは善神の寵児、あるいは悪神の使い、だ」
「彼が?」
「彼? なるほど、そうだな」。メフィストの言葉には、揶揄の色が。だがハインリヒの怪訝な表情に、悪魔は答えない。
「さてさて、我がファウストよ。そろそろ答えて貰おうか、おまえの最初の望みは何だ?」
ハインリヒはふと視線を下に落とした。今の今まで映像を見せてくれていたのがガラス鏡だと、ようやっと彼は知ったのだ。悪魔のすらりとした指が、その滑らかな表面を撫でている。
「最初の望みは、いいや、望みは一つだけだよ、メフィストフェレス」
「そうか。ならばそうだな、この『悪神』のガラス鏡で、一つ、我が主人様のご希望を叶えてみせるとするか」
太陽光が二人を、それを反射するガラス鏡が一人と一匹とを、照らしていた。




