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 ガラスの割れるような音で、ハインリヒは目が覚めた。

 彼の眠る書庫は、完全な暗闇に包まれていた。いつも眠る前に一つ窓を開けておくのだが、それを怠ってしまったのだった。彼には何も見えない。眼を開いているのか、それとも閉じているのかも区別出来ないほどの、黒。それは全てを塗りつぶす色だ。

 ハインリヒは必死に周囲を手探りで進む。打ちひしがれて、まるで行き倒れるが如く知らぬうちに床で眠ってしまったせいで、慣れ親しんだ場所のはずなのに、どこが何やらさっぱり分からない。

 床を這う彼の手が触れたのは、冷たい「何か」。指でなぞり探った形状からして、ガラス鏡のようだ。彼の脳裏に、先刻のガラスの割れるかのような音が思い出された。

 使い物にならない目ではなく指で見るように、ハインリヒはその表面を執拗に撫でた。だがどこにも大きな傷は見つけられない。どうやら無事のようだ。

 彼はほっと安堵の息を吐く。先ほどの音はきっと単なる夢だったのだろう、との結論が彼の中で生まれた。それでも鏡の無事を知りたくて、彼はそれを目の上に翳してはみたが、何も見えはしなかった。ただの黒い塊だ。他と同じく。

 ハインリヒは一人、息を吐いた。それは今度は落胆の色をしていた。普段は光に輝くガラス鏡ではあるが、こんな暗闇の中では無力だと思い知ったのだ。光なくして、鏡は鏡になれはしない。

 何も見せぬ闇は、ハインリヒを追憶へと追いやってゆく。彼が思い出すのは昨晩の出来事だ。彼が見たのはキュマニスの背中、背筋の伸びたそれは堂々としてとても神聖であった、対する彼を見遣るメフィの眼差し、含まれていた憐憫、それは果たして誰に?

 断片が次々と甦っては、駆け足でハインリヒの中を過ぎ去って行く。ああ、と彼は腕で顔を覆った。頬に触れたガラスの冷たさが凍みるようだ。自分は無力だ。とてもとても無力なのだ。そう切実に感じてしまう。

 シュトゥーベンベルグの異端審問僧が来たとの話は、彼だって聞いていた。国境を勝手に越えてノイベルグ城まで来るのは、完全な違法行為だとも知っている。だが彼はそれ以上を知らない。僧と謁見したであろうキュマニスが何を聞かされたのか、また何を話したのか、知らない。

 だが、と彼は呻く、その内容が良いものではないこと、そしてそれに自分自身の話題が含まれているだろうことは、十分に予想出来るのであった。

 彼の手の上で、ガラス鏡は冷たく佇んでいる。その存在が今の彼には忌まわしい。全てはここから始まったのだ。ハインリヒがこの古代の遺物の再現を願い、そのために悪魔を呼び出したことから、事態は大きく動いたのだ。

 ただキュマニスのために何かをしたかっただけなのに、とハインリヒは嘆息する。けれど自分はもう、取り返しのつかないことをしてしまったのではないだろうか。

 よろよろと立ち上がった彼が、歩き出す。暗闇の中、手探りで。その覚束ない足取りの彼の前に横たわっていたのは、人形だった。そんなこととは知らぬハインリヒは、小さなそれに躓き、肩から床に倒れた。

 苛立ちのまま持ち上げたそれを、ハインリヒは戸口に向かって投げつけた。その衝撃でわずかに開いた隙間から、闇を切り裂いたのは太陽の光。善神のそれに照らされた人形は、彼にも見覚えのあるものであった。

 いつか、ああ悲しいかなそれはとてつもない過去に彼には思える、メフィが、あの悪魔が、作ったと得意そうに言っていたものだ。名前はたしかカスペル、道化だ。

 ハインリヒは戸口に這いよると、人形を拾い上げた。あの時のメフィは、この人形をハインリヒに突きつけながら、自身とキュマニスの体型の違いを教えてくれたのだった。メフィの姿はハインリヒの願望の実体化に他ならず、それはつまり彼の嗜好なのだと悪魔は笑った。

 恥ずかしさにメフィを罵る彼を躱して、悪魔は続けて言ったのだった。我が輩と契約するならば、ガラス鏡を今すぐに作らせてやる、と。

 ガラス鏡は成った。もう悪魔の手助けなど不要だ。けれど、でも。

 ハインリヒは首を振って、邪な考えを追い払った。駄目だ、絶対に駄目だ。そんなことをキュマニスは望まない。既に悪魔を呼び出してしまったのだ。それ以上は決して、駄目だ。

 ハインリヒは一気にドアを開けた。善神の神々しい光が彼の全身を貫く。

 彼の手には、まだカードが一枚残されていた、己の望みのために悪魔に魂を差し出すという選択肢だ。だが彼はそれを暗闇の蹲る書庫に投げ捨て、太陽の下に飛び出したのだった。


 ハインリヒが最初に気が付いたのは、黒の森の異変であった。普段人気のない森に(何せ闇の蹲る森は恐れられていた)、人間らしきものが複数見える。それも動く度に、何かが燦めくのだった。普通、森に入る人間は、太陽光に輝くものなど持ち込まない。

 シュトゥーベンベルグとの一件があるために、ハインリヒは最初に、何らかの小競り合いが起こっているのかとの危惧を持った。だが目を凝らして見れば、輝くのは武器でも防具でもなく、貴族連がよく身につけている装飾品だと見分けられた。

 更に見つめれば、人影の間に大きな嵩張る物があることにも気が付いた。あのサイズは家具、だ。

 ハインリヒは目を擦る。彼にはさっぱり意味が分からないのだ。金の装飾らしきものを身につけた金持ちの連中が、大荷物を抱えて黒の森を去っていく。それは一体?

「亡命だよ」

 答えは横からだった。ハインリヒが振り返れば、そこには悄然としたフープマイヤーと、憮然とした表情のシャッペラーがいた。

 かつては毎朝彼の戸を叩いては、ハインリヒのガラス作りが捗らないことを笑っていた彼らではあったが、ガラス鏡作りが軌道に乗った後には本来の勤勉さを取り戻し、かなりの労力になってくれたのだ。だがそれも、今となっては昔語りでしかない。

「ああやって白昼堂々と逃げ出しているのは、貴族連中だよ。ノイベルグの兵士には彼らに手を出す勇気なんてないし、シュトゥーベンベルグの方は賄賂で見逃してくれるってさ」

「逃げ出すって、どうして!?」

 驚愕の表情を見せるハインリヒに、フープマイヤーがますます肩を竦める。

「姫様が、キュマニス姫が、シュトーベンベルグ異端審問の要求を突っぱねたんだ。その上にノイベルグの正当な後継者として認められたんだよ。

 それはつまりシュトゥーベンベルグの王太子との婚約破棄ってことで、異端審問の例も含めてシュトゥーベンベルグの怒りを買うに違いないって噂なんだ。だから国境が封鎖されない今のうちに逃げだそうって、我が身大事の貴族様たちはお考えなのだよ」

 「おまえのせいだ」と苛立ちも露わなシャッペラーを、フープマイヤーが制止した。普段は仲の良い二人なのに、今や温度差が鮮明だ。

 「終わったことを言っても仕方がないだろう」、シャッペラーから目を離さないまま、フープマイヤーが言葉を継ぐ。「国境を越えられるのは金持ちだけだ。シュトゥーベンベルグは、ノイベルグの貧乏人に用はないってわけさ。だから」、フープマイヤーがハインリヒを見た、「俺たちはこれから荷物をまとめて西へ、国境線から出来るだけ遠くに行こうと思っているんだ。おまえも行くか?」

 フープマイヤーの提案に、シャッペラーが烈火の如くに怒った。

「どうしてこいつなんかと一緒に行かなきゃならないんだ! 元々は、元々は、こいつのせいなんだぞ!!」

 意味が分からずに目を白黒させるハインリヒの首根っこを掴み、シャッペラーが怒鳴る。「止めろ、終わったことを掘り返しても仕方がない」とのフープマイヤーの再度の言葉も、今度は効果がない。

 「こいつが!」 シャッペラーがハインリヒを地面に突き飛ばした。指をつきつける。いつも後ろ指をさされて来たハインリヒに向かい、正面から。

「こいつがガラス鏡なんて作らなければ。シュトゥーベンベルグに一泡吹かせられるかもなんて希望を与えなければ、今もこの国は平和だったんだ!」

「黙れ」

 その言葉に激怒したのは、しかし、フープマイヤーであった。先ほどまでの哀しげな様子が消し飛んでいる。飛びかかったフープマイヤーを、シャッペラーの火傷だらけの腕が受けて立った。互いに絡み合いながら、地面を転がる。

「中途半端な望みなんて残酷だよ! 夢だけを描かせておいて、望みを抱かせておいて、そのくせ、なにも出来ないなんて、そんなの生殺しだ。殺すなら一思いに殺せよ!!」

 喚くシャッペラーに、フープマイヤーが反撃した。ハインリヒの前で、親友同士のはずの二人の喧嘩がエスカレートしていく。

 「こいつのせいで」。シャッペラーの先の言葉が、ハインリヒの胸に突き刺さったまま抜けない。昨夜、シュトゥーベンベルグ異端審問僧がノイベルグ城に来たのは、やっぱり自分のせいだったのだとハインリヒは呻く。

 「だけど、おまえ、嬉しかっただろう!?」 フープマイヤーがシャッペラーの言葉を上書きした。「シュトゥーベンベルグのレースよりも売れたらどうしようなんて、無様な妄想をしただろう? 心躍らせていたくせに!」

 その発言に、シャッペラーが吠えた。

「ああそうさ! 数え切れないくらい何度も何度も、想像したよ。いつかこの鏡がノイベルグの状況を変えてくれると夢見たさ、いや信じてさえいたよ」

 居たたまれない。ハインリヒは頭を抱えた。

 いつからか彼の夢は、彼らの夢になっていたのだ。思い出すのは悪魔の声。「成功させるためには力が必要だ」。

 その通りだ。確かに自分はやり遂げた。ハインリヒにはその自負があった。ガラス鏡は完成した。その歩留まりがいかに高くとも、完成は完成だ。

 ――だが継続的な成功を、真の目的を果たすには、とハインリヒは唇を噛みしめる。力が、足りなかった。まさかここまで反感を買うとは想像だにしていなかったのである。なんと甘い、見通しだったのだろう。

 俯く彼の目の前で、フープマイヤーが石を拾った。シャッペラーに向かって振りかざすその大きさに、衝動的に間に割って入ったハインリヒだが、今度は後ろからシャッペラーに蹴り飛ばされた。

 ハインリヒの手から、人形が落ちた。誰の注意も引かないそれは、複数の足に踏みつけられ、地面へとめり込んでいく。

 「俺だって信じたよ。このハインリヒのガラス鏡が」、言いながらフープマイヤーが、シャッペラーに再度立ち向かった、「レースを押し退けて、人々が最も欲しがるものになると信じたよ! それが愚かなことだったなんて、俺は思わない。だってそうだろう? 確かにあれには、それだけの価値があっただろう!? なのに」。

 「なのに」、言葉を継いだのはシャッペラーだ、その表情に浮かぶ歪んだ笑みは誰に向けたものなのか、「見ろよ、このザマだ。シュトゥーベンベルグの異端審問はガラス鏡を異端だと、悪神の産物だと断じたぞ」。

 その言葉と共に、シャッペラーはハインリヒの両肩を掴んで、揺すぶった。容赦なく食い込むその指が痛い。だがハインリヒは理解していた。彼の怒りは、激情は、ハインリヒにではなく、現状そのものに向けられているのだ。彼の表情から見る間に憤怒が引いていく。残るのは、荒れ狂う悲しみだ。

「その上で、おまえの引き渡しを申し出たってさ! 引き渡せばおまえはシュトゥーベンベルグの異端審問によって火炙りだ。申し出を断った姫様の行いは、当然だよ」

 「そうだ」。唱和しながらもフープマイヤーは、シャッペラーに殴りかかるのを止めない。行き場のない憤りがまだ渦巻いているのだ。そして彼らには、現状を変えるだけの力は、なかった。

 その代償に、彼らは互いに互いを殴り合う。それでも口だけは止めない。余りに悔しくて、相手を、自分を痛めつけながらでなければ、言葉に出来ないのだ。言葉にしたところで何も変わらないと分かっていても、喚かずにはいられなかった。心の中に留めておくには、あまりにも大きすぎたのだ。

「悪神だとよ! おまえがあんなに必死に作ったものがさ。よく言うよな、本当によく、言うよ……。悪しきはおまえじゃない、あいつら異端審問の方だ」

 ハインリヒには、かける言葉が思いつかなかった。だからせめて、彼らを止めなかった。一緒になって殴り合った。叫んだ。まるで痛みだけが、挫折と絶望と理不尽とを覆い隠してくれると、信じているかのように。

 ハインリヒは今初めて、彼らに心からの深い感謝の念を抱いていた。尊敬を集める聖なる異端審問を悪し様に言ってまで、彼らは自分のことを庇ってくれた。信じてくれた、彼が悪しき者ではないと。どこの馬とも知れぬ自分を、古代の文字を読める気味の悪い自分を。

 それらは全て彼らのガラス鏡への思いから発しているのだと、ハインリヒは理解していた。これほどまでに彼らがガラス鏡に思い入れを持ってくれているだなんて、ハインリヒ自身は想像したことすらなかったのに。

 いつだって彼は、自分は一人だと思っていた。誰も理解してはくれないと、側にいてはくれないと、そうハインリヒは思い込んでいたのだった。けれどもきっと違ったのだ。素直ではないけれど、二人はずっと近くにいてくれたのだ。

 荒ぶる二人が、いや今や三人が、互いに殴り合う。相手が誰がわからぬままに、仕事の傷だらけの腕を振りあげ、互いの体を地面へと押し倒すのだった。血が、落ちる。

 ハインリヒは悲しかった。悔しかった。二人は毎朝毎朝ハインリヒの暮らす書庫にやってきては、彼の研究を茶化していた。だがそれは、密かにその進展を気にしていたからだったのだと、今頃になって理解したのだ。ハインリヒにしても、彼らが毎日覗きに来るからこそ、事態を進展させようと必死になったのだった。

 ハインリヒは、もっともっと彼らのことを知ろうと努力するべきだったのだ。けれど彼は自分が普通ではない、卑下されているに違いないとの思い込みから、自ら卑屈になっていた。彼らの行為が照れ隠しだったことなんて、よく見ればハインリヒにだって分かっただろうに。

 だが全ては今となっては虚しく、憤りだけを生む。彼らがここまで信じたガラス鏡は、彼らが希望をかけたガラス鏡は、悪神のものとして否定されたのだ。

 ハインリヒの胸元から、鏡が零れ落ちた。キュマニスの紋が入った彼のガラス鏡だ。地面に落下したそれは地面を転がり、小さな石にわずかに跳ね上がったかと思うと、真っ二つに割れた。

 その様に三人は動作を止めた。互いに血塗れの顔を見合わせる。割れたガラス鏡がとても不吉なものに、この鏡がもう「終わった」ものであると証明するかのように、静かに輝いていた。

 沈黙と静寂が支配する中で、最初に動いたのはハインリヒであった。

 彼は割れたガラス鏡に歩み寄ると、拾い上げた。鋭い切断面が、彼の指を深く切る。水のように血が流れ落ちていく。だがハインリヒは眉一つ、動かさなかった。

「ありがとう」

 最初は鏡に向かって、それから二人を振り返って、彼は晴れ晴れと感謝の言葉を述べた。「ありがとう」。その顔は血と泥で汚れ、頬は腫れ上がっている。

 言われたフープマイヤーとシャッペラーは、その意外な言葉にただぽかんと口を開けた。

 先ほどまで怒り狂い殴り合っていた彼らの、実に間抜けなその表情に、思わずハインリヒは笑ってしまった。だからこそ、素直に言えた。

「今までずっと二人は、俺のことを見ていてくれたんだろう? 俺のことを信じてくれて、ありがとう。力を貸してくれて、ありがとう」

 二人が気まずそうに俯く様に再度笑って、ハインリヒはきっぱりとした口調で言った。

「だから今度は俺が借りを返す番だ。必ず何とかして見せるよ」

「……何とかって」

 口ごもるフープマイヤーの肩を、ハインリヒが叩いた。血がべったりとフープマイヤーの衣服を汚す。

 その様を見下ろしながら、ハインリヒが顔を歪めた。彼の手の中には一つ、たった一つだけまだカードがあったのだ。先ほど闇に捨て去ったはずのそれを、彼は拾おうとしていた。

 かつて彼は言われた、「成功するためには力が必要だ。そして貴様にはその力があるのか?」と。その声の主には、常に欲しているものがあった。それは。

 「自分の手札を考えろ」との言葉が、今、彼の胸の中で確かな形を取り始めた。「貴様には一枚、とっておきの札があるだろう」と、アレは言ったのだ。

 それを今切ろうと、ハインリヒは決意したのだった。対価が何であろうと、彼にはもう気にもならなかった。

 真っ直ぐに前を向く彼の背後で、彼らに踏みつけられた人形が無言で地面に転がっていた。その四肢は何故か切断され、見るもおぞましい断面を晒していた。そしてその衣服はもはや道化ではなく、博士らしき衣装へと変わっていたのだった。

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